321話「罅」
――ギギギギ、ガコンッ……。
私たちの背後で、重厚な鉄の機構が不穏な唸りを上げ、フォーマルハウトの巨大な正門が重々しい音を立てて再び完全に閉じられた。
嵐の後の静寂が広域を支配し、這々の体で門を潜り抜けた私と特使団の仲間たちは、数週間ぶりにこの連邦の首都へと足を踏み入れたのだった。
しかし――。
私の前に広がっていたのは、かつて訪れた時に目にした、あの目眩がするほど美しく煌びやかな水上都市の姿ではなかった。
かつてのフォーマルハウトは、帝国から導入した近代的な鉄骨構造とガラス建築が立ち並びつつも、古都特有の深みのある水路と石畳が静かに息づく、美しき交易の中心地だった。
縦横無尽に街を網の目のように巡る運河には、色鮮やかな小舟が行き交い、人々の威勢の良い掛け声と潮風の匂いが街全体を包み込んでいたはずだったのだ。
けれど、今私の目の前に広がる景色には、どこか窒息するような重苦しい沈黙が漂っていた。
幾重にも組み上げられた美しい水路には小舟が一艘として通っておらず、水面はまるで油を流したかのようにどんよりと淀み、黒く濁った反射を見せている。
かつて一糸乱れぬ規律と洗練された振る舞いで街を巡開していた、人魚兵たちの姿もどこにも見当たらない。
建造物の窓はことごとく厚い木の板で内側から目隠しされ、人っ子一人出歩いていないその佇まいは、まるで街全体が一夜にして巨大な墓標か廃墟へと変貌してしまったかのようだった。
「……ひどい……。これが、あのフォーマルハウトだなんて……」
私が思わず絶句し、立ち尽くしていると。
聖教騎士の頑丈な腕の中に抱えられていたメロフィが、小さく掠れた声で私へと顔を向けた。
「……案内。私に……ついてきて、ください。ミラク様と……エリダヌス連邦議会の、議長様がお待ちです……」
「……ええ、わかったわ。行きましょう、みんな」
メロフィの脚部には、魔法を使用した代償として、鮮血のような不吉な赤の亀裂が皮膚の下から透けて浮かび上がっていた。
彼女はその痛みに可憐な顔を歪めながらも、自分を抱き抱えている騎士の肩を指先でチョンチョンと突き、進むべき方向を指示して私たちを導いていった。
淀んだ水路に沿った静かな石畳を歩いていく中。
そんな中、私の隣を歩く少女――セラエナが、どこか神妙な、思いつめたような顔つきで声をかけてきた。
「……百思不解。ノクティア様、一つよろしいでしょうか?」
「どうしたの? セラエナ、どこか体を傷めたの?」
私は驚いて彼女の全身を検分した。
セラエナは先ほど、メロフィと共に空中へと踊り出て、あの流星の超長距離砲撃を真っ正面から迎撃してくれたばかりだ。
規格外の物理的衝撃を受けているはずであり、どこか骨が折れていたり、魔法の反動で重傷を負っていても何らおかしくはない。
もしも彼女という強大な"姫"が戦線離脱してしまったら、今後の戦いにおいて取り返しのつかない損失となる。内心焦りを覚え、真剣な眼差しで理由を尋ねる私に対し――。
セラエナは腕を組み、非常に慎重で真面目な顔つきのまま、案内役として前を行くメロフィの背中へとじっと視線を向けた。
「……彼女。確か、ミラク様と共にいた少女ですね。"姫"になり損ねて"遺棄層"へ落とされた者、と記憶していますが……」
「……ええ、そうらしいわね。私も詳しい経緯までは知らないけれど……でも、ミラクが彼女を信じて同行させている以上、悪い子じゃないはずよ」
もしかすると、プレアデス聖教国の幹部として、"遺棄層"という暗部から生還したメロフィに対して何か複雑な立場上の確執でもあるのだろうか。
私は場を宥めるように、柔らかくフォローの言葉を入れようとしたのだが――。
セラエナは深く、深く眉間に苦しげなシワを寄せ、真剣そのもののトーンで私に囁きかけてきた。
「……ノクティア様。深刻な問題です。彼女と私……完全にキャラが被っていませんか?」
「……は?」
私の思考が、一瞬完全に停止した。
「四字熟語を多用する私に対し、彼女は二字熟語を頭につけるスタイル。さらに敬語ベースの喋り方に、戦闘スタイルは二人とも足技メインの戦術……! これは……属性の過多、あるいは役割の被りと言わざるを得ません!」
