300話「入滅」
「……はあ、……く、……ぅ……」
血溜まりの真ん中で、横たわる最高司教カリオペの唇から、血の泡と共にひどく掠れた末期の呼吸音が漏れ出る。
私やカノン、リラ、そしてアルトとギエナが彼女を囲むようにして立ち尽くしているけれど、誰もが失われつつある命の前に、ただ沈黙を保つことしかできなかった。
リラが静かに膝を突き、血に汚れることも厭わずに、カリオペの上半身を両腕で優しく抱き起こしている。リラの手の中に伝わる鼓動は、きっと弱々しく、その周期を不規則に遅らせていっているのだろう。
「……私は、……ここで、死ぬの……ですか……」
カリオペは焦点の合わない瞳を、ゆっくりと、彷徨わせるようにして天へ向けた。
いつだって聖母のような欺瞞の微笑みを貼り付け、"あのお方"とやらの代弁者として私たちを追い詰めていたあの面影は、もうどこにも残されてはいない。そこに横たわっているのは、ただ己の積み上げた因果の重さに耐えかねて、静かに命の終わりを迎えようとしている一人の女性の輪郭だった。
「……ええ、そうね。あなたの積み上げた物語も、抱いていた歪んだ野望も……全部、ここまでよ、カリオペ」
私は胸の奥の複雑な気持ちを押し殺しながら、できるだけ冷静に、事実のみを彼女へと投げかけた。
彼女がシャウルにしようとしたことは、絶対に許されることではない。それに、私の見えないところで、恐らくは多くの罪を重ねてきたのだろう。
故に――彼女は、同情に値するような存在ではない。
そう断じた私の、容赦のない引導の言葉を耳にして、カリオペは怒る風でもなく、ただ自らの長い睫毛を僅かに伏せた。
その顔には、敗北に対する悔しさのようなものは見当たらない。むしろ、何かしがらみのようなものから解放されたかのような、哀しいほどに穏やかな諦絶の色が滲み出ていた。
その時、血溜まりのフチに跪いていたシャウルが両手をそっと伸ばし、床の上でピクピクと震えていたカリオペの冷たくなりかけた右手を――優しく、包み込むようにしてぎゅっと握り締めた。
シャウルは何も言わなかった。ただ、自らの体温を、少しでも死にゆく彼女の指先へと分け与えるかのように、祈るような姿勢のまま、両手で強く、強く、握り締め続けていた。
猫のような丸い瞳からは、大粒の涙が次から次へと溢れ出し、大理石の血溜まりの表面へとポツポツと小さな波紋を刻んでいく。
「シャウル、様……。……だめ、ですよ……。あなたを裏切った私のために……そんなに、涙を流したりしては……」
カリオペは驚いたように目を見開き、掠れた声を切なげに震わせた。
自らのエゴのために、魂すらも下敷きにしようとした少女。その彼女が今、自分の前に跪き、誰よりも深く傷つきながら涙を流してくれている。その事実に、彼女の心が激しく揺れ動いているのが分かった。
シャウルは、自らの涙混じりの掠れた声を、真っ直ぐにカリオペの顔へと届けた。
「……あたしを騙して、ただの人形として利用しようとしたことだけは……あたし、今でも許してないっすよ、カリオペ様」
あの子の目に宿る光は、一人の人間としての、折れない強い覚悟の明度を放っていた。
「でも……。あたしのことを見つめてくれたときの、優しそうな目の輝きは……。引いてくれた手の温もりは……。かけてくれた言葉の温度は、絶対に偽物なんかじゃなかったって……本気で、そう信じてるっす。だから、あたしはあんたを――」
その続きが、シャウルの口から紡がれようとした瞬間だった。
カリオペは、リラに支えられていた自らの上半身を前方向へと僅かに動かし、自らの胸へと、目の前のシャウルの小さな身体を――優しく、包み込むようにして、ギュッと抱き寄せたのだ。
「あ――」
シャウルの言葉が、彼女の純白の法衣の胸の中で優しく遮られる。
死にゆくカリオペの胸の中は、決して温かいものではなかったはずだ。死の冷気がじわりじわりと彼女の肉体を支配し始めていた。けれど、シャウルはその腕の中で、抵抗することすら忘れ、ただ子供のように静かにその細い肩を何度も、何度も激しく揺らして泣きじゃくった。
カリオペはシャウルの短い髪を、自らの血に汚れた指先で愛おしげにそっと撫でながら、自らの視線を、すぐ傍らで自らの身体を崩れないように支え続けてくれている、彼女――リラの方へとゆっくりと向けた。
「……リラ。……あなたにも、謝らせてください」
カリオペの口の端から、再び一筋の赤黒い鮮血が流れ落ちる。
