314話「訣別と出立」
「――わりぃ、あたしはここまでだわ」
大広間の緊張感を一瞬で霧散させるような、あまりにも平然とした、けれど絶対に揺らぐことのない冷たい声音だった。
「……え?」
私は思わず目を見開き、壁際からゆっくりと身体を起こしたカノンの顔を凝視した。
だが、私よりも早く、信じられないというような、悲鳴に近い声を張り上げたのは、私の隣に立っていたアルトだった。
「な……何を言い出すんですか、カノン様!? ここからの局面、帝国との戦いにおいて、"姫"の戦力は大変貴重なものになります! 一人でも多く、味方にいていただかないと――」
「そんなの知ったことかよ」
アルトの必死の説得を、カノンは鼻で笑うようにして切り捨てた。
彼女は組んでいた腕を解くと、肩にかかった髪を乱暴に払いながら、肩をすくめてみせた。
「あたしが"髪長姫"の奴に頼まれてたのは、ノクティアちゃんに同行してこのプレアデスにいる間、命を守ってやることだけだぜ。聖教国でのゴタゴタが片付いてシャウルちゃんも無事に戻ったんだ、これで契約満了、無罪放免、お役も御免ってとこだしな」
素っ気なく、まるで最初から他人事であったかのように淡々と告げるカノン。
さらに彼女はそこで、自らの薄い唇をどこか不気味に、邪悪な歪みをもって釣り上げてみせた。
「それに――あんたら、まさか勘違いしてねえだろな? そもそもあたしは、最初からあんたたちの身内でも仲間でもねえ、いつだって都合よく暴れてるだけの戦闘狂なんだぜ」
カノンの全身から放たれた、どこか冷ややかで狂暴なプレッシャー。
偽悪的な笑みを浮かべる彼女のその絶対の不条理の威圧に、アルトは思わず気圧され、それ以上言葉を続けることができずに一歩後退してしまった。
自分をどこまでも悪として位置付け、これ以上自分と深い絆を結ばせまいとする彼女の不器用な態度。
私は、そのカノンの瞳の奥にあるものを感じ取りながら、静かに首を横に振り、彼女に向けて穏やかに語りかけた。
「……ええ、そうだったわね。……ここまで本当にありがとう、カノン。……シャウルを救い出すことができたのは、間違いなく、あなたのおかげよ」
自然と口をついた、真っ直ぐな感謝の言葉。
カノンは一瞬だけ苦々しそうに眉をひそめ、フンと鼻を鳴らして視線を逸らした。
「……はっ、礼なんて要らねえよ。別に、あたしはあたしの暴れたいように暴れただけだしな」
吐き捨てるようにそう残すと、カノンは一度も振り返ることなく、大広間の重厚な扉に向かって背を向け、一人で歩き出した。
カツン、カツンと響く彼女の足音。
その背中は、どこまでも気高く、どこまでも不敵で――そして、どこか胸が締め付けられるほどに寂しそうに見えたのだった。
「……カノン」
去りゆく彼女の背中を見つめながら、私はぽつりと呟いていた。
「……まあ、いつ道を違えて敵に回るかわからん危ねえ奴だったとはいえ……純粋な戦力としちゃあ、大幅な減算でさぁね。そいつぁ、否めねえ事実ですよ」
ギエナが自らの頭をガリガリと掻きむしりながら、肩を竦めて苦々しく呟く。
けれど、私はただじっと、カノンが去っていった扉の向こう側の空間を見つめ続けていた。
カノン・ドロテア=エメラルダ。
確かに彼女はかつて、私たちの前に立ち塞がった、凶悪な敵だった。
苦悩の末に歪み、世界のすべてをあざ笑うかのように暴れ回り、私とも命を懸けて刃を交えた存在。
その事実を忘れたわけではない。彼女が私たちの完全な味方になったわけではないことも、頭では分かっていた。
けれど――本当に、私は彼女と分かり合えていなかったのだろうか……?
