312話「跳梁跋扈」
「――"かぐや姫"、……"月夜に狂ったかぐや姫"です……!」
血を吐くような伝令の絞り出したその一言が、朝靄の立ち込める街道の静寂を一瞬にして切り裂いた。
「――っ!?」
その名を耳にした瞬間、ミラクは息を飲み、背後で控えていた直属部隊"掌"の隊員たちの間にも、地鳴りのような緊張と激動の波線が走った。
"月夜に狂ったかぐや姫"。
それは、他でもない――かつてミラクの祖父であるセプテニア公を帝国から救出するため、決死の脱出劇を繰り広げた際、彼女たちの前に立ち塞がった、最悪の"姫”"の名前。
ミラクに拭いがたい苦汁を舐めさせ、誇り高き"掌"の精鋭たちの半数以上をその場で命を奪い去っていった、血塗られた因縁の宿敵。
(……あの女が、エリダヌスへの侵攻軍の指揮を執っているというの……!?)
ミラクの胸の奥で、かつての敗北の屈辱と、仲間を殺された激しい怒りの炎がドロドロと過熱し始める。だが、彼女は震える拳を強く握り締め、必死に表面上の冷静さを保った。
「……そう、わかったわ。もう十分よ、あなたは休みなさい」
ミラクは伝令の男の肩を優しく叩くと、駆けつけた救護班の部下たちへと彼を静かに託した。
意識を失いかけた伝令を担ぎ上げる部下たち。そして、プレアデス大聖堂へと馬を爆走させて緊急事態を知らせに向かう使者。それらの背中が朝靄の向こう側へと完全に消え去り、十分な距離が離れたことを視線で確認してから、ミラクはゆっくりと前を向いた。
「……バナビー」
「……なんですかな、ミラク様」
いつも通り冷静を装う老執事の声。けれど、その仕込み杖を握る指先には、尋常ではない力が込められていた。
「後先は、もう一切考えなくていいわ。ここから連邦の首都フォーマルハウトまで、最短最速の強行軍で向かうとしたら……一体どれくらいの時間で辿り着けるかしら?」
ミラクの一切の迷いを排した冷徹な問い。バナビーは一瞬だけ、脳内で緻密な距離計算と部隊の疲労限界を弾き出す素振りを見せた。
「……当初の行軍計画では、今晩どこかの町でもう一泊を挟み、明日の昼頃に到着する予定でございました。しかし……馬を潰し、火急の行軍を敢行するとあらば、数時間はその到着を早められるでしょう」
「遅いわ」
ミラクは間髪入れずに首を横に振った。
「――私の魔法も全開で使うわ。全員の馬の足を魔力で加速させ、"七人の虚人"の分身たちも人手として使う。……今日の夜、日付が変わる前までに、何が何でもフォーマルハウトまで辿り着くわよ」
日付が変わる前までに、フォーマルハウトへ。
それは、人間の肉体や馬の体力の限界を遥かに無視した、文字通りの強行軍の提案だった。普通ならば部隊の自滅を招く無謀な策。
――しかし。
ミラクのその決定に対し、背後に並ぶ"掌"の隊員たちから異を唱える者は、ただの一人も存在しなかった。
全員が知っているのだ。ミラクが自らの祖父であるセプテニア公に対してどれほど深い敬意と、実の親以上の親愛の情を寄せているかを。
そして何より――今ここにいる隊員たちは全員、あのセプテニア公奪還戦において、"かぐや姫"という化け物の爪によって、共に泣き笑った大切な同僚や戦友たちを奪われた遺族でもあった。
これ以上、あの狂った不条理に大切なものを奪われてたまるか。
隊員たちの目が、静かな、けれど刺すような戦意を爛々と輝かせ始める。
「いい!? みんな、フォーマルハウトに着いたら……恐らく、想像を絶する数の帝国軍を相手取ることになるわ!」
ミラクは胸を張り、純白の甲冑を輝かせながら、愛用の聖剣の柄へとその手をかけた。
「最後まで、私についてきて頂戴。……塞がれたどんな敵の陣形も、道はすべて――この私が切り開いてみせるわっ!!」
「「「ハッッッ!!!!」」」
空間を震わせる、一糸乱れぬ精鋭たちの叫び。
それを耳に、ミラクは自らの胸の最深部で脈打つ、新しき力へと意識を向けた。
かつての敗北の時、彼女は"かぐや姫"に翻弄され、ただ苦戦を強いられることしかできなかった。
けれど――今の彼女は、かつての未熟な自分とは決定的に異なっている。
あのプレアデス大聖堂における過酷な死闘と修行を経て、彼女の手には、"根源"の魔法が握り締められているのだから。
(……今度こそ、あの戦いの借りを返して、落とし前をつけさせてやるわ。……あの、狂ったクソウサギ女……っ!)
