309話「白い駒」
「正直、やられちまったって感じですねぇ」
円卓の軍事地図を見つめたまま、ギエナが苦々しい表情を浮かべ、自らの顎をガリガリと掻きむしった。
「帝国は"人魚姫"の封印を破り、その力を手中に収めるまでは大規模な出兵には打って出ない……。そう踏んで、こっちの戦いに集中しちまってた、こっちの完全な読み負けって感じでさぁ」
「……でも、だからと言って、エリダヌスを見捨てるわけにはいかないわ!」
私は地図の上のエリダヌスを囲む不吉な駒を強い眼差しで見据え、自分の胸元を握り締めながら必死に打開の糸口を探した。
「私たちが少数精鋭の遊撃隊として今すぐ現地へ出撃すれば……一万の帝国軍のすべてを撃破することは無理だとしても、その主力や指揮官の首を狙うことで、敵の攻撃の勢いを多少は引き受けて足止めできるはずでしょう……! その間に連邦の防衛線を再構築すれば――」
「……ねえ、ノクティアぁ」
私の熱を帯びた言葉を遮るようにして。
背後に立っていたリラが、灰色のヴェールの奥から、どこか冷たく重々しいトーンで声をかけてきた。
「何か、大事なことを忘れてないかなぁ?」
「……忘れてる? 私が……一体、何をよ」
私が思わず振り返ると、リラは自らの指先で作業机の端を静かにトントンと叩きながら、冷酷な現実を提示してみせた。
「ここはさぁ、アルフェッカ――"髪長姫"の加護が張り巡らされている、ヴァルゴ王国の領土とは決定的に違うんだよぉ。王国内の事態なら、あの子がその気になれば、全土の異変をリアルタイムで察知できるかもしれないけど……」
「――ッ!!」
リラのその言葉を聞いた瞬間、私の背筋を、冷たい氷の針で刺されたかのような戦慄が駆け抜けた。
「……これ、一体いつの情勢なの……!?」
私が慄く声で尋ねると、ギエナが静かに、重い溜息と共に答えた。
「……連邦から、一番足の早い伝令の使者が寝ずに馬を乗り潰して、丸二日かけてこのプレアデスまで届けてくれた情報でさぁ」
「二日……!? 二日も前の話……!?」
「へえ。だから……今の現地の戦況は、この地図の上に描かれているものより、遥かに悪化している可能性が高いでしょうねぇ。……最悪、おじさんたちが現地に到着した時には、もう連邦は陥落して、街全体が火の海に変えられちまってるかもしれやせんぜ」
ギエナの容赦のない言葉に、私は息を呑み、絶句した。
二日間のタイムラグ。
私が眠っていた一週間で、現地のタイムラインは進み続けていたのだ。
もしもエリダヌスが完全に陥落してしまったら――帝国は大陸の沿岸における完全な制海権と、あらゆる物資が行き交う物流の中心地を完璧に掌握することになる。
そうなれば、王国も、公国も、自領土の沿岸部をすべて放棄して後退するしかなくなる。
あとは内陸へとじわじわと追い詰められ、囲い込まれ、完全なチェックメイトを迎えるだけだ。
(どうする……! どうすればいいの……! 何か、今すぐに打てる手立ては……!?)