あの日の晩餐会で、大聖堂の最上階で、彼女が見せてくれたあの不器用な優しさや、隣に並んでくれた時の頼もしさ。
共に戦い、確かに私たちの間には、言葉を超えた何か通じ合うものが存在していたはずなのだ。
(……いつか、また……笑い合って並び立てる日が、来るのかしら……)
胸の中にふと湧き上がる、ぽっかりと穴が開いたかのような切ない寂寥感。
去っていった彼女の無事を祈り、私が自らの感情を整理しようと胸元を握り締めかけた――まさに、その瞬間だった。
バァァァァァンッッッッ!!!!!
カノンが静かに開けて去っていったはずの大広間の重厚な扉が、今度は壊れんばかりの猛烈な勢いで内側へと押し開かれた。
「ご心配には及びません、ノクティア様っ! ここからの遠征には、この私が同行いたしますので!」
凛とした、けれどどこか暑苦しいほどの熱量を孕んだ少女の大声が、広間全体へと響き渡った。
「え……!?」
私の胸に広がっていた切ない寂寥感が、そのあまりの突風のような乱入によって一瞬にして吹き飛ばされる。
驚いて視線を向けると、そこには一人の少女が、胸を限界まで張り、両拳を固く握り締めながら大股でこちらへ歩み寄ってくる姿があった。
後ろで一つに固くひっつめた黒髪。その身に、黒いレオタードのような体に張り付く服を纏っているのが印象的だった。
華奢でありながら、鍛え上げられたしなやかな体つきの彼女は、その二つの瞳に、燃え盛る火の玉のような輝きを湛えている。
「……あなたは……?」
私が気圧されながら問いかけると、彼女はまるで定規で引かれたように、角度の完璧な敬礼を繰り出してみせた。
「はいっ! プレアデス聖教騎士団、幹部筆頭のセラエナ・レイク=オーディットと申します! プレアデスの"姫"が一人として、ノクティア様と共に、必ずやあの悪しき帝国を打ち破って見せましょうっ!!」
「え、ええ……。よろしく、セラエナ……」
フシュー、と鼻息を荒くしながら、猛烈な力強さで両手で握手を求めてくるセラエナ。
そのあまりのテンションと、グイグイと間合いを詰めてくる圧に、私は引きつった苦笑いを浮かべながら、思わず半歩後退してしまった。
「その子――セラエナにはさぁ」
私の背後から、リラがいつもの間延びした声音で、くすくすとおかしそうに笑いながら助け船を出してくれた。
「うちの聖教騎士団と信徒部隊の現場指揮権を、そのまま預けてあるからねぇ。私とエレクトリアは、最高司教を失ったこの教国の後始末と防衛のために、しばらくの間はここを離れるわけにはいかないからさぁ。……少しの間、その子と仲良くしてあげてねぇ」
「お任せください、リラ様!」
セラエナはビシッとリラへと向き直ると、胸を張って力強く言い放った。
「ノクティア様のお供として、必ずや役に立ってみせます! あんな、礼儀も弁えない乱暴者で自分勝手な"ドロシー"なんかよりも、私の方が遥かに優秀で、頼りになるということを証明してみせますから……!」
メラメラと、背後に燃えるような気合を背負いつつ、謎の対抗心をむき出しにして拳を握り締めるセラエナ。
(……本当に、大丈夫かしら、この子……?)
カノンへのライバル心、あるいは何かしらの執着だろうか。そういったものを隠そうともせず、鼻息を荒くする新しき随行者。その暑苦しいほどの直情径行ぶりに、私は一抹の不安と頭痛を覚えながらも、ともかく、これで用意は整った。
「さあ、出発いたしましょう、ノクティア様! 聖教騎士団の先鋒部隊は、すでに大聖堂の門前で整列を完了しております!」
「ええ、そうね……。行くわよ、みんな!」
私はドレスの裾を激しく翻し、セラエナの熱量に引っ張られるようにして、大広間の出口へと向かって力強く一歩を踏み出した。
去っていったカノンの残影。
王国へと向かうシャウルとザラ。
ガーランド公国へと走るアルト。
そして、新たに加わった熱血の騎士セラエナたちと共に、エリダヌスへと急行する私とギエナ。
それぞれの想いと、それぞれの使命を胸に。
私たちは今、分散した足跡を刻みながら、決戦の地へと向けて、疾風のごとく駆け出したのだった――。
――これが、エリダヌス連邦の首都フォーマルハウトが陥落する、四日前の出来事であった。




