305話「原初の記憶」
大聖堂の地下深くに存在する、隠された地下書庫。
地上に設置されている重厚な図書館の最奥、何重もの錠前と分厚い鉄の扉によって密閉されていたその区画の先には、地上とは全く異なる静謐な時間が流れていた。
空気は冷たく乾燥しており、独特なインクと古い紙の匂いが、地下特有の湿り気を帯びた埃の匂いと共に鼻腔を優しく刺激する。頭上を見上げれば、見上げるほど高い天井まで届かんとする黒木の本棚が整然と立ち並び、そこには隙間なく、無数の本がところ狭しと積み上げられていた。
「ここは、プレアデスの中でも秘中の秘――あらゆる歴史や秘匿事項が集まった、禁書庫だよぉ」
リラは、左右に聳える本の壁を前に、事もなげに呟いた。
「トップシークレット中のトップシークレット……。滅多に聞けないお話がてんこ盛り、なのに、ノクティア一人で来てよかったのぉ?」
「……そうね、本当は、カノンについてきてもらえたら心強かったんだけど」
苦笑いしつつ、ふと、数分前の会話を思い出す。
同行を求めた私に対し、カノンはあからさまに嫌そうな顔を向けた。
『あたしはそんな昔話、もううんざりするほど聞いてっからな。……そこらで昼寝でもしてくるわ』
と、鼻を鳴らしながら窓から軽やかに外へと飛び出していってしまった。
彼女もまた、"古き姫"。歴史など、私の幾倍も知っているのだろうが、今回だけは空気を読んで一緒に来てほしかった気持ちが無いわけではない。
他の仲間たちを連れて行くことも考えたが、もしかすると元の世界の話が出る可能性もある。となれば、誘えるのは同じ"姫"のミラクしかいない。
しかし、彼女は既に、従者のバナビーと共にプレアデスを発った後だった。
(……一言くらいあってもいいじゃない。本当にあの子は、ぶっきらぼうなんだから)
そんな愚痴を言ってやりたくもなったが、その為だけに文を飛ばすのも馬鹿らしい。
結果として、この広大で不気味なほどの静けさに包まれた書庫を訪れていたのは、私とリラの二人だけだった。
「――最初にこの世界で紙を作り出したのはさぁ、他でもない、このプレアデスなんだよぉ」
私の前を歩いていたリラが、髪をふわりと揺らし、どこか得意げに口を開いた。
「元々はねぇ、この世界全体で羊皮紙が広く使われていたんだぁ。……というか、ヴァルゴ王国辺りの外れの方じゃあ、今でも羊皮紙が主流でしょ?」
「……ええ。私の家の所領――国境近くのグラスベル領では、現に今でも羊皮紙が羊毛や肉と並ぶ貴重な交易品として扱われているわ」
私は、この世界に来てからの朧気な記憶を手繰り寄せながら、静かに首を縦に振った。
羊の皮を削り、引き伸ばして乾かした重く硬質な羊皮紙。けれど、グラスベル邸の書庫に並んでいた本の大半は、薄くめくりやすい植物性の紙で作られた本だった。
あれはきっと、父――グラスベル伯爵が領地の発展と、私の学問のために、他国から取り寄せた品々だったのだろう。
「"姫"の一人がさぁ、あっちの世界と同じ、植物の繊維を使った紙の作り方をこの世界に伝えたんだよぉ。……そもそも、教国には"聖典"なんていう見本も最初からあったたしねぇ。なんでもできる魔法の力と、"姫"の言葉になんでも従う従順な信徒たち……。あっという間に、大量生産の体制は整っちゃったんだよぉ」
リラはそう言いながら、散策するように歩いていた足足を止め、適当な本棚の差し込み口から一冊の古びた革表紙の本を抜き取った。その表面にうっすらと積もった埃を、細い指先で撫で擦りながら、言葉を続ける。
「――だからね、このプレアデスは、世界のどの国家よりも多くの、正確な歴史を書き記すことができているんだぁ。例えば……他の国がとうの昔に忘れて失ってしまった、古の記憶なんかも含めてねぇ」
「……その歴史とやらを、私に聞かせてくれるってことよね?」
私が逃げ場のない真っ直ぐな視線を向けると、リラはヴェールの下でこくりと深く頷いた。
「いいよぉ。今のノクティアには、そのすべてを知る資格があるからねぇ」
リラが一瞬だけ、体内の魔力をすっと練り上げた。
彼女の小柄な身体が、まるで歪んだ影のようにゆらゆらと不自然に膨らんだかと思うと、次の瞬間――パァン! と軽やかな音を立てて爆発的に弾け飛んだ。
彼女の肉体は一瞬にして解体され、数十羽もの小夜啼鳥の群れへと分裂する。
翼をはためかせる無数の鳥たちは、広大な書庫のあちこちの棚へと一斉に飛び立ち、その小さな嘴や足先で、書籍を的確に抜き取っていく。羽音の合唱が薄暗い空間に心地よく響き渡る。
鳥たちは滑空しながら、書庫の中央に置かれていた大きな木製の作業机の上へと、運んできた本を次々と几帳面に積み上げていった。
分厚い羊皮紙の装丁本、金箔の押し出された教国の記録書、挿絵の描かれた古い紙の束。それらがバサリ、バサリと重ねられ、あっという間に私の座高を遥かに超えるほどの高さの、巨大な本の塔が完成させられた。
本を運び終えた鳥たちは、机の横にあった革張りの大きな椅子の上へと吸い寄せられるように集まり始め――光の粒子を撒き散らしながら、再び元のリラ・マイアへと再構成された。
「ほらぁ、こっちにおいでよ、ノクティア」
「え、ええ。勿論よ……」
私は静かな足取りで机の前の椅子へと歩み寄り、背筋を伸ばして腰掛けた。
リラは机の上にうず高く積まれた本の一番てっぺん、最後に鳥が運んできた一冊の小さな本を指先で手に取り、パタンと表紙を開いた。
それは、手描きの素朴な挿絵がふんだんに添えられ、幼い子供でも読めるような単純で平易な言葉遣いで綴られた、どこか絵本に近い温もりを帯びた一冊の古書だった。
「――全ての始まりはねぇ、まだこのプレアデスが国としてすら成立していなかった、遥か百年以上も昔の記憶だよぉ」
リラは自らの指先で絵本の素朴なページをめくりながら、どこか遠い目をして、ぽつり、ぽつりと語り始めた。
「とある名もなき少女がさぁ、この極寒と不毛の荒野で、行き倒れているところを発見されたことから……すべての物語は動き出したんだよぉ」
私は息を潜め、彼女の唇から溢れ出る言葉の一語一句に、全神経を集中させる。
私の知らない、この世界の、すべての不条理の始まりの物語が、今、静かに開かれようとしていた――。
「行き倒れていた少女……。それが、カリオペたちの言っていた"原初の姫"なの?」
私が尋ねると、リラは挿絵に描かれた小さな少女の絵を愛おしげになぞりながら、静かに首を縦に振った。
「そうだよぉ。彼女の名は――シェヘラザード。あっちの世界から、こっち側へと、一番最初に投げ込まれてしまった、"最初の迷い子"なんだよぉ」




