310話「赤と白」
◆◇◆
――時間は、ノクティアがプレアデス大聖堂のベッドの上で一週間の眠りから目を覚ます、数時間前まで遡る。
東の地平線から朝焼けの朱色がわずかに滲み出し、湿った冷気が地面を低く這う早朝。
プレアデス聖教国の東国境沿いに位置する、ひっそりとした小さな農村。そこで夜を明かし、手早く身支度を整えたミラクたちの行軍列は、冷え切った街道を踏みしめながら、一路、エリダヌス連邦を目指して東へと馬を進めていた。
カタコトと規則的な車輪の回転音が響く、列の中ほどに配置された大きめの馬車。
その重厚な揺れの中で、豪奢な純白のドレスを身に纏った一人の美貌の少女が、我慢の限界とばかりに眉を釣り上げていた。
「……それにしても、やっぱり私、ぜっんぜん納得がいかないわーッ!」
バンッ、と革張りの座席を掌で叩き、ヒステリックな叫び声を上げたのは、他でもないミラク・シュピーゲル=セプテニアだった。
言うまでもなく、現在のエリダヌス連邦の最高戦力であり、あの大聖堂の下層において、狂信に囚われた数千の信徒たちの怒濤の進撃を、たった一人で完封してみせた当千の"姫"。両手を大袈裟に振り上げる、彼女の顔には、明らかに不満の色が滲んでいた。
「なによノクティアの奴! 私に重大な時間稼ぎを押し付けておいて、自分たちは最上階の"祭儀場"で美味しいところだけ持っていくなんてずるいわ! 私だって……私だって、あの白銀の化け物や教国の裏幕たちとの最終決戦に参加したかったーっ!」
ドサリと背もたれに深く体重を預け、悔しそうに脚をバタバタと揺らすミラク。
そんな彼女の正面の座席に腰掛け、静かに茶の注がれた革製の水筒を手にした老執事――バナビーは、困ったような、けれどどこか微笑ましそうな苦笑いを浮かべて宥めるように声をかけた。
「まあまあ、ミラク様。お心はお察しいたしますが、ミラク様が怒涛のように押し寄せる狂信的な信徒たちの波を完璧に塞ぎ止めてくださったからこそ、ノクティア様も余計な背後の憂いなく、全力を尽くしてシャウル様を救い出すことができたのです。ノクティア様もきっと、ミラク様のその目覚ましいご活躍には、心から感謝しておりますよ」
「感謝してるなら、私が発つ前に目を覚まして、直接礼の一つくらい言いなさいよッ!」
ミラクはぷいと横を向いて腕を組んだ。
「せっかく私が大聖堂の激闘を終えて、真っ先に彼女の寝顔を確認しに行ってあげたのに……。私が旅立つその瞬間までぐっすり眠りこけてるなんて、本当……バカなんだから」
吐き捨てるような言葉。だが、その語尾には、憤りとは異なる――どこか切なく、ノクティアの身体を深く案じるような柔らかい響きが混ざり込んでいた。
根がどこまでも優しく、情に厚い彼女だ。
目の前で不満を撒き散らして暴れているのは、命の危険を冒してまで戦い抜き、未だに昏睡状態から目覚めないノクティアを本気で心配していることへの、恥ずかしがり屋な彼女なりの照れ隠しなのだろう。
バナビーはそんな彼女の不器用な性格を熟知しているため、何も言わずにただ優しく肩を竦めてみせた。
しかし、不機嫌なミラクの怒りの矛先は、対面で微笑む彼自身にも遠慮なく向けられた。
「というか、バナビー! あんたもあんたよ! なに勝手に、こんな正体不明の子をどこからか拾ってきちゃってるのよッ!」
ミラクの鋭い指先が示したのは、バナビーのすぐ隣の座席にちょこんと丸くなって腰掛けていた、一人の小さな少女の姿だった。
「ひっ……! し、謝罪……っ。私、でも……っ」
ミラクの威圧感に満ちた声と指先を受け、少女――メロフィは、小動物のように肩を大きく跳ねさせ、身体をちぢこまらせた。
