301話「臨界点、硝子の罅」
崩落した天井の穴から降り注ぐ、どこまでも冷たくて美しい星々の光。それが、大理石の床に広がった深紅の血溜まりを青白く照らし出している。
カノン、リラ、アルトにギエナ――そして命を賭して己の存在を証明してみせたシャウルまでもが言葉を失い、カリオペの亡骸を前にして、重苦しい沈黙と共に立ち尽くしていた。
けれど――その静寂の中で、私だけは、どうしても胸の奥で渦巻く戸惑いと混乱を拭い去ることができずにいた。
(……私と"マッチ売りの少女"が、似ている……?)
カリオペが息を引き取る直前、遺していった最後の言葉。その途中で、彼女の息は途切れてしまった。
だが、投げかけられた謎は、私の脳内を揺さぶり続けていた。
"マッチ売りの少女"。
帝国軍の最深部に君臨する、私たちの宿敵。世界のすべてを拒絶し、燃やし尽くすことだけを望む、冷酷無比な怪物。
必ず倒さなければならない、この世界の破滅そのもの。
なぜ、カリオペは最期に、私から、あの怪物と同じ匂いを感じ取ったというのか。
『なにせ、あなたたちは』という言葉の先には、一体何が隠されていたのか。
考えれば考えるほど、視界が歪むような感覚に襲われる。胸の奥で燃え盛るの熱と、世界を焼き尽くす業火のイメージが重なり合い、冷や汗が額からツッと流れ落ちた。
「……あんまり気にすんなよ、ノクティアちゃん」
背中に、ぽんと、力強い手が置かれた。
振り返れば、カノンが服の埃を払いつつ、いつもの不敵な笑みを少しだけ歪ませながら、私を見下ろしていた。
「"マッチ売りの少女"は、あたしたちと同じ、百年以上前からこの世界で生き長らえてる"古き姫"の一人だ。奴のことは、それこそうんざりするほどよく知ってるけどさ……」
カノンは自らの短い髪を乱暴にかきむしると、きっぱりとした強い調子で言葉を続けた。
「ノクティアちゃんとは、似ても似つかねえぜ。あんな、世界中のすべてを嫌悪して、壊すことしか頭にねえ壊れた怪物と、あんたみたいに、泥臭くたって誰かのために前を向いて足掻くまっすぐなお嬢様が、似てるわけねえだろ」
「……そうだねぇ。なんでカリオペが、最期にあんなことを言い残していったのかは……私にも、さっぱりわからないよぉ」
膝を突き、カリオペの瞼をそっと指先で閉ざしながら、リラが静かに同意の言葉を漏らした。
彼女は最高司教の血に汚れた法衣の乱れを優しく整え、大理石の上にその身体を安らかに横たえさせる。
いつの間にか、カリオペの胸に縋り付くようにして激しく泣きじゃくっていたシャウルも立ち上がっていた。彼女は拭った目元を真っ赤に腫らしながら、もう動かなくなったカリオペの顔を、強く、覚悟の籠もった瞳で見下ろしていた。
「……まあ、気になる気持ちも痛いほどわかるがね。案外、肝煎りの計画をあと一歩ってとこで打ち砕かれた、ただの負け惜しみかも知んないしさ。とりあえず今は、目の前のやるべきことに集中しようぜ」
カノンのその言動は、私の動揺を静めようとする、彼女なりの配慮なのだと分かった。
私は深く、深く息を吐き出し、胸の中の黒いノイズを強引に脇へ押しやる。
「……ええ、そうね。カノンの言う通りだわ」
私は視線をカリオペの亡骸から外し、白亜の壁の破片が散らばる周囲へと向けた。
戦いは、一応の決着を見た。しかし、私たちの抱える問題や危険のすべてが去ったわけでは決してないのだ。
頭の中に、いくつもの切迫した疑問と不安が、次々と浮かんでは消えていく。
――今、ここにいないザラは、無事なのか。
彼女がどこへ向かったのか、気が付けばその姿は消えていた。彼女に限って、単なる信徒たちに殺されたということはないだろうが、それでも、不安は拭えない。
――"男性領"で、一体何があったのだろうか。
無も知らぬ、あの白銀鎧の騎士は、声から判断するに男だった。それに、追うようにして現れた、アルトとギエナ。彼らは"男性領"で何を見て、何に出会ったのか。
――ミラクは、無事だろうか?
