308話「動き出す世界」
一週間もの間、意識を闇の底へと沈めていた私の身体は、未だに本調子とは言えない。
そんな身体に苛立ちつつも、冷たい大理石の廊下を急ぐ。足の裏から伝わってくる衝撃が、神経を伝って鈍く頭蓋を揺らす。けれど、先ほど地下書庫でアルトから叩きつけられた一報が、私の全身に血を巡らせていた。
「こちらです、お嬢様! 聖堂の作戦室に、ギエナ隊長が情報を集約しています!」
先頭を走るアルトが、角を曲がりながら鋭く叫ぶ。
私のすぐ後ろにはリラもついてきていた。ここから先には、彼女の力だって必要になるはずだ。
そうして、アルトが力任せに押し開けた重厚な木造扉の先――そこは、かつてプレアデス聖教国の幹部たちが会食か何かに使用していたのであろう、清貧の欠片もない広大で豪奢な広間だった。
しかし、今はその景色も様変わりしてしまっている。
壁際には教国各地から集められたと思われる書類がうず高く積まれ、部屋の中央に置かれた巨大な円卓の上には、大陸全土の地形を詳細に描き出した大きな地図が広げられていた。
その地図の上に両手を突き、眉間に深く、刻み込まれたような皺を寄せて不機嫌そうに睨みつけていたのは――他でもない、"砂の鬣"ギエナ・アルファルドだった。
久し振りに会った彼は、目元に色濃い疲労の色を漂わせているものの、その目の光は衰えていない。
私が勢いよく足を踏み入れると、ギエナは顔を上げ、片方の眉をひょいと持ち上げて見せた。
「よう、お嬢様。……やっと来やしたね。一週間たっぷりと夢を見てたにしちゃ、顔色は悪くねえようで何よりだ」
「ギエナ、軽口はいいわ! 現況は!?」
私が地図の端へと歩み寄りながら畳みかけると、ギエナはわずかに目を伏せ、苦虫を噛み潰したかのような表情で短く息を吐き出した。
「……残念ながら、芳しくねえですね。おじさんたちが聖教国で命懸けの英雄ごっこを楽しんでる間に、向こうの連中は、最高に悪趣味な遠征の準備を終えちまったみてえでして」
いつものようにおどけるような、どこか投げやりな調子で口にしたギエナだったが――彼頬を一筋の冷や汗が伝い落ちるのを、私は見逃さなかった。
「状況を、具体的に視覚化してみやしょうか」
ギエナはそう呟くと、脇に置かれていた木箱から、いくつかの盤上駒を手に取った。彼の指先が、広大な軍事地図の上へと次々と駒を配置していく。
まず、私たちが今立っているここ、中央諸国の北東に位置する"プレアデス聖教国"の領域の上に、白い駒がひとつ。
続いて、東の沿岸部に位置する美しい水の都――"エリダヌス連邦"。その首都であるフォーマルハウトを囲むようにして、ギエナは不気味な黒と赤の駒を、何個も、何個も、円を描くようにして連続で打ち立てていった。
陸路からの包囲ライン。
そして、エリダヌスが誇る広大な湾港――海洋側を取り囲むように配置された、船の形を模した不吉な黒い駒。
さらにギエナは、プレアデスとエリダヌスを繋ぐ最短距離の真ん中に、もうひとつ、白い駒をトン、配置してみせた。
「……ご覧の通りでさぁ。残念ながら、エリダヌスは完全に包囲されちまってますね」
ギエナは眉を深くひそめたまま、エリダヌスを取り囲む黒い駒たちを指先でトントンと叩いた。
「陸路からの補給線を断たれた上に、自慢の海路まで完璧に押さえられちまった。港を封鎖された海洋国家なんてのは、胃袋を丸ごと縛り上げられたようなもんです。……奴さん方には、もう逃げ場すら存在しねえ」
地図の上に浮かび上がる、惨絶な包囲網の図面。
エリダヌス連邦は、大陸でも屈指の造船技術と強力な海軍を誇る水上国家のはずだった。本来ならば、海戦において他国の追随を許さない、絶対的なアドバンテージを持っていたはずなのに。
「……やっぱ、アケルが獲られたのが痛すぎるねぇ」
私の背後に静かに立っていたリラが、小さく首を横に振りながら、冷酷な事実のデータを低く呟いた。
「エリダヌスはさぁ……その強大な海軍力も含めて、結局はアケルの不条理な魔力によって保たれていた節があるしねぇ」
リラはそう言いながら、地図の上のエリダヌスの駒を見つめた。
「溢れ出る無尽蔵の人魚兵と、その背後に控える最強の"姫"……。それがあったからこそ、エリダヌスは周辺諸国に対して対等以上に強く出られたわけだしねぇ」
しかし、現状では、核を帝国に引き抜かれ、逆にその人魚兵たちが敵に回っている。
こうなってしまえば、自慢の海軍だって内側から崩壊して当然だ。
「……へい。エリダヌスってのは、ある意味で国家間の調律者でもありやしたからねえ」
ギエナが苦々しげに言葉を継ぐ。