彼女の衣服は聖教国で調達できたため、"男性領"に潜伏していたときよりもまともな、赤いワンピースに身を包んでいた。
以前よりも華やかになった外見とは裏腹に――その瞳は光を拒むように怯えで揺れている。
「まあまあ、ミラク様。そうお苛立ちめさるな」
バナビーはメロフィの頭を優しく撫で、庇うようにしながら穏やかな声で言った。
「彼女はただの身元の分からない孤児ではありません。現に、我々と同じように物語の力を身に宿した、正真正銘の"姫"の一人なのですから。連邦へ持ち帰れば、弱体化した我々の防衛戦力を補強する上で、大いに一役買ってくれるでしょう」
「何が戦力強化よ! バナビー、あんた目の付け所がおかしいんじゃないの!?」
ミラクはバシッと自らの太ももを叩き、呆れたように呆れ声を上げた。
「だってその子、自分が宿してるっていう魔法の力すら、まともに引き出せてないんでしょ? 教国の下層の小競り合いの時だって……たった一回魔法を発動させただけで、死にかけたって聞いたわよ!?」
「……う」
ミラクの容赦のない、けれど事実を突いた指摘に、メロフィは痛いところを突かれたように、深く、深く下を向いて沈んでしまった。自らの膝の上で握り締められた小さな拳が、かすかに震えている。
その小さく丸まった背中と落胆した表情を見た瞬間、ミラクは自らの発言を少しバツ悪く思ったらしい。彼女は居心地悪そうに視線を泳がせると、ごほん、と大きく一つ咳払いを挟んで、強引に会話を切り替えた。
「……ごほん。まあ、責めてるわけじゃないわよ。……ねえ、あなた。メロフィって言ったかしら? あなた、この世界に来る前は、一体どこの生まれだったの?」
ミラクなりの、気まずさを払拭するための何気ない質問。
だが、その問いかけを聞いたメロフィは、伏せていた顔をゆっくりと上げると、心底不思議そうに首を小首をかしげて見せた。
「……疑問。元の世界……とは……?」
「はあ? 何言ってるのよ。元の世界は、元の世界でしょ?」
ミラクは眉をひそめ、メロフィの顔をじっと覗き込んだ。
「あなただって、あっちの世界にいるとき、事故か何かで命を落として、その後にこの世界へやってきた口なんでしょ? 自分の生まれ育った国とか、故郷の記憶くらいはあるんじゃないの?」
ノクティアも、カノンも、アケルナルも、そして自分自身すらも。
この世界に"姫"として降臨する者たちは皆、程度の差こそあれ、あちらの世界での生前の記憶や、自らが背負っていた人生の残影を保持している。
魂の上書きによる、存在の転写。それがミラクの知る、"姫降ろしの儀"だった。
しかし――メロフィは、ただ瞳をパチパチと瞬かせるだけだった。
「……不明。私、ずっと、ここ……。……そんな記憶、存在しない……」
「……え?」
ミラクの思考の歯車が、唐突に狂いを生じさせて停止した。
(記憶が存在しない……? あっちの世界の魂が、一切干渉していないというの……?)
ミラクは腕を組み、真剣な目つきでメロフィの表情を観察し始めた。
嘘をついているようには見えない。彼女の瞳にあるのは、ただどこまでも純粋で、どこまでも潔癖な空白そのものだ。
(……待ちなさいよ。これって、どういうこと……?)
メロフィは、確かに"赤い靴"の力を引き出せているわけではない。
彼女にできるのは、足先に魔力を集中させて蹴撃を放つこと。そのくらいであれば、程度は異なれどミラクにもできる。というよりも、魔法を使える"姫"ならば、誰にでもできるだろう。
しかし、裏を返せば、"姫"でなければできないことだ。
魔法の素養が無い者に、魔力は操れない。つまり彼女は間違いなく"姫"。なのに、どうして――?
そこまで彼女が考えた、次の瞬間だった。