私たちがこの最上階でカリオペやアルザームと死闘を繰り広げている間、大聖堂の階下では、狂信に囚われた数千の信徒たちが波のように押し寄せていたはずだ。それをたった一人で、その身を盾にして食い止め続けてくれているミラクの安否も、一刻も早く確認しなければならない。
山積みとなった課題。けれどそれよりも私には、他に聞かなければならないことがある。
次の一歩を踏み出すために――私は、静かに佇むリラへと正面から向き直った。
「……リラ、聞かせてくれるかしら」
私の声に、カリオペの遺体に寄り添っていたリラが、ゆっくりと顔を上げた。
「どうして、カリオペはこんな凶行に走らなければならなかったのか。……そして、彼女たちがそこまでして縋り付こうとした"原初の姫"とは、一体何なのか……」
あの日の"晶潮館"で、アケルナルたちの口から語られた断片的な伝承。
この世界の原初に在り、"姫"の仕組みを生み出したとされる最初の迷い子。
その存在は今も、この聖教国にて崇められ、今回の件のの引き金となっていた。戦いを終えた今こそ、私はそのすべての真実を知らなければならないのだと思った。
リラはその滑らかな前髪の隙間から、少しだけ思案するような仕草を見せた。
ヴェールの影に隠された彼女の瞳が、私の顔を――私の奥に宿る熱量を、試すかのようにじっと見上げてくる。
「……いいよぉ、ノクティア様」
やがて、リラはいつものあの間延びした聲音に、ほんの少しだけ生身の温もりを混ぜて答えた。
「今の君にはさぁ。極限の死線を乗り越えて、シャウルちゃんをその手で救い出した君には……間違いなく、その真実を聞く権利があるからねぇ」
彼女は私を対等に歴史の重みを背負う一人の"姫"として、明確に承認してくれたようだった。
その事実が、単純に嬉しい。
「……ありがとう、リラ。それじゃあ、早速――」
私が続きを促そうと一歩を踏み出しかけた、その時だった。
「――その前に、少しだけ時間をもらってもいいかなぁ?」
リラは静かに手をかざして私を制すと、足元に横たわるカリオペへと視線を落とした。
「……この人をね、ちゃんとした場所へ運んであげたいんだぁ。たくさんのことを間違えて、取り返しのつかない罪を重ねちゃった人だけど……最後にはちゃんと、己の過ちに気づくことができたわけだしねぇ」
そのリラの言葉には、長年教国の影として彼女に仕え、共に歴史を歩んできた者としての、静かで深い手向けの情が込められていた。
私は、そのリラの申し出を拒む理由など持っていない。
どれほど憎むべき敵であったとしても、命を落とした者に対して尊厳を払うこと――それは、"姫"としてですらない、人として最低限の礼節だ。
「わかったわ。それじゃあ、また後で――」
私は静かに頷き、カリオペの遺体を運ぶ手伝いをしようと、あるいは一度階段の方へ戻ろうと、踵を返そうとした。
――だが。
脚に力を入れた、まさにその瞬間。
「――え?」
足裏に伝わるはずの、大理石の硬質な感触が存在しない。
まるで、どこまでも深い沼か、ドロドロに溶けた粘土の上に立ち尽くしているかのように、地面がひどく柔らかく、底なしに沈み込んでいく感覚。
視界が、ぐらぐらと旋回を始める。
白亜の壁も、崩れた天井の星空も、横たわるカリオペの姿も、すべての色彩が急速に濁り、万華鏡のように歪んで渦を巻き始めた。
(頭が、熱い……。視点が、定まらない……――)
違う。地面が沈んでいるのではない。
私の肉体が、内側から崩れ始めているのだ。
エレクトリアとの死闘において、すでに私の魔力と体力は限界を迎えていた。
そこからさらに、リラとの手加減なしの肉弾戦。
そして極めつけに――白銀鎧が放った、あの焦熱の光炎の直撃。
それらが重ねたダメージは大きく、カリオペの最期の言葉への混乱や、シャウルが無事に生還したという圧倒的な安心感によって、これまで張り詰めていた私の精神の緊張の糸が、プツリと切れてしまったのだ。
限界を遥かに超えて稼働し続けていた私の肉体は、もはや一秒たりとも、直立を維持することを許してはくれなかった。
「――お嬢様っ!?」
歪んでいく景色の向こう側で、シャウルの叫び声が聞こえたような気がした。
必死な顔をして、こちらへと手を伸ばし、血に汚れた大理石を蹴って駆け寄ってくるあの子の姿。
ギエナやアルトが、驚愕に目を見開いてこちらへ手を伸ばそうとしている気配。
けれど、私にはもう、その差し出された手を取るための筋力すら残されてはいなかった。
膝の関節が砕けたように崩れ落ち、視界の色彩が完璧な漆黒へと塗り潰されていく。
身体が、どこまでも、どこまでも深い暗黒の底へと落ちていく。
仲間たちの叫び声も、夜風の音も、すべてが水底の耳鳴りのように遠ざかっていき――。
――私の意識は、抗う術もなく、暗闇へと落ちていくのだった。




