315話「鏡と兎」−後
「――っ!?」
ミラクの全身の毛穴という毛穴が一瞬にして開き、脳内のシグナルが耳を聾するほどの悲鳴を上げた。
走っていた脚を強引に摩擦で停止させ、地面の土を派手に巻き上げながら、ミラクとバナビー、そして生き残りの兵士たちは一斉に頭上へと視線を跳ね上げた。
月光すら届かぬ鬱蒼とした大樹の太い枝の上。
そこに、夜の闇と同化するようにして、膝を抱え、身体を丸く折りたたんで座り込んでいる一人の少女の影があった。
桃色がかった白髪のベリーショート。
頭上に伸びる、兎の長い耳を象った歪な額当て。
バニーガールを思わせる黒い革のボディスーツと、網タイツに包まれた、人間のものではない膨らみを帯びたしなやかで巨大な手足。
「……ルー、ナ……っ!!」
ミラクの喉から、血の混じった憎悪の叫びが漏れ出た。
なぜ。どうしてここにいる。
殿を務めたあの強者たちが、命を懸けて彼女を足止めしていたはずだ。この装甲車の全速力をもってしても、まだほんの数キロしか離れていないこの距離に、どうしてもう先回りして待ち伏せしているというのか。
樹上の少女――ルーナは、ニヤニヤと歪んだ笑みをその可憐な貌に浮かべながら、ミラクたちの絶望的な表情を心底楽しそうに見下ろしていた。
そして――彼女の長い指先には。
「……あ――」
ミラクの視界が、一瞬にして真っ白に染まった。
ルーナの指先に無造作に吊るされた、いくつかの丸い物体。
月光のわずかな隙間に照らし出されたそれらは――息を呑む間もなく、先ほどミラクたちを逃がすためにその場に残った、"掌"の殿部隊の隊長や兵士たちの、無残に引き千切られた生首だった。
見間違えるはずもない。
つい小一時間前まで、ミラクに向けてと笑いかけ、死地へと向かっていった、あの頼もしい仲間たちの顔。
目を見開き、無念の表情のまま血を流して転がる、かつての仲間たちの頭蓋。
「あはっ! なんかさぁ、ボクを置いて逃げようとするからさぁ、引き留めるのにちょっと力が入っちゃったじゃァん?」
ルーナは枝の上でクルリと身を翻し、軽やかに、何の音も立てずに地上へと舞い降りた。
彼女の全身からは、漂うだけで大気を物理的に歪ませるほどの、圧倒的で濃密な殺意が溢れ出している。
「みんな『ミラク様をお逃がしするんだ〜!』とか言っちゃってさぁ、すごく必死で可愛かったよぉ? でもさぁ……ボクの脚からは、誰も逃げられないんだよねッ!」
「……許さない……っ! 許さないわよ、あなただけはぁぁぁぁッッッ!!!!」
ミラクの精神のタガが、派手に弾け飛んだ。
仲間たちの生首を眼前に突きつけられ、それを踏みにじるような侮辱の言葉。理性を焼き尽くすほどの猛烈な怒りが、彼女の胸の奥で眠っていた魔力を狂暴なまでに暴走させた。
「……"七人の虚人"ッッ!!!!」
ミラクが愛剣を虚空へと掲げ、喉が裂けんばかりの絶叫と共に魔力を全開に解き放つ。
彼女の周囲の空間が鏡のように滑らかに歪み、そこから七体の分身が生み出された。
七人のミラク。それぞれが本物と何一つ変わらない圧力を放ち、殺意を帯びた剣を構え、月下に立つルーナを死角のない全方位から一斉に睨みつける。
この時点でのミラクの、最大出力の魔法。物理法則を超えた、逃げ場のない多重攻撃。
だが――ミラクの全開の魔法を目にしても、ルーナはただ、クスクスと不気味に肩を揺らして笑うだけだった。
「へえ! いーじゃん、いーじゃん、すごいじゃァん! あはははは! ねぇ、ミラクちゃん! 最初からそれくらい本気になってくれればさぁ……あの自慢の部下たちも、死なずに済んだかもしれないのに……ねッ!」
ドッッッ!!
