306話「千夜と一夜」
「――シェ、シェヘラザード……!?」
静まり返った地下書庫の空気が、私の叫び声によって激しく震えた。
あまりの衝撃に、私は勢い任せに椅子から立ち上がっていた。ガタリと重い音が響き、積み上げられた本たちがグラグラと不気味に揺れる。
「そんな……! リラ、からかうのもいい加減にしなさいよ! 幾ら何でも……」
「からかってなんかいないよぉ、ノクティア」
向かいの椅子に深く腰掛けたリラは、飄々しい笑みを浮かべ、両手を広げて大袈裟に肩を竦めて見せた。
「まあ、驚くのも無理はないよねぇ。この世界の根幹を握っている"原初の姫"が、まさかそんな超超ビッグネームだったなんてさぁ。私だって、当時の最高司教からその名前を聞かされた時は、自分の耳を疑ったくらいだしねぇ」
私は過呼吸を抑えるように胸に手をつき、再び椅子へと腰を下ろした。冷や汗が額を伝い、腰髄が狂ったように回り始める。
シェヘラザード。
あちらの世界において、知らぬ者はいないほどに高名な説話集『千夜一夜物語』の語り手。
ペルシャのサーサーン朝において、毎夜のように女性を殺害するという狂行を繰り返していた王――シャハリヤール。その惨劇を止めるため、自ら進んで王の妻となった賢しい大臣の娘。
彼女は毎夜毎夜、王へ向けて面白くも先の読めない物語を語り聞かせ、王の殺意を千と一夜にわたって引き延ばし続けた。やがて王の狂気を治め、自らの処刑を撤回させて王国に平和をもたらしたとされる、伝説のヒロイン。
「……私だって、元の世界では童話や伝承には人一倍詳しかったわ。知らないわけがないじゃない」
私は激しく混濁する頭を抑えながら、掠れた声を絞り出した。
「でも、シェヘラザードっていうのは……あくまで後世に編纂された説話集の中の"枠組み"として創作された、実在しない架空の登場人物よ? この世界にやってくる"姫"っていうのは、あちらの世界で命を落とした生身の人間に、童話の配役が上書きされた存在のはずでしょ……?」
「ならさぁ、その"枠組み"の原型になった生身の人間か……。あるいは、私たちと同じように、死に直面した瞬間に『シェヘラザード』という物語の概念そのものをその身に帯びて現れた、特異点みたいな存在なんじゃないのぉ?」
リラの、至極あっさりとした推論。
しかし、その仮説が示している意味の重さに、私は思わず息を飲んだ。
もしも彼女が、私たちが通ってきた"姫降ろしの儀"を一切介さず、この世界に最初に流れ着いた“姫”なのだとすれば。
彼女の存在そのものが、この世界における根源の不整合であり、すべての不条理の起点であるということになる。
「とにかくねぇ、ノクティアぁ。シェヘラザードこそが、この世界に、文字通りの意味で一番最初に降り立った"原初の姫"なんだよぉ」
リラは積まれた古書の表紙を細い指先で軽やかに叩きながら、冷静に、その事実を突きつけてくる。
「そして……あっちの世界の物語の力を利用して、死した少女たちの魂を引き寄せ――この世界に"姫"という配役を与えて配置する、そんなシステムそのものを作り上げた張本人、ってこと」
「……じゃあ、カリオペたちが狂信的に崇め奉り、最期まで縋り付こうとしていたのは……」
私の脳裏に、大聖堂の最上階で、閃光に貫かれるその際まで叫んでいた最高司教の姿が、鮮烈にフラッシュバックした。
「そうだよぉ。今もこの世界のどこかで生き続けている、"原初の姫"シェヘラザード本人のことだよぉ」
リラは静かに、けれど逃げ場のない事実として頷いてみせた。
「"姫"という存在は、自分に割り振られた物語を完璧に完結させるまで、絶対に死ぬことも、滅びることもないからねぇ。彼女が紡ぎ始めた千夜の物語がまだ終わっていない以上、彼女は今この瞬間も、世界のどこかで生き続けているんだよぉ」
「……なるほどね。人選としては、納得がいくわ」
私は深く椅子に背を預け、天井の暗がりを見上げた。
千夜一夜物語の語り手。終わらない物語を紡ぎ続けることで死を回避し続けた女性。黒幕の正体としては、妥当なところだ。
けれど――頭の中で情報を並べ替えれば並べ替えるほど、新たな不可解なノイズが湧き上がってくる。
"原初の姫"シェヘラザード。
"姫"という不条理な存在と、それを世界に定着させる魔法。
疑問は山ほどあった。彼女はどうしてあちらの世界からこちら側へ来ることになったのか。そして、今この瞬間、彼女は一体どこで何をしているのか。
しかし、その疑問群の中で、私には今この場で先んじてリラに確認しておかなければならない、最も決定的な問いは、一つだった。
「――ねえ、リラ」
私は眼光を鋭く光らせ、机の向こう側に座る彼女を真っ直ぐに見据えた。
「"聖典"をこの世界にもたらして、"姫降ろしの儀"という術を体系化したのも、他でもない彼女自身なのよね?」
私のその指摘を聞いた瞬間。
リラはヴェールの下で口元を歪め、試すような、邪悪で魅力的な笑みをその貌に浮かべてみせた。
「――そうなるねぇ。……だったら、どうなるのかなぁ?」
背中を冷たい熱が駆け抜ける。
リラは今、私を試しているのだ。