「"大星潮条約"や、"大星潮会議"……。ありゃあ確かに、我がヴァルゴ王国の経済を細らせた原因ではありやしたがね。だが一方で、帝国や聖教国といった大国同士が直接ぶつかり合って全滅しないよう、国家間の絶妙な均衡を保っていた側面もあったんでしょうね」
「……それもこれも、アケルナルの力だったのね」
私はそんな話を聞きつつ、再び思考を盤上へと戻す。
「……ギエナ、敵部隊の具体的な戦力規模は分かっているの?」
「へい」
ギエナは胸元から一枚の折りたたまれた小さな羊皮紙を取り出した。それは、いつか見た"晶潮館"の印章が押された、急報のようだった。
「"晶潮館"の残存諜報網からの文によると……少なく見積もっても、敵は連隊規模の部隊を二つ、同時に稼働させてるみてえです。一つは海上から艦隊を率いて湾港へ、もう一つは陸上から国境の防壁を破って……それぞれ連邦の首都目掛けて一直線に押し寄せてきて連中さぁ」
「連隊……って、具体的にどれくらいの数字になるの?」
私の問いに対し、ギエナは自らの人差し指を立てつつ答えた。
「……合わせて、概算で一万人くれえですかね」
「――一万……!?」
思わず、息を呑んだ。
「ええ。今まで、中隊規模の秘密工作や局地的なテロ行為メインで、裏側でこそこそ動き回ってた帝国からすりゃ、考えられねえような大規模作戦でさぁ」
一万人。
その数字が、私の背に重くのしかかってくる。
もしもこれが、かつての全盛期のエリダヌス連邦であったなら――不滅の水上要塞と強力な海軍力、そしてアケルナルの魔法によって、一万人程度の侵攻軍など容易く跳ね返せたのかもしれない。
けれど、今のエリダヌスは、帝国の襲撃とアケルナルの不在によって、ボロボロに弱り切っている。
元の世界にも近い、最新の小銃や大砲、機械化兵器を惜しみなく投入してくる帝国の正規軍――唯一の弱点とも呼べた数の不足は、人魚兵により補われ、もはや隙はない。それを正面から跳ね返せるだけの防衛体力など、現在の連邦には残されていないはずだ。
「……なるほど、状況は痛いほど分かったわ」
私は地図の上のエリダヌスを見つめたまま、自らの胸元を強く握り締めた。
「すぐにでも助けに向かわないと……本当に手遅れになるわね」
助けに行かなければならない。
けれど――私の頭は、今がこれまでにないほどの難局であることを理解していた。
今までの戦いとは、根本的な規模が違う。
これまで私たちが繰り広げてきた死闘――連邦や公国における、帝国との衝突や、カノンとの一騎討ち。そしてここプレアデス大聖堂でのエレクトリアやリラ、全身鎧との激突。
それらはすべて、強力な"姫"や数名のエリート騎士たちによる、言ってしまえば局地的な、個と個のぶつかり合いだった。
けれど、今回の相手は、万を超える帝国正規軍だ。
確かに私たち"姫"と呼ばれる存在は、一騎当千の不条理な奇跡を行使することができる。私の硝子も、カノンの爆発的な加速も、も、一対一の決闘や小規模な部隊の殲滅においては無敵の威力を誇る。
だが――整然と陣形を組み、無数の小銃や重機関銃、長距離野砲で武装した一万人もの訓練された兵士たちを前にして、たった数人の"姫"だけでそのすべてを蹴散らし、粉砕することなどできるだろうか?
答えは――困難と言わざるを得ない。いくら"姫"の魔法が不条理だとしても……全方位からの膨大な鉛の弾丸と砲撃の嵐を浴び続ければ、魔力は必ず枯渇する。……個の暴力だけで、軍隊を正面から力任せに押し潰すことなど、現実的ではない。
ならば、私たちもまた、同じように軍隊を指揮して迎え撃つしかないのか。
王国や、公国に対して緊急の参戦要請を出し、大動員をかけてエリダヌス救援のための連合軍を編成する――。
「……わかってると思いやすがね、お嬢様」
私を睨むような鋭い視線で射竦めながら、ギエナが釘を差す。
「今から部隊を編成して動いてたら、気の遠くなるような時間がかかりやすよ。特に、国を跨いだやり取りをするんなら、なおさらだ」
「……ええ、理解しているつもりよ」
軍事権を持つ貴族たちの利害の調整、兵士の招集、食糧や弾薬の集積、そして、長距離の行軍。連合軍を編成してエリダヌスの地に到着させるまでに、どんなに縮めても一週間程度のタイムラグが発生してしまう。
既に包囲を完成させている帝国の攻勢の前に、エリダヌスはどれほど耐えられるだろうか?
「大兵力を揃えて臨む時間的猶予は、我々には一切与えられちゃいない……。けれども、我々だけで突っ込むには、流石に分が悪い。進退窮まる、袋小路ってとこですねぇ」
ギエナが、呆れるように肩を竦めた。
口調ほどに戯けていないことは流石の私にもわかる。もしも、この状況に飛び込むのならば、それは間違いなく――これまでで一番の、決死行になるのだから。




