317話「包囲網を前に」
かつて、グラスベル領で"魔法使い"ポーラから教わった、フォルナクス帝国の歪んだ歴史と軍事の変遷――。
そんな過ぎ去りし知識の記憶を脳内で静かに反芻しながら、私は遠くの地平線へと向けて緋色の瞳を注いでいた。
私たちが現在、陣を取っているのは、エリダヌス連邦の首都フォーマルハウトの全景を一望できる、周囲より一段小高くなった荒野の丘の上であった。
乾いた風が吹き抜け、ドレスの裾を微かに揺らす。砂の混じった潮風でべたつく髪を撫でつけながら、ぽつり。
「……意外と、静かなものね」
眼下の景色を見下ろしながら、私の唇から零れ出たのは、安堵が混じった感傷の言葉だった。
丘の下、はるか遠くに広がる、美しき水上都市フォーマルハウト。
その巨大な外郭城壁の正面――正門を取り囲む広大な平原には、やはり密集した無数の黒い点――フォルナクス帝国の大連隊とその車両がびっしりと全域を埋め尽くしていた。
事前に作戦室の地図の上で確認していた通り、その戦力の密度は凄まじいの一言に尽きる。
本当に一万人もの兵隊がいるのかどうか、この距離から一極集中で正確に数え上げることなど不可能だったが、それでも、今まで私たちが各地で遭遇してきた局地的なテロ行為や隠密工作とは、明らかに次元の異なる規模の侵攻であった。
文字通りの戦地。大陸の歴史を塗り替えるための大規模な軍勢。
――だが。私の胸の中に生じたのは、その圧倒的な物量への恐怖ではなく、奇妙な違和感だった。
「しかし……。哀鴻遍野、街全体がすでに焦土と化している可能性も見越していましたが、思ったよりも遥かに静かに見えますね」
セラエナがどこか拍子抜けしたような調子で、そう口にした。
彼女は率いてきた一千人の聖教騎士団と信徒部隊を、敵の斥候から隠すように丘の背後の巨大な岩場に待機させ、自らは私のすぐ隣に並び立って正門付近を凝視していた。
確かに、彼女の指摘する通りだった。
フォーマルハウトの城壁は頑強に閉じられており、防衛障壁の輝きがうっすらと都市全体を覆っているものの、大規模な砲撃の煙や爆音、街が炎上しているような惨状は見受けられない。
私たちがプレアデス聖教国を出発してから二日間、現地で先行していたミラクの孤軍奮闘か、あるいは連邦の底力のおかげで、何とか持ちこたえてくれていたのだろうか。
「ええ、今回は間に合わなかったわけじゃないみたいね……」
そこまでを認識した私は、胸を撫で下ろそうとした。
しかし――すぐ横で、腕を組んで干し肉を噛みちぎっていたギエナは、私やセラエナの甘い推測を、一刀のもとに切り伏せた。
「いーや、お嬢様方。流石にそいつぁ楽観が過ぎやすぜ」
ギエナは噛み終えた干し肉をゴクリと飲み込むと、褐色の顔をしかめ、冷や汗を顎から伝わせながら苦々しく首を横に振った。
「おじさんからすりゃあ……この死んだように静かな状況ってのが、一番おっかねえ"詰み"の盤面に見えやすぜ」
「……どういうこと、ギエナ?」
私の疑問の問いかけに対し、ギエナは空いた片手をポケットに突っ込みつつ、眼下の帝国軍の陣形を冷酷なもう片方の指先で指し示した。
「連中はよ……本気を出せば、今すぐにでもあの連邦の喉元なんか力任せに食い千切れるだけの威力を揃えてんでさぁ。……だが、それを敢えてしちまわねえ、明確な理由があるってことですよ」
「……? 迅速果断、敵の拠点を即座に破砕し、占領を完了させるのが軍略の鉄則では? 理由もなく足止めを食うなど、指揮官の無策ではありませんか?」
首を傾げ、疑問を口にするセラエナ。
そんな、彼女の無垢な意見に対し、ギエナは横目でチラリと視線を向け、呆れたように鼻を鳴らした。
「聖教国の指揮官殿は綺麗好きのいい子ちゃんですねぇ。……あんた、個人の剣技や隊列の指揮は強いんだろうが、兵法に関しちゃ、半可通もいいところだ」
「なっ……、無礼千万! 私はプレアデス聖教騎士団の全指揮権を任された幹部筆頭ですよ! 愚弄するのも――」
「――誘ってるんすわ、敵の指揮官はね。たぶん、俺たちみてえな他国の救援部隊が、あの城壁の中にすんなりと入っていくのを待ってんだ」
ギエナの眼光が、猛禽類のような鋭さを帯びて、フォーマルハウトを包囲する黒い軍勢の最深部へと向けられた。
「……おびき寄せられている、ってこと? 私たちが……?」
「へえ。まあ、そういうことでさぁね。……んでもって、俺たちやら他の救援部隊が『今行くぞ!』ってあの街の中になだれ込んだ瞬間……たぶん、広域殲滅が可能な兵器――大型の爆弾か何かをドカンと叩き込んで、街ごと全員まとめて吹き飛ばす気でしょうよ」
「――っ!?」