「私の……歪んだ妄執のために、嫌な役回りを押し付けてしまって……本当に、ごめんなさい。私の欲に、あなたを無理やり付き合わせてしまいました……」
リラは、彼女は何かを噛み締めるような、長い、重苦しい沈黙を少しだけ置いてから、ぽつり。
「……別にいいよぉ、カリオペ」
漏れ出たそれは、恐らく、含むところのない剥き出しの本音だった。
「私にだってさぁ、色々と考えはあったわけだし。あんただけに、全部押し付けて終わらせるほど、被害者ぶるつもりはないよぉ」
「ふふ、……相変わらず、……優しい、子ですね……」
カリオペは自らの視線を僅かに揺らした。それを言語化すれば、罪悪感になるのだろうか。まるで、得られた許しそのものが眩く、受け入れ難いかのような仕草だった。
けれど、もう残された時間は多くない。それでも伝えなければならないことは、彼女にもわかっていたようだった。
「あなたは……このプレアデス聖教国における、崇拝の対象である"姫"そのもの……。ゆえに、あなたが最高司教の座に就くわけにはいきません。ですが、私の無くなった後の……聖教国の行く末を……あなたに、頼んでも……いいですか……?」
カリオペの最期の問い。
それにリラは、一瞬だけ沈黙を返した。
彼女は誰の味方にもならず、劇場の暗闇から世界の行く末を傍観するだけの、無責任な観客。カリオペの頼み引き受けるということは、もう二度と、安全な観客席には戻れないということを意味する。
リラは、もう一度強く、何かを噛み締めるような間を置いてから――ゆっくりと、顔を持ち上げ、凛とした表情でその口を開いた。
「……確かに。そのお役目は私が、謹んでお引き受けいたしますよぉ。……だから、どうか、安らかに。カリオペ・ルーツ・セレスティーア最高司教」
リラのその言葉は、仮面の下から発されたものではなかった。欺瞞も繕いも脱ぎ捨てた、本物の誓い。
それを耳にした瞬間、カリオペの、どこか引き攣っていた貌は、張り詰めていた何かから解放されたかのように、どこまでも、どこまでも安らかなものへと変わっていった。
「……ああ、……よかった。……これで、私の……すべての頁が、終わるのですね……」
カリオペの目の縁から、一筋の、曇りのない透明な涙が流れ落ちる。
そこにも、嘘はない。ただあるのは、長く積み重ねてきた、後悔と悔恨だけだ。それが行き場を失い、涙に形を変えたのだ。
「私は教義と大義を掲げ、……本当に、許されない、幾多の罪を積み上げてしまいました……」
彼女の唇から、ぽつり、ぽつりと、独白が漏れ出る。
「一体……いつから、私の歩むべき道、これほどまでに歪んでしまったのでしょうか……。私は、……ただ、あの空の下で、かつて"あのお方"が嬉しそうに私に話してくれた、理想の世界を……この目で一度だけでも見たかった、ただ……それだけだったはず、なのに――」
祭儀場に、二つの嗚咽が木霊する。
母のようでもあり、裏切られたことすら許した上で別離を待つシャウルの、瑞々しい涙。
理想の最果てで、罪の重さに潰されて死にゆくカリオペの、末期の悔恨の残響。
重なり合い、不協和音を描くその二つの泣き声は、白亜の壁に何度も反響し、夜の冷え切った闇へと深く、深く、吸い込まれて消えていった。
カリオペは、最後にゆっくりと、その視線を動かし――すぐそばで立ち尽くしていた私の顔へと、焦点を合わせてきた。
「……ノクティア、さま……。……ああ、……やはり、その……激しく燃え盛る、硝子の……瞳。……あなた、は……本当によく……に、て……います、ね……」
「似ている……? 何のこと?」
私は首を傾げることしかできなかった。
あと幾ばくもない時間で、彼女は何を伝えようとしているのか。それが理解できずに、傾ぐことしか。
カリオペは自らの薄い唇を、血の泡と共に震わせ、その言葉を囁いた。
「……"マッチ売りの少女"、……にですよ。……なにせ、……あなた、たち、は……――」
――ガクリ。
「――カリオペ……っ!?」
私の叫び声が最上階の空間に響き渡ると同時に、カリオペの頭部が、リラの手の中へと重く、力なく傾いた。
筋弛緩。脱力、そして、彼女の両目の最深部から、命の灯が消えていく。
プレアデス聖教国最高司教、カリオペ・ルーツ・セレスティーア。
かつて、一国の信仰を指先一つで支配し、理想の世界のために幾多の罪を積み上げ続けた、冷徹なる聖母。
そんな彼女は、崩落した天井から降り注ぐ、どこまでも冷たくて美しい、満天の星空の光にその全身を優しく抱かれるようにして、歪んでしまったお話の頁を閉じ、今、完全に息を引き取ったのだった。




