302話「焼損」
◆◇◆
――パチパチと、何かが弾ける音がした。
それは、今までの人生で聞いたことがないような、恐ろしい音だった。
乾いた木材が内側から爆ぜ、壁紙が不気味な熱気を孕んで黒く水泡を浮かべ、メリメリと音を立てて剥がれ落ちていく。
もう、手足の感覚すら残されてはいなかった。
硬質な床の上に突伏したままの華奢な肉体は、自らの意志で指先ひとつ動かすことすら叶わない。呼吸を試みるたびに、粘熱を帯んだ激しい黒煙と一酸化炭素の毒素が肺の奥深くまで直接流れ込み、気道を容赦なく灼き焦がしていく。激しい喉の痛みに苛まれながらも、咳き込むための体力すら、すでに彼女の体からは一滴残らず枯渇していた。
どこを見渡しても、視界の全容を埋め尽くしているのは、圧倒的な赤と黒のグラデーション。
部屋の隅々から、あらゆるものを等しく飲み込まんとして渦巻く、紅蓮の炎。
熱い。熱くて、苦しくて、呼吸ができなくて――そして何よりも、胸の奥が張り裂けそうなほどの悲しみが、彼女の小さな魂を激しく苛んでいた。
鼻孔を突き刺すのは、何もかもが燃えて焦げ付いていく嫌な匂いだった。
幼い頃から見慣れていた、優しい温もりのあった柱や壁。
棚の上に大切に並べられていた、お気に入りのぬいぐるみや、小さな玩具たち。
家族みんなで囲んで、いつも賑やかな会話と笑い声が弾んでいた、木製の丸い食卓テーブル。
――そして、いつかクレヨンを夢中で握りしめ、自分と、大好きな家族の姿をいっぱいに描いた、あの下手くそな一枚の絵。
その思い出の品々のひとつひとつが、火の粉の波に飲まれ、端から黒く縮れ、炎の舌に舐め尽くされて、だんだんと原形を失った黒い灰へと変わっていく。
(――やだ、いやだ。ぜんぶ、ぜんぶなくなっちゃう)
彼女の頭の中を占めていたのは、灼ける肉体の痛みを遥かに上回る、悲しさと恐怖だった。
自分たちの居場所が、大好きな家族が帰ってくるための、あの温かい場所がなくなってしまう。
この家で重ねてきた、数え切れないほどの優しかった思い出の記憶が、すべて跡形もなく消えてしまう。
いつまでも続くはずだった日常が、ただの無価値な灰として世界から削り取られていく。
だから、彼女は泣いたのだ。
声にならない悲鳴をあげ、溢れ出る涙は頬を伝う先から灼熱の熱気によって瞬時に蒸発し、乾いた跡と黒い煤の汚れだけをその幼い肌に残していく。
どれほど叫んでも、どれほど涙を流しても、この猛威を振るう業火には届かないと、心の底では冷酷に理解していながら。
それでも、彼女は涙を流すことを止められなかった。
(――だって、言ったもん。■■■■■は、約束したもん)
意識が急速に混濁し、記憶の文脈が不気味に焼き焦げていく最中であっても。
彼女の胸の最深部には、決して消えることのない、たったひとつの熱い思いが、硬く、頑なに残り続けていた。
■■■■■と交わした、大切な、大切な約束。
指先と指先を絡め合わせ、互いの体温を感じ合いながら口にした、ほんの小さな口約束。けれど、彼女は信じていた。
――■■■■■は、絶対に約束を破らない。
あの人は絶対に、自分を見捨てることなんてしない。きっと、助けに来てくれる。
この猛火の壁を吹き破って、自らの手を取って、あの優しい日常へと連れ戻してくれる。
彼女は、崩壊していく意識の糸を必死に手繰り寄せながら、そのたったひとつの最後の希望だけに、しがみつき続けていた。
パチッ、パリィィィン!
頭上の窓ガラスが熱量に耐えかねて派手に砕け散り、外からの酸素を吸い込んだ炎が、爆発的な勢いで天井を這い回る。
迫りくる破滅のカウントダウン。皮膚が引きつり、網膜の奥までが真っ赤な光に灼かれていく――。
「――っ、げほっ、げほっ!」
――その時だった。
炎の渦巻く部屋のすぐ外側、猛烈な黒煙のカーテンの向こう側から、必死に咳き込む誰かの声が、微かに届いたのは。
彼女は、最後の力を振り絞るようにして、ゆっくりと、重い首を持ち上げた。
ぼやける視界。涙と煤でまともに開かない瞳。
けれど、彼女の心は歓喜に震えていた。
やっぱり、来てくれたのだ。約束通り、自分を救い出すために、この火の海の中へと飛び込んできてくれたのだと。
「――■■■っ!」
煙の向こうから、悲鳴にも似た声が響いた。
自分を呼ぶ、あの愛おしい声。自分を誰よりも大切にしてくれた、あの人の叫び。
紅蓮の炎が二人の間を遮る中で、彼女もまた、動かないはずの右手を、かろうじて床から持ち上げ――。
焦げ付く空気の向こう側に差し出された、あの愛しい手へと向けて、必死に指先を伸ばした。
あと、ほんの数センチメートル。
指先と指先が、触れ合う、まさにその極限の刹那――。
――ぷつり。
なんの余韻も、なんの救いもなく。
彼女の意識は、そこで途絶えた。
伸ばされた指先が相手の皮膚に触れることは、永遠に無かった。
視界を埋めていた紅蓮の赤も、耳を圧迫していた火の粉の爆発音も、肺を灼いていた激しい痛みの感覚も。
そのすべてが一瞬にして塗り潰されていき、彼女の魂は、完全な暗闇へと突き落とされた。
――残された、真っ暗な闇の中。
肉体という器を失い、世界のあらゆる物理法則から切り離されたはずのその虚無の領域において。
なぜか、彼女の魂の核には――ほんの僅かな焦げ臭さと、目の奥に深く深く焼き付いてしまった炎の赤だけが、消えることのない呪いのように残り続けていた。
愛していたものが、すべて燃え去ってしまった絶望。
帰るべき場所が、二度と戻らない灰へと変えられてしまった喪失。
信じていた約束が、理不尽な死の前にあっけなく打ち砕かれてしまったという現実。
生きていたかった。
温かい思い出のまま、あのみんなの笑顔のまま、ずっとあの場所で生きていたかった。
なのに――世界は、彼女からその全てを、あまりにも容易く、あまりにも残酷に奪い去っていったのだ。
温もりを失った暗闇の深淵で、彼女の壊れた精神の回路が、ゆっくりと、静かに反転を始めていく。
――もう、何もかもが許せない。
たとえ、続きがあったとしても、残されたこの世界そのものが、狂おしいほどに忌々しい。
どうして、自分は全てを奪われたのに。どうして奪われていない人がいるのだろうか。
どうして、自分はもう■■■■■に会えないのに、幸せそうに生きている人がいるのだろうか?
「……えばいいんだ」
静寂に包まれた死の闇の中で、彼女はぽつりと、掠れた声で呟いた。
「――全部、燃えちゃえばいいんだ」
◆◇◆