「……」
「しかも彼女は、あんなにも小さく儚げで、可憐な守ってあげたくなる雰囲気を醸し出しています! このままでは私の"真面目敬語足技キャラ"という立ち位置が、完全に喰われてしまう危険性が――!」
――無視することにした。
私は静かに首を横に振ると、ブツブツと一人で苦悩の作戦会議を始めているセラエナをその場に置き去りにし、メロフィの後ろをそそくさと追って足早に歩み去る。
そうして、暗い水路と古い石造りの建造物の合間を縫って辿り着いたのは――エリダヌス連邦議会の本丸であり、かつて諸国の首脳が集って歴史的な議論を交わしたあの場所。
"大星潮会議"の舞台となった大殿堂――"晶潮館"であった。
記憶の中にある"晶潮館"は、圧倒的なスケールと美しさを誇っていた。
天井に届こうかという巨大な硝子の柱の内部を、淀みのないな海水が絶え間なく循環し、重厚な鉄骨の梁と精緻な建造技術が融合した大空間。それは水の都エリダヌスの果てしない富と最新の技術、そして海への絶対の敬意を象徴する最高峰の建築物だった。
――しかし。
数週間ぶりに訪れたその晶潮館もまた、街の惨状と同様に、どこか寂しく色褪せて見えた。
巨大な硝子の柱を流れる循環水は濁って勢いを失い、壁面に施されていた美しい光の装飾も落とされ、館全体が不気味な冷気と暗がりに包まれている。
「到着。……それでは、今、扉を……」
案内を終えたメロフィが、自らの脚の痛みに耐えながら、聖教騎士の腕の中から立ち上がろうとした、まさにその時だった。
ガコンッ……!
晶潮館の正面に設置された、重厚な金属の重門が、内側から唐突に口を開けた。
重々しい開閉音と共に、夕闇の差し込む玄関口へと姿を現した人物――。
「――遅かったじゃない、ノクティア。……待ちくたびれちゃったわよ」
背筋をピンと一筋の隙もなく伸ばした、気品溢れる仁王立ち。
どこまでも尊大で、どこまでも気位の高さを窺わせる、力強いハッキリとした声音。
「……ミラク! よかった、あなた……無事だったのね――!」
無事な姿で私を迎えてくれたその声に、私は弾けたような安堵感を覚え、彼女へ向かってパッと駆け寄ろうとした。
――けれど。
私の足は、あと一歩のところで、石畳の上へと釘付けにされて凍りついた。
「……っ!?」
――私の瞳が、目の前に立つ彼女の姿を鮮明に捉える。
そこに立っていたのは、間違いなく私の知るミラク・シュピーゲル=セプテニアその人だった。
けれど……かつてあんなにも眩しく、一筋の汚れも許さなかった彼女の純白の戦装束は至るところが引き裂かれ、間に合わせのように不完全に仕立て直されていた。
そして、何よりも――。
彼女の細い首筋から胸元、両腕、さらには服の隙間から覗く足首に至るまで。
彼女の全身の至るところには、痛々しいほどに幾重にも巻きつけられた白い包帯と、未だ治り切っていない生々しい傷痕や熱傷の跡が、痛烈に刻み込まれていたのだ。
片方の目元にもうっすらと紫色の打撲痕が残り、彼女が自らの足で立っていること自体が奇跡と思えるほどの、満身創痍の痛ましい惨状。
「ミラク……その傷……一体、何があったの……?」
私の震える問いかけに対し。
ミラクは眉ひとつ動かさず、強がりでも何でもなく、ただ凛とした瞳で私を真っ直ぐに見つめ返してきた。
「それも、話さなきゃいけないわね。今のこの街がどうなっているのか、私たちの敵が、どんな相手なのか――」
空気が張り詰める。晶潮館の前には、本物の死線を潜り抜けてきた者だけが纏う、ヒリヒリとした重圧と緊張感が立ち込め始めた。
「中に入りなさい。お祖父様……セプテニア公も、エリダヌスの新しい議長も、中で待っているわ」
ミラクはそう告げると、傷を感じさせぬ優雅な振る舞いで身を翻し、晶潮館の深奥へと歩き出した。
私はゴクリと息を飲み、重傷を負ったギエナやメロフィ、そしてセラエナたちを引き連れ、彼女の背中を追って寂れた晶潮館の中へと足を踏み入れるのだった。




