315話「鏡と兎」−前
◆◇◆
――時は、ノクティアたちがガーランドで負った戦いの傷を癒していた頃に遡る。
ミラク・シュピーゲル=セプテニアは、疾走していた。
一寸先すら見通せぬ、深い樹海に包まれた漆黒の夜闇。大気を湿らせる湿気と、木々の葉が擦れ合う不気味なざわめき。その静寂を切り裂いて、彼女の足音は湿った黒土を激しく跳ね上げていた。
純白であったはずの彼女の軽装鎧は、泥と、煤と、そして自らと仲間のドロドロとした鮮血によって惨めに汚れ跳んでいた。胸の奥が焼き切れるかのように熱く、呼吸を刻むたびに肺の奥から血の味がした。
彼女が伴っていたのは、あちこちがボロボロに傷つき、絶望的な疲労の中で荒い息を吐き続ける直属部隊"掌"の生存者たち。
そして、その中央を守るようにして、低いエンジンの重低音を響かせて低速で這う、一台の黒ずんだ鋼鉄の車体――フォルナクス帝国製の装甲自動車だった。
装甲車の装甲には、鋭利な刃物によって力任せに切り裂かれたような生々しい爪痕が深く刻まれ、排気管からは黒煙が途切れ途切れに吐き出されている。いつ動力を失って停止してもおかしくない満身創痍の鉄の塊。
"掌"の隊員たちは、自らの身体を肉の盾とするようにその装甲車の周囲を厳重に囲み、血に汚れた長槍や銃を夜闇のあちこちへと警戒して向けながら、必死の行軍を続けていた。
ミラクのすぐ隣を走るのは、彼女の老執事であり、セプテニア家に長年仕え続けてきたバナビーだった。
彼の身に纏う執事服もあちこちが引き裂かれ、その額からは生温かい血が流れて白髪混じりの髪を赤く染めている。そして何よりも――かつて数多の戦場でいかなる苛烈な攻撃をも跳ね返してきた彼の大盾は、その表面の半分以上が力任せに削り取られ、惨惨たる亀裂が蜘蛛の巣のように走っていた。
「……随分と、少なくなりましたな」
荒い息を押し殺しながら、周囲の暗がりへと警戒の視線を巡らせ、バナビーもしみじみとした重い呟きを漏らした。
その言葉の意味を噛み締め、ミラクは激しい悔しさに唇を噛み締めた。
ミラクの直属部隊である"掌"は、元々中隊規模……二百人余りの精鋭によって構成された手勢だった。
フォルナクス帝国が誇る他の"姫"たちが率いる部隊――例えば、"赤ずきん"アンタレスが率いる奇襲部隊"胃袋"や、"アリス・リデル"アルゴラの手下である強襲部隊"爪先"といった軍勢に比べれば、その数はわずか半分、あるいはそれ以下に過ぎない。
これは元々、ミラクがフォルナクス帝国の特使であり、絶大な力を持つ“姫”という立場にありながらも、他国に対してどこまでも融和派の姿勢を崩さず、無暗な軍拡や殺戮を嫌っていたことが原因であった。
けれど、彼女の下に集っていたのは、かつて彼女の祖父であるセプテニア公の薫陶を受け、何十という修羅場をくぐり抜けてきた、国の中でも屈指の精強な戦士たちばかりだった。ミラクにとってはただの部下ではなく、この世界を訪れてからずっと、優しく見守り、鍛え上げてくれた、家族同然の大切な人々。
しかし、そんな歴戦の勇士たちも――度重なる激闘の果てに、いまやその数を当初のさらに半分以下、四十人足らずにまで減らし尽くしていた。
「……恐らく、時間稼ぎのために殿へと戻った者どもは、もう生きて帰らんでしょうな」
どこか悲しげに、けれど己の内に込み上げる弱気を決してミラクに見せぬよう、バナビーは前方を凝視したまま静かに呟いた。
「……ええ」
短く、喉の奥から絞り出すように返事をしながら、ミラクはちらりと視線を、すぐ横を這う装甲車の小さな覗き窓の方へと向けた。
(お祖父様……どうか、ご無事で……)
頭の中で、数時間前の出来事が、血の匂いと共に鮮烈に再生される。
――セプテニア公をフォルナクス帝国の魔手から奪還する作戦は、途中までは完璧に、予定通りに進んでいたはずだったのだ。
ミラク自身が他国への融和姿勢を強め、ついにはフォルナクス帝国の軍部からの命令を拒否して離反の色を強めたことにより、帝都の軍上層部は怒り狂った。
