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間に合わなかったシンデレラは、硝子の靴で戦場を踊る  作者: 入江 鋭利
22章「鼓動と破壊と動き出す影」
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303話「倦怠感と目覚め」


 呼吸をするたびに、肺の奥で微かな冷気が白く渦巻くような感覚があった。


 目を開ければ、どこまでも平坦で、どこまでも起伏のない、真っ白な天井。


 視界を埋め尽くす無彩色の境界線を、私は重い瞼をゆっくりと押し上げながら、ぼんやりと見つめていた。


 視界のフチが、ぼやけた水滴のように歪む。


 指先を動かそうとしても、まるで自らの肉体が重く湿った綿に覆われているかのように、脳からの指令が数秒遅れて末端へと届いていく。全身の関節という関節が鈍く痺れ、まるで長い間、動かされないまま放置されていた古い機械のようだった。


(私……、眠っていたの……? いつの間に……?)


 脳に血を巡らせ、少しずつ機能を起こしていく。


 私は自らの記憶の最深部へと潜り込み、途切れる直前の景色を手繰り寄せようと酷使した。


 そうだ。私はあの大聖堂の最上階――リラや、当然現れた"千の騎士"――白銀の全身鎧の男との激闘の末、シャウルを取り戻すことができたのだ。


 そして、今際の際。カリオペが、血溜まりの中で遺した言葉について、リラに尋ねようとして――そこから先の記憶が、真っ白な霧の中に溶けて消えていた。


 限界を超えて稼働し続けていた私も、安堵と共に完全に気が緩んでしまったのだろう。


(……でも、なんだろう。……すごく長い、長い夢を見ていた気がする)


 天井を見つめたまま、私は自らの胸の奥底にこびりついて離れない、不気味な熱の残響に思いを巡らせていた。


 鼻先に、今も確かにかすかに香る、甘く嫌な焦げ臭さ。


 夢の中で見た、あの赤と黒の色彩に染まりきった部屋。パチパチと音を立てて思い出の品々を飲み込んでいく、恐ろしい業火の渦。大切なものを守りたくて、泣いて、叫んで、助けを求めて手を伸ばしていた、あの痛々しい感覚。


 あれは――この異世界へと流れ着く前、あちらの世界で私自身が巻き込まれた、あの火事の景色だったのだろうか?


(……でも、それにしては)


 思考に残る違和感と、微かなノイズ。


 燃えていた部屋の調度品や、柱の質感には見覚えがある。しかし、炎の向こう側に向けられた視線の高さや、胸を支配していた感情が――どこか、私自身のものとは微妙にズレていたような気がしたのだ。まるで、他人の末期を、瞳を通して追体験させられていたかのような、不気味な感触。


「……ッ」


 思い出そうとすると、頭蓋の奥でズキンと鋭い痛みが走り、私は小さく眉を顰めた。



「――ようやくお目覚めかよ、ノクティアちゃん」



 ――不意に。


 私の静かな思考を引き裂くようにして、部屋の横合いの薄暗がりから、聞き覚えのある不敵な声音が投げかけられた。


 首をゆっくりとそちらへ傾けると、部屋の壁際に置かれた木製の椅子の上で、行儀悪く片膝を立てて座っている一人の少女と目が合った。


 短い髪を乱暴に揺らしながら、彼女――カノン・ドロテア=エメラルダが、どこか呆れたような、けれど底の方に安堵を隠した瞳で私を見下ろしていた。


「……カノン。……私は、どのくらい……?」


 自らの口から吐き出された声の掠れ具合に、私自身が少し驚いた。喉の奥がカラカラに干からびている。


 カノンは椅子の上で姿勢を崩し、背もたれに深く体重を預けながら、指先を一本立てて不機嫌そうに鼻を鳴らした。


「ほとんどまるまる、一週間ってとこだ。……急に倒れたと思ったらピクリとも動かなくなってさぁ。脈はあったから生きてんのは分かってたが、周りの連中はよっぽど肝を冷やしただろうぜ」