私が焦燥の渦の中で必死に脳を回していると、静かに佇んでいたリラが、ふっと窓の外の景色へと視線を投げかけながら、落ち着いた声で語りかけてきた。
「……まあまあ、落ち着きなよぉ、ノクティア。……まだ、完全に詰んだわけじゃないよぉ。やりようは、いくらでもあるからねぇ」
「え……? やりようって……」
「王国に戻って軍を出兵させるのも、公国に使いを出して助けを求めるのも、時間的に絶対に間に合わない……。ならさぁ、このプレアデス聖教国から、今すぐ動かせる援軍を出せばいいんだよぉ」
「……! そんなこと、本当にできるの……!?」
私は驚愕のあまり、目を丸くしてリラを見つめた。
教国は、つい先ほど最高指導者カリオペを失い、混乱の真ん中にあるはずだ。そんな組織から、他国の救援のための軍隊を動かすことなど可能なのだろうか。
「不本意ながらねぇ……今の私はさぁ、この教国の頂点に立つ最高司教だからねぇ」
リラはヴェールの下で、自嘲気味に、けれど力強く微笑んでみせた。
「頭でっかちのセラエナに指揮を執らせてさぁ。大聖堂と近郊の拠点から、今すぐ動かせる信徒たちと聖教騎士団の動員をかける……。集められるのは、せいぜい千人くらいの規模の急造部隊になっちゃうけどねぇ。でも……うちの信徒たちは全員が魔法の"種"を宿した精鋭だからさぁ。帝国の足止めくらいなら、十分にやってのけるでしょぉ」
千人の魔法騎士団。
それは一万という数字の前に、少しだけ頼りなくも感じてしまうけれど、時間を稼ぎ、連邦の防衛線が完全に崩壊するのを食い止めるためには、これ以上ないほどの最高の一手だった。
「……ありがとう、リラ……っ!」
私は胸の奥から込み上げる深い感謝と共に、強く頷いてみせた。
「私たちも、すぐに出発の準備を整えるわ! たとえ到着が二日遅れになろうと、ただ黙って見ているなんて絶対にできないもの!」
自らのドレスの裾を強く握り締め、作戦室を飛び出して準備へと向かおうと足を翻しかけた、まさにその瞬間だった。
――ふと。
私の目が、円卓の上の軍事地図の端に置かれた、"それ"を捉えた。
「……ねえ、ギエナ」
私は足を止め、振り返って地図の一点を指差し、疑問の声をかけた。
「ん、なんですかい、お嬢様?」
「この……プレアデスとエリダヌスの中間街道、この教国寄りの座標に置かれている、この"白い駒"は一体何なの……?」
円卓の上の地図。
エリダヌスを取り囲む帝国軍は不吉な赤と黒のカラーリングで統一されている。
そして、連邦の残存部隊や教国の部隊は青や灰色の駒で示されていた。
けれど――その中間街道の荒野の真ん中に、ぽつんと一つだけ置かれたその駒は、清廉で濁りのない、完全な白の色彩を放っていた。
それは、この盤上において、私やカノン、アルトたちと同じ――絶対の味方を示すための特別なシンボルだった。
私のその鋭い指摘を聞いた瞬間。
作戦室の奥に立っていたギエナは、眉を満足そうに持ち上げ、不敵な笑みをその無骨な顔に浮かべた。
「へっ……! やっぱり気づきやしたか。流石はお嬢様、相変わらず目のつけ所が鋭くて助かりやすぜ」
「持ち上げなくていいわよ。それより、もしかして、これって……」
私の胸の中で、ある一つの可能性の方程式が、眩い光を帯びて組み立てられていく。
「へえ……。おじさんたちにとって、この最悪な盤面において、唯一の"希望"とも言える存在――」
ギエナはそう呟くと、作戦室の大きな窓の外へと、その力強い視線を向けた。
彼が見つめる方角――それは、果てしない地平線の彼方、エリダヌス連邦が存在する東の空の方向だった。
あまりにも距離が離れすぎているため、この高台の聖堂から現地で起きている惨状を目視することなど当然できるはずもない。
けれど。
その果てしない地平線の向こう側で、一人で荒野を疾走し、戦場へと向かっているであろう"その人物"の存在を想うだけで、地図の上に置かれたその小さな白い駒が、まるで太陽のような圧倒的な輝きを放っているかのように見えた。
「――ミラク様でさぁ。既に昨日、発たれてますぜ」
ギエナはどこか、誇らしげですらありそうな表情で――その名を口にしたのだった。