彼らはミラクを牽制し、屈服させるための人質として、彼女の唯一の血縁であり要人でもある祖父・セプテニア公に対し、即座に帝都への出頭命令を突きつけた。出頭とは名ばかりの、実質的な拘束であり処刑の宣告を。
ミラクと"掌"を除けば、セプテニア家はほとんど戦力らしい戦力を保有しない。
帝国側もわざわざ大軍や他の"姫"を差し向けるような真似はしないはずだ。移送の警護に当たるのは、精々が通常の警備部隊程度に留まるだろう――。
そう分析していたミラクは、セプテニア公が領地から引き出され、フォルナクス帝国から訪れた使いの手に引き渡されるまさにその寸前の地点において、密かに配置していた精鋭たちと共に電撃的な奪還作戦を決行したのだった。
作戦は完璧だった。
奇襲は成功し、使いの警備部隊を瞬く間に無力化して、囚われていたセプテニア公の身柄を無事に確保した。
あとはこの装甲車にセプテニア公を押し込み、帝国の追撃が届かない安全圏――エリダヌス連邦の防衛線まで一気に走り抜ければ、すべてはミラクたちの勝利で終わるはずだったのだ――。
――ただ一つの、誤算を除いては。
『――あーれー? なんだよ、なんだよォお! ボクを抜きにしてお楽しみなんて、寂しいじゃァん!』
夜闇の彼方から突如として響き渡った、あの耳の奥をねじるような、甲高くも邪悪な甘ったるい猫撫で声。
移送ルートの最奥、脱出用の橋を渡ろうとしたまさにその瞬間。
ミラクたちの前に降り立ってきたのは、フォルナクス帝国が誇る、最悪の"姫"の一人だった。
ルーナ・ホップ=アクティアス。
"月夜に狂ったかぐや姫"の物語を背負うその少女は、現れるや否や、獣のような狂暴な笑みを浮かべ、襲いかかってきた。
――その戦闘は、戦いと呼べるような代物ですらなかった。
"掌"が誇る歴戦の猛者たちが、何が起きたのかを認識することすらできない速さ。ルーナの異形の大腿部から放たれる一撃一撃は、鉄の甲冑ごと兵士たちの肉体を破砕し、頭蓋を爆砕していった。
助けに入ったミラク自身も、自らの魔法を全開にして力を振るったものの、ルーナの狂暴な力の前には手も足も出ず、その凄まじい一撃を正面から喰らって吹き飛ばされ、激しく血を吐いて打ちのめされてしまったのだった。
力の差は歴然だった。
このまま全滅を待つか、それとも誰かが命を捨てて道を拓くか。
ルーナには絶対に敵わないと瞬時に悟ったミラクは、悲鳴を上げる装甲車のエンジンを強引に駆動させて無理やりの逃走を開始した。
半数の部下たちが、自らの命を薪にしてルーナの前へと立ち塞がり、決死の殿を務めたのも大きいだろう。
彼らが肉の壁となってルーナの足をわずか数分間だけ繋ぎ止めてくれたおかげで、ミラクたちはどうにかその惨劇の場から逃げ延びることに成功したのだった。
成功――そう、形式上はセプテニア公の奪還に成功した。
しかし、その代償として失ったものの大きさは、ミラクの魂を酷く削り取っていた。
「……許さないわ。あの、クソウサギ女……!」
奥歯が壊れるほどに強く噛み締め、ミラクは小さく、けれど燃え盛る怒りを込めて呟いた。
この世界に"姫"として降り立ってからというもの、右も左も分からなかった自分を常に支え、守り続けてくれた部下たち。
ある意味では、実の父や兄以上に行動を共にし、家族のように自分を慕ってくれた"掌"の仲間たちを――あの狂った兎は、ただのおもちゃを壊すかのような無邪気な残酷さで、無残に奪い去っていったのだ。
「……ミラク様。お気持ちは……痛いほどお察しいたします」
隣を走るバナビーが、血に濡れた横顔をさらに歪ませ、低く重々しい声で言葉をかけた。
「ですが、今は皆の死を無駄にせぬよう、逃げ延びるのが先決でございます。一刻も早く、あの化け物の射程外へと……」
「……わかってるわよ。言われなくても、そんなこと……っ! とにかく今は、安全圏まで――」
バナビーの悲痛な諫言に対し、ミラクが悔しさに顔を歪めながらそう返答した――まさに、その次の瞬間だった。
「ざーんねん。"安全圏"なんて、この世のどこにもないよん」
ヒタッ。
頭上の樹々の隙間から、まるで夜露が滑り落ちるかのような唐突さで、その不気味な声音は降ってきた。