ギエナの提示した冷酷な推論に、私とセラエナの息が同時に止まった。
「り、理解不能!」
セラエナが、感情を隠すことなく、叫ぶように声を荒げた。
「そんなことをすれば、無辜の市民も、歴史ある水上都市も、すべてが粉微塵になってしまいます! 瓦礫の山を占領したところで、帝国にとっても何の価値もないではありませんか!」
「"価値"なんて、無くていいんでしょうよ……連中にとっちゃあね」
ギエナは自らの耳の裏をガリガリと掻きながら、心底吐き気がするというような呆れ顔で吐き捨てた。
「そも、あいつらの後ろで糸を引いてる"マッチ売りの少女"って奴ぁ、この世界そのものを残らず灰燼に帰そうなんて、イかれた連中でしょう? ……奴らからしてみりゃあ、あのフォーマルハウトという場所――大陸の東における海の玄関口と、港湾の機能さえ押さえられりゃあ、街や市民の命なんぞ、オマケ程度に考えてんでしょうよ」
私は胸元を強く握り締め、深く頷いた。
あの“マッチ売りの少女”の目的は、自らの不条理で世界のすべてを焼き尽くすこと。
国家の繁栄も、市民の命も、歴史ある文化も、彼女にとってはただの燃やすべき薪に過ぎないのだ。
「……厄介ね、それは。なりふり構わない狂人を相手に回すほど、やりづらい戦いもないわ」
私の同意の言葉を聞き、セラエナはハッと目を見開くと、まるで何かに気がついたかのように前のめりになる。
「で、ではッ! 明哲保身――罠だと分かっている以上、フォーマルハウトへの迂闊な突入は避けるのですね!」
しかし――ギエナは静かに首を横に振った。
「いや。むしろここはもう……突入以外の選択肢はねえでしょうよ」
「なっ……。し、支離滅裂! あなた、さっき自分でこれは罠だと言ったばかりではありませんか!」
「ああ、言ったさ。……だがねぇ、今の俺たちは、そんな危ねえ毒餌だと分かっていても、喰らいつかざるを得ねえんですわ」
「……ギエナ、私にも納得できるように説明してくれるかしら」
私が鋭い眼差しを向けると、ギエナは顎を擦りながら、静かに、重々しく言葉を紡いだ。
「たぶんですがね……帝国の連中はあと数日もしねえうちに、ここエリダヌスだけでなく、我らがヴァルゴ王国や、あんた方聖教国へも、同時に本格的な侵攻を開始すると俺は踏んでます」
「……なんですって!?」
「驚くようなことじゃねえですよ。……我々ヴァルゴ王国特使隊ってのはさぁ、王国全体から見ても相当にデカい単体戦力なんですわ。その主力であるお嬢様方を釘付けにしておいて、その隙に手薄になった本国を叩く……軍略としちゃあ、定石でさぁ」
「なら、私たち聖教国はどうなのですか!?」
セラエナが食ってかかる。直情的な彼女は、恐らくギエナの言葉に納得できていないのだろう。
この手合いは、言い負かすまで黙らない――それは、ギエナにもわかっているようだった。
「教国から出兵したのは、私と、この千人の騎士たちだけですよ! 大聖堂にはまだ十分な防衛戦力が遺されています!」
「ま、でしょうがね。流石に、最高司教カリオペ殿が倒れたという情報は、国外にも伝わっているでしょうよ。となれば、教国が揺らいでる真っ最中なのも丸わかり。……攻め込むにゃ、これ以上ない絶好の機でさぁね」
すべてを見通すような、老練な兵士の目。
ギエナは眼下に広がる包囲網の景色を冷酷に測定しながら、結論を口にした。
「そんな状況で、俺たちゃいつまでもここに縫い留められてるわけにはいかねえんですわ。……罠だと分かっていても、物流の要である連邦を力ずくで救い出して、次の本国防衛戦に備える。……そうしねえと、大陸全体が手遅れの灰になっちまいますぜ」
逃げ場のない二択。
罠だと知っていながら、敵の差し出した猛毒の盤面の上へと自分から飛び込まなければならないという不条理。
私は眉をひそめ、眼下の包囲網の隙間を必死に捜索した。
「なら、問題はあの凄まじい敵の密度ね。近代兵器で武装した一万人の兵を、一体どうやって突破しようかしら……」
私は脳内を検索し、蓄えた"童話の知恵"の中から、突破に使える戦術的な示唆を引き出そうと焦燥した、その時だった。
――チッチッチ。
ギエナが自らの人差し指を横に揺らし、ニヤリと力強い、不敵な笑みをその無骨な貌に浮かべてみせた。
「まあ、まあ。お嬢様方、そう焦りなさんな。……たまにゃあね、おじさんが、"プロの戦い方"をご覧に入れやすよ」
三十年前の大戦において、若くして大陸全土にその名を轟かせた――"砂の鬣"。
彼は荒野の風にその外套をなびかせながら、フォーマルハウトの城壁を見据え、頼もしすぎる不敵な笑みを浮かべるのだった。




