304話「迫る戦火」
私たちの間に割り込んできたその鳥は、夜の闇を溶かし込んだような美しい羽を翻しながら、中空で円を描くようにして優雅に旋回した。
直後、鳥の影がぐにゃりと大気の中で輪郭を歪ませ、幾何学模様の光の粒子となって爆発的に霧散する。
光の煙が晴れたあとにそこに佇んでいたのは――。
「……リラ!」
思わず自らの掠れた声でその名を呼んでいた。
現れた彼女――リラ・マイアは、ベッドの上の私と、壁際に立つカノンの顔を順番に交互に見やると、呆れたように首を振って、やれやれという動作で華奢な肩を竦めて見せた。
「あのさぁ……、"ドロシー"。あんた、ノクティアが長い眠りから目覚めたら真っ先に私に知らせてって……私、あれほど念を押しておいたのを聞いてなかったのかなぁ?」
「あ? 聞いてたぜ、もちろんな。だがよ、目覚めたばかりのノクティアちゃんと、ちっとばかしお喋りしてても、別に何の問題もねえっしょ?」
カノンは悪びれる様子も一切見せずにニッと不敵な笑みを浮かべた。
いつもの二人の、軽妙で噛み合わないやり取り。けれど、そのやり取りの中にほんの僅かなぎこちなさが混ざっているような気がした。
私はベッドの上に身体を起こしかけながら、静かに佇むリラに向けて問いかけた。
「その……リラ。身体は、大丈夫なの? ……国の方とか、色々、落ち着いたのかしら……?」
「……まぁ、なんとか、やっとねぇ。元々、このプレアデス聖教国っていうのはさぁ……最高指導者を失った程度で暴れ出すような、気骨のある連中の集まりじゃないしねぇ……。むしろ私にとっては、後を追って殉死しようとするクソ真面目な連中を、宥めてる方に苦労させられたよぉ」
ふぅ、と深く、重苦しい溜息を吐き捨てるリラ。
その声音や、掴みどころのない口調そのものは以前と何ら変わっていないように思えた。けれど、そのヴェールの隙間から覗く横顔は、私が倒れる前よりも明らかに草臥れて、疲弊の色を強く滲ませていた。
プレアデス聖教国という巨大な宗教国家の舵取りを引き受けた彼女。
百年の間、舞台を安全な暗闇から傍観してきた彼女が、ここに来てついに世界の表舞台へと引っ張り出されたのだ。
世界と関わりを持ち、誰かの生き死にや国家の命運をその両肩に背負うということは――決して、理想や美しい思い出ばかりではない。責任という名の容赦のない重圧が、彼女を苛み続けているのが、見て取れるようだった。
「って言ってもさぁ。私だって、あんたたちとお気楽なガールズトークを交わすために、わざわざここまで飛んできたわけじゃないんだよぉ」
リラは疲れたように自らの額に指先を当てると、その瞳の光を、一瞬にして切り替えた。
「この一週間の間に、私たちの周囲を取り巻く世界の情勢が、大きく動き始めたからねぇ。……それを共有しておかなきゃと思ってさ」
「……情勢?」
私が思わず首を傾げると、リラは一瞬の溜息を挟んで、衝撃の事実を淡々と、冷酷に言い放った。
「そう。……ついに――帝国が、動き出したよぉ」
「――っ、な……ッ!?」
リラの放った言葉に、私は息を呑み、思わずベッドのシーツを強く握り締めながら身を乗り出していた。
「ちょっと待って、リラ! だって……アケルナルが、あの"人魚姫"が未だ目覚めていない以上、彼らが大規模な侵攻作戦を開始するまでには、まだ十分な猶予が残されているはずじゃ……っ!」
最強の"姫"、アケルナル。
いくら帝国とはいえ、周辺諸国をまとめて相手に回せば分が悪い。てっきり、彼女が目覚めるまで、動かないものだと思っていたが。
「……大丈夫、アケルはまだ起きてないよぉ」
リラは私の動揺を静めるように、静かに首を横に振った。
「でもねぇ。帝国が王国や連邦との国境地帯に向けて、大量の兵力を配備し始めたっていう不吉な報せが、各地の諜報網から入ってきたのは動かしようのない事実なんだよぉ」
「大量の、兵……? それは……」
帝国の最大の強み。それは、あちらの世界の近代科学を模した、圧倒的な殺傷能力を誇る火器や兵器の存在だ。この世界の基準からすれば何歩も先を行く先進的な軍事技術。
だが、その反面、先の大戦における激しい消耗と敗北により、彼らは絶対的な兵力――兵の数が決定的に不足していた。どれほど強力な兵器があろうとも、それを扱う兵士の数が足りなければ、大陸全土を覆うような大遠征など不可能なはずなのだ。
そこまで考えを巡らせた、まさにその瞬間――私の脳裏に閃くものがあった。
「……っ、まさか……ッ!?」
「そう。……その、まさかだよぉ」
リラは少しだけ言い淀むような様子を見せたが、すぐに持ち直し、続きを口にする。
「――"人魚兵"だよぉ。あいつらは、アケル自身が眠ったままであっても、彼女の体から漏れ出る魔力に呼応して、その主の身を守るための兵隊として、無数に現世へと産み落とされちゃうからねぇ」
"人魚兵"。
かつてエリダヌス連邦軍の半数以上を占めていたとされる、"人魚姫"の手先たち。
かくいう私も、"大星潮会議"の際に実物を目にしているが、彼らの靱やかな体付きと統率の取れた動きは、兵士としては相当に優秀なはずだ。
「連中は、帝国の最新兵器でガチガチに武装して、今、まさに国境線へと押し寄せようとしてるんだよぉ。……そしてその最深部には――」
リラは一瞬、重苦しい沈黙を置く。
しかし、言うまでもなくわかっていた。世界を焼かんとする怪物が、そこにはいるのだろう。
「――"マッチ売りの少女"ね」
「……そう。あいつは、帝国に現存する"姫"たちと、その武装人魚兵の群れを率いて、周辺諸国を一気に滅ぼし尽くそうとしている。……少なくとも、私に入ってきたからすれば、そう判断せざるを得ないねぇ」
「……ふざけた話だ。舐めプもいい加減にしろっての」
それまで黙って話を聞いていたカノンが、激しい苛立ち混じりに吐き捨てるように言い放った。
しかし、その目は冷静だ。激しい熱と氷のような冷たさ。それを併せ持つからこそ、彼女は頼れる存在なのだ。
リラはそこで一度、大きく頷いた。そして、私と視線を合わせる。
「そう、だからぁ、本格的にコトが動く前に、済ませとかなきゃいけないんだよねぇ」
「……済ませる? 何を……?」
問いかける私に、リラはニヤリと、口元を歪めるのだった。
「何って、知りたいんでしょぉ? この世界の――真実をさぁ」