「一週間……」


 私が意識を失ってから、そんなにも。


 身体の重さにも納得がいった。一週間も横たわったまま動いていなかったのだから、体が軋むのも当然だった。


 思考が少しずつクリアになるにつれて、私の脳内に懸案事項が溢れ出す。


 あの後、カリオペの亡骸は、どうなったのだろう。リラは約束通り、彼女をしかるべき方法で弔うことができただろうか。


 シャウルは、今どこでどうしているだろう。無事なのだろうか。


 聖剣アルシャインを振るい、戦ってくれたアルトやギエナ、それにザラは。


 そして――最高指導者を失ったこのプレアデス聖教国は、今現在、一体どんな混乱の渦中にあるのだろうか。


「……」


 何から問いかけるべきか。


 私が喉を鳴らし、言葉を組み立てようと口を開いた、まさにその時。


 先に言葉を発したのは、椅子に腰掛けたままのカノンの方だった。


「……一応、忠告しとくけどさ」


 カノンの声から、いつもの軽薄なトーンが消え去っていた。彼女は椅子の背もたれから身体を起こし、私の顔を真っ直ぐに見据えてくる。


「"根源"の力は、あんまり乱用しねえ方がいいぜ」


「……え?」


 予期せぬ方向からの指摘に、私は自らの問いかけを飲み込み、丸くした瞳で彼女を見返した。


 カノンは自らの胸元にそっと手を当て、どこか苦々しげに言葉を重ねた。


「あれはさ、ただの都合の良いメチャ強魔法なんかじゃねえ。……お前自身の魂の形をそのまま燃料として燃やして、お前自身の"心"すらも内側からじわじわと焼き尽くしていく諸刃の刃なんだよ。……まあ、お前よりもこの世界の魔法の仕組み(しよう)に詳しい、おねーさんからのマジの忠告さ」


 彼女の、らしくない真摯な言葉。


 私は視線を落とし、ベッドの上に投げ出されていた自らの右手のひらへと目をやった。


 細く、華奢な、ただの十代の少女の手。


 この手で、私はエレクトリアとの死闘から始まり、リラとの手加減なしの肉弾戦、そして白銀の圧倒的な殺意を前にして、さらにはカリオペの手からシャウルを奪い返すための土壇場においてまで戦い抜いたのだ。


 自らの命の限界を無視して発揮する、絶対的な出力。それならば、ああ、納得がいく。


 カノンの言う通りだ。


 あのように命の薪を際限なく焚べ続ければ、いずれ、本当に大切な何かすらも躊躇なく燃やすことになってしまう。


 切り札は、切り札であるがゆえに。使い所を誤れば己を殺す刃となる。


「……わかったわ。カノンの言う通りね。……力の使い方も、もっと気を付けないと」


 私が真摯に首を縦に振ると、カノンはフッと緊張を緩め、いつもの不敵で意地悪い笑みをその貌に蘇らせた。


「ま、どっちかって言うとおねーさん的にはさぁ」


 カノンは椅子から立ち上がると、私のベッドのすぐ脇へと数歩歩み寄ってきた。


「昼間の間、ただの無能になっちまう方をなんとかした方がいいと思うけどな。日が暮れて夜にならないと魔法が使えない割に……いざ夜になってたところで、他の姫と大して変わらない戦力止まりじゃ、これからの激戦を生き抜くにはちょっと心許ないぜ?」


 彼女の、容赦のない言葉に、私は思わず、苦笑いを浮かべながら肩をすくめた。


「それはそうだけど……。でも、私の宿しているのは『シンデレラ』のお話だもの。それは原典の仕様として、仕方のないことなんじゃないの?」


 どの"姫"もそうだった。私たちは物語に縛られているが故に、物語の力を引き出せる。少なくともそれは、この世界では曲げようもない法則であるはずだ。


 しかし、私のその言葉を聞いた瞬間、カノンは足を止め、目元を面白そうに細めると――ニヤリと、すべてを見通しているかのような笑みを浮かべてみせた。


「……へえ、お前は本気でそう思ってんだ。……なら、おねーさんがひとつ、最高にいいことを教えてやるよ――」


 彼女がその先を続けようと、口を開いた――まさに、その刹那だった。


 バサササササッ……!


 開け放たれた部屋の窓の向こう側から、滑らかな風の音と共に、二人の間に、一羽の鳥が羽ばたいてきた。


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