次の瞬間。ルーナの手元から、凄まじい風切り音と共に何かが飛来した。
それは――先ほど彼女が手に携えていた、生首の一つだった。
殺された部下たちの頭蓋が、凶器としてミラクの顔面目掛けて弾丸のような速度で投げつけられてくる。
「――っ!?」
避けるべきか。それとも、受け止めるべきか。あまりにも悪趣味で、あまりにも惨酷な二択。
ミラクの思考が、ほんの一瞬――激しい動揺によって白くフリーズした。
戦場における、そのコンマ一秒の躊躇。
魔力を帯びて跳ねる怪物にとって、そのわずかな隙は、致命と称するのに十分すぎるほどの時間だった。
シュインッ!
投げつけられた生首がミラクの視界を遮った、まさにその刹那。
ルーナの姿が空間から完全に消失した。
次の瞬間には――ミラクの眼前に、巨大で惨酷な兎の脚部が、超至近距離で顕現していた。
ガゴォォォォォォォンッッッッ!!!!!!
重爆撃機の直撃にも匹敵する、圧倒的な質量と運動エネルギー。
ルーナの放った凶悪な蹴りが、ミラクの薄い腹部へと、正確に直撃した。
「ぐ、……ぁっ、カハッ……ッ!!???」
ミラクの口から、肺の中のすべての空気と、大量のドス黒い血液が体外へと派手に吐き出された。
身に着けていた軽装鎧が粉々に砕け散り、肋骨が嫌な音を立てて軋み、激しい衝撃波が彼女の内臓全体を無惨に叩き潰す。
視界が激しく明滅する。
ミラクの肉体は、人間の耐えられる速度を遥かに越えた弾丸と化して、後方の樹海へと向けて一直線に吹き飛ばされた。
バキバキバキバキッッ!!
太い大樹の幹を三本、四本と力任せにへし折りながら、地面の泥と岩を派手に削り取り、何十メートルも先の大地へと無様に転がっていく。
「ミラク様ッ!!!!」
遠くで、バナビーの悲痛な叫び声が聞こえた気がした。
だが、ミラクの意識は激しい途切れを見せ、全身の神経が焼き切れたような絶望的な激痛に苛まれていた。
ズザザザ……と、血溜まりの中でようやく勢いを失い、うつ伏せのまま動けなくなった彼女は、もはや痛みすら感じなかった。
ダラダラと自分の口から溢れ出る血が、冷たい泥を赤く染めていく。
薄れゆく意識のフチで、彼女の視線が、奇妙なほどゆっくりと、すぐ目の前の地面へと向けられた。
そこに落ちていたのは――。
先ほどルーナによって投げつけられ、地面に激突して脆く砕け散ってしまった、仲間頭蓋骨の破片だった。
あるはずもないのに、割れた頭蓋の奥に、光を失ったかつての部下の瞳を見る。
それが、まるで無言で訴えかけているかのようで、ミラクの瞳をじっと映し出していた。
(あ……、あ――)
自分の無力さ。
大切な部下たちすら一人も守れず、祖父を救い出すこともできず、ただ惨めに泥を舐めて倒れ伏している、惨めな現実。
悔しかった。泣きたかった。自分の情けなさに、胸が張り裂けそうだった。
けれど――砕け散った部下の頭蓋骨を見つめながら、ミラクの胸の底、魂の最深部で燃え上がったのは、諦めや絶望などでは決してなかった。
血の味が満ちる口内で、彼女は歯を食いしばり、消えかける意識の糸を力任せに繋ぎ止めながら、心の中で強く、強く、呪いのように叫び続けていた。
(強ければ、私が、強ければ……ッ)
脳裏に浮かぶ、様々な顔。
エリダヌスで戦った"赤の女王"、"アリス・リデル"、そして――目の前の"かぐや姫"。
あんな化け物どもに、二度と踏みにじられないために。
大切な祖父を、残された仲間たちを、自分のこの手で絶対に守り抜くために。
(もっと……もっと、圧倒的に……強く――ッ!!!!)
――これが。
ミラク・シュピーゲル=セプテニアという"姫"が、さらなる強さを求めてプレアデス聖教国の門を叩く直接のきっかけとなった、血塗られた敗北の記憶。
そして、フォルナクス帝国が誇る最悪の"姫"が一人――“月夜に狂ったかぐや姫”ルーナ・ホップ=アクティアスとの間に刻まれた、決して消えることのない、宿命の因縁の始まりの夜だった。
◆◇◆