ミラクが自らの全身に魔力を滾らせ、それを周囲の全軍へと注ぎ込もうとした――まさにその瞬間だった。
「――っ、ミラク様ッッ!!!!」
不意に。
それまでミラクのすぐ隣に控えていたバナビーが、裂帛の気合と共に前方の空間へと疾風のように飛び出した。
ガガガガガギィィィィンッッッッ!!!!!
バナビーが自らの仕込み杖を閃かせ、空間を覆い尽くすほどの巨大な"鏡の大盾"を展開する。ミラクの身体を後ろへ庇い隠すようにして立ち塞がる、絶対防衛の姿勢。
直後――ドンッ! という、重爆撃機の直撃でも受けたかのような絶大な打撃圧と衝撃波が、派手に炸裂した。
「ぐ、がぁぁぁぁぁっっっ!!!???」
バナビーの悲鳴。
幾多の過酷な戦いをも耐え抜いた彼の鏡の大盾が、何の前触れもなく、ただ一撃の圧倒的な物理の質量によって内側から歪に叩き潰され、彼自身の巨躯ごと、弾丸のような速度で後方の地面へと無残に吹き飛ばされたのだ。
「なっ……、バナビー!? 大丈夫――」
ズザザザザと地面を滑り、派手に土煙を上げて転がる老執事の姿。
ミラクは驚愕のあまりそちらへと視線を向け、助け起こそうと声をかけようとした。
――しかし。
ズズ……と。
前方の空気そのものが歪み、狂おしいまでの圧迫感が津波のように押し寄せてきた。
ミラクの全身の毛穴が一瞬にして開き、網膜の裏側に警鐘が鳴り響く。彼女の視線は、バナビーの方へと向かうことを本能的に拒絶され、前方――自らたちが乗っていたあの馬車の屋根の上へと、吸い寄せられるようにして固定された。
「――いよう。ひさしぶりじゃァん、ミラクちゃん」
静まり返った街道に響き渡る、どこまでも甘ったるく、どこまでも軽薄で、小動物が喉を鳴らすような不気味な猫撫で声。
馬車の屋根の上、朝焼けの朱色を背にして、膝を抱えるようにして自らの身体を歪に折り畳みながら、こちらを見下ろしている一人の少女の姿があった。
彼女の髪は、月光を溶かし込んだかのような、ほんのりと桃色がかった白髪のベリーショート。
その額の真ん中には、長い兎の耳を象った、歪な装飾の額当てのようなオブジェクトが怪しく固定されている。
身に纏っているのは、身体のラインを極限まで露出させた、張りのある黒い革製のボディスーツ。
――有り体に言えば、あちらの世界のバニーガールを思わせる、あまりにも挑発的で歪な出で立ち。
けれど、その少女の全身の中で、最も圧倒的な異常性を放っていたのは――網タイツに包まれた、手足の異形さだった。
彼女の太ももから下の大腿部は、肉体のバランスを完全に無視して丸く、巨大に膨れ上がり、その爪先は人間のものではなく、巨大な野兎のそれのように異様に長く伸びている。
同じく、ボディスーツの袖から覗くスラリと長い手の先もまた、人間の指先というよりは、鋭い爪を備えた兎の解剖学的な構造へと不気味に変調させられていた。
"月夜に狂ったかぐや姫"――ルーナ・ホップ・アクティアス。
彼女は、冷酷で侮蔑に満ちた笑みをその唇に浮かべながら――真っ直ぐにミラクの両眼を見据えていたのだった。
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