ただ与えられた真相を鵜呑みにするだけの無知な観客なのか。それとも、自らの知性と記憶を駆使して、世界の構造を自らの頭脳で解き明かせる真の知恵者なのかを。
私は彼女のその不遜な期待に真っ正面から応えるべく、一歩も退かずに言葉を畳みかけた。
「……決定的な不整合があるわ、リラ。どうしてシェヘラザードは、あちらの世界から"聖典"という形で、あらゆる童話をこの世界に持ち込むことができたの?」
「……どうしてって、何がぁ?」
リラは楽しそうに首を傾げてみせる。私は自らの指先を一本立て、歴史の年表を虚空に描くように、論理を展開した。
「――時代考証が、あまりにも狂いすぎているわ。シェヘラザードが語り手として登場する説話集の原型が成立したのは、ササン朝ペルシャ……私たちの西暦で数えれば、今から千数百年以上も昔、6世紀頃の時代よ?」
私は古書が積み上がった作業机を指差しながら、熱を込めて語り続けた。
「一方で、私やカノン、アケルナルが宿している『シンデレラ』や『ドロシー』、『人魚姫』といった童話が、ヨーロッパで現在のような完成された作品として出版されたのは、シャルル・ペローやグリム兄弟、アンデルセンたちが活躍した17世紀から19世紀以降のことのはずよ!」
そう。ここ決定的なタイムラインのねじれが存在する。
「千年以上も昔の時代の存在であるはずのシェヘラザードが……どうして、近代の童話のをあらかじめ知っていて、それをこの世界に持ち込むことができるのよ……!? 彼女がいくら強力な"姫"であっても、未来の物語をあらかじめ知って語ることなんて、絶対に不可能なはずじゃない……っ!」
私の弾丸のような問いかけ。
この世界が孕む最大の悖論の提示。
それに対し、リラは驚く風でもなく、ただ顎に指先を当てて、少しだけ思案するような可愛らしい仕草を見せた。
「……ねぇ、ノクティア様。君ってさぁ、元の世界ではかなりの童話博士だったんだよねぇ?」
「ええ……。元の世界では、いつか大学に進学して、世界中の童話や民話を研究したいと……思っていたけど」
遠い記憶。あの貧しくも温かかった生家の書庫で、夢中で読み漁っていた古今東西の物語たちの面影。
「ならさぁ……こんな文献の裏話も、当然知ってるよねぇ?」
リラは灰色の瞳を怪しく明滅させながら、ぽつりと、歴史の裏側に隠された『編纂の真実』を口にした。
「――シェヘラザードが一番最初に王様に語り聞かせたと言われる『千夜一夜物語』の原典……。そこに収録されていたお話の数は、本当は千と一夜どころか……三百弱しか無かった、っていう有名なお話」
「……っ!」
リラのその言葉が、私の脳内の暗雲を一瞬にして引き裂いた。
雷に打たれたかのような強烈な衝撃が、私の全身の神経を駆け抜けていく。
「……勿論、知っているわ……っ! 『千夜一夜物語』という書物は、最初から一人の人間によって書き上げられた完成品なんかじゃない……!」
私の唇から、どこかで目にした知識が溢れ出す。
「18世紀初頭、仏訳して出版されたことをを皮切りに世界中で起きた爆発的なブーム。その際、出版業者や翻訳者たちは『千と一夜』というタイトルに数を合わせるために……世界中に伝わるあらゆる民話や寓話、冒険譚を、後から後から強引に『千夜一夜物語』へと付け足していった……!」
有名な『アラジンと魔法のランプ』や『アリババと40人の盗賊』、『シンドバッドの冒険』すらも、元々の原本には存在せず、後世の翻訳の過程で『千夜一夜物語』の大きな大系へと後付けで挿入されたもの――そんな話を、聞いたことがある。
「翻訳と編纂が繰り返される過程で……あちらの世界のあらゆる童話や寓話の源流となった古い説話たちが、すべて『千夜一夜物語』という一つの巨大な器の中へと集約され、混ざり合っていったのね……!」
そこまで自分の口で口にした瞬間、私は自らの導き出した恐怖の結論に、言葉を失って硬直した。
私の戦慄の表情を見て、リラは満足そうに、静かに深く首を縦に振った。
「そうだよぉ、ノクティア様。再編され続けた『千夜一夜物語』はさぁ、その名の通り千と一夜分の物語を網羅するために、人類が歴史の中で生み出してきたあらゆる物語の原型や源流を、片っ端から吸い上げて内側に抱え込んでしまったんだよぉ」
リラの語る、不条理な真実の構造。
「彼女はねぇ、ただの一人の登場人物じゃない。あっちの世界で編纂され尽くした"物語"という概念そのものを背負ってこの世界に来たからこそ……。彼女の体の中には、あっちの世界のすべての童話へと繋がる"一にして全"の原点なんだよぉ」
――様々な童話の源流となる寓話たちが、後付けで無数に組み込まれていった巨大な説話集。
もし、そう考えるのだとするならば。
彼女の纏う『シェヘラザード』という物語は――。
私たちが宿している『シンデレラ』も、『ドロシー』も、『小夜啼鳥』も、果ては世界のすべてを焼き尽くそうとする『マッチ売りの少女』すらも。
あらゆる御伽噺の根底、すべての物語の母胎と繋がっている――正しく、原初たる一と呼べるものなのだろう。




