299話「我欲は貫かれ」
暴力的なまでの圧力が嘘のように凪ぎ、祭儀場を支配していた神話の魔力が霧散していく。
その引き潮の真ん中で、シャウルはまっすぐに、カリオペを見据えていた。その姿に、私はただ、溢れ出る涙を堪えることしかできなかった。
――勝った。あの子は自身の魂を、破滅の運命から引き剥がしてみせたのだ。
しかし、私たちが手に入れたその奇跡は、対峙する者にとっては、思惑のすべてを根底から全否定されることにほかならなかった。
「な、なんてこと……! そんな、あり得ません、あり得てたまるものですか……っ!!」
最高司教カリオペは、両手で頭を掻きむしりながら、奈落へと崩落していく床から逃げるかのように、無様に後退した。
完璧だったはずの"姫降ろしの儀"の失敗。聖教国の最奥で研ぎ澄まし続けてきた、とっておきの"聖典"が、一人の少女の意志によって、台無しにされてしまったのだ。
彼女の端正だった貌は、今や恐怖と絶望のあまり歪に引き攣り、その瞳からは聖母の如き余裕の光は、完全に失われていた。
追い詰められ、自らの手札のすべてを失ってしまった彼女は、血走った目を狂ったように彷徨わせ――そして、頭上の虚空に向けて、縋るような悲鳴を張り上げた。
「お、お助けください、アルザー…!」
「――だめだね。ここまでだ」
カリオペが言葉の全てを紡ぎ出すよりも早く、光が閃く。
シュイン、と。中空に浮かんでいた全身鎧は、怯えるカリオペと、立ち上がったばかりのシャウルのちょうど真ん中に着地した。二人を分断するようにして、鎧の男は冷たい視線を、カリオペへと向ける。
「とらのこの"さいやくのひめ"。その、こうりんに、しっぱいしたじてんで……。きみのまけだよ、カリオペ」
「で、でも……っ! まだ、あなた様がここにいるじゃありませんか……っ!!」
カリオペは法衣の裾からその手を伸ばし、全身鎧のへと、必死に縋り付こうとした。
「あなた様は、"あのお方"と共にある絶対の調停者、"千の騎士"でしょう! あなた様の力ならば、並の"姫"など――!」
最高司教の哀願。けれど、全身鎧の男は、全くと言っていいほど揺らぎを見せぬまま、静かにその首を横に振った。
「……かんちがいしないでね、カリオペ」
鎧の男の唇から漏れ出た、拒絶の言葉。
次の瞬間、彼の全身の白銀の装甲から、それまでとは比べ物にならないほどに高密度に圧縮された、目も眩むような断罪の輝きが爆放たれた。大気そのものが不気味な高周波を立てて激しく鳴動し、熱を頬に感じさせる。
「――っ! マズい、おい、やめろ――ッ!!!」
私のすぐ隣、カノンが、何かをいち早く察知し、悲鳴のような絶叫を張り上げた。
彼女は"銀の靴"を稼働させ、大理石の床を爆砕しながら、全力で加速する。
――しかし。
ドスッ。
全身鎧の男の右腕が、虚空を滑るようにして滑らかに、そして静かに振るわれる。
皮膚と肉、恐らくは骨までもを貫いたのでろう、生理的嫌悪を覚えさせる衝撃音が、祭儀場に鳴り響いた。
全身鎧の手甲が、何の躊躇もなく――最高司教カリオペの胴部を貫いた音だった。
「――え?」
カリオペの唇から漏れ出たのは、悲鳴ですらなかった。
ただ、自らに何が起きたのか理解できないというような、困惑混じりの唖然とした呟き。彼女の純白だった法衣の真ん中に、じわり、と――赤黒いシミが拡大していく。
「ぼくがつかえているのは、きみにじゃ……ない」
全身鎧は、カリオペの肉体から腕を引き抜きつつ、どこまでも平坦な、冷酷な音声を響かせる。
「きみのいうことなど、ぼくはきかないし、"かのじょ"のねがいをたてにして、おのれのみにくいよくぼうをかなえようとしたことは、このせかいにおいて、もっともおおきなつみだ」
「ぐ、……がはっ、あ……――」
カリオペの口の端から、大量の血が派手に吐き出される。
支持力を失った彼女の肉体は、糸の切れた人形のように、大理石の床の上へと、冷たく倒れ伏したのだった。
「――カリオペ……っ!?」
「――てめえっ、やりやがったなッッ!!!」
後方から、リラが悲鳴とともに駆け寄る。
それと同時に、すでに"銀の靴"の超加速によって前線へと到達していたカノンが、髪を怒りで激しく逆立てながら、全身鎧の側頭部を目掛けて、強烈な回し蹴りを放った。爪先が弧を描き、あらゆるものを粉砕する、渾身の一撃。
――しかし。
フッ、と。
カノンの一撃が彼の装甲に接触するよりも遥か手前で、全身鎧は上空の座標へと舞い上がった。
右足が虚しく中空を切り、強烈な風圧だけが祭儀場の壁に新たな亀裂を刻み込む。
「クソがっ……! どこまであたしたちを舐め腐ってやがんだ……っ!」
カノンが着地し、浮遊する白銀の騎士を激しく睨み据える。
全身鎧は、崩落した天井の向こう側に広がる満天の星空を背にして、静かに私たちを見下ろしていた。
「いまはまだ、きみたちとたたかうときじゃ……ない」
彼の声に混ざるのは、どこか冷徹な響き。この世界の調停者としてすべてを見下ろす、ある種、超然とした色だった。
「――"かのじょ"のえがいたものがたりは、あともうすこしだけつづくからね」
そうとだけ一方的に告げると、彼の白銀の装甲から放たれていた輝きが、一瞬にして増大した。
目を開けていられないほどの、眩い純白の閃光。
次の瞬間、彼は、ただ一条の細い光の束と化して、夜空の最果てへと向けて、一瞬にして消え去っていった。
――あとに残されたのは、天井の開いた広い祭儀場に降り注ぐ、冷たい夜の星光と、不気味な静寂だけだった。
私たちは、しばらくの間、彼が消え去った夜空の残光を、ただ呆然と見つめるしかなかった。けれど、床の上から漂ってきた血の匂いに、私たちの思考は一気に引き戻された。
「カリオペ……っ!」
私は悲鳴を上げる両足に鞭を打ち、シャウルやカノン、リラと共に、床に倒れ伏した最高司教の元へと一斉に駆け寄った。
「カリオペ……っ! しっかりしなさい、カリオペ……っ!!」
床に這いつくばる彼女の身体を仰向けにひっくり返した瞬間、私の瞳は激しく収縮した。
彼女の純白だった法衣の真ん中――その腹部に抉り開けられた、文字通りの風穴が、ぽっかりと向こう側の床が見えるほどの大きさで貫通していたのだ。
ヒトの中身がドロドロと、際限なく溢れ出し、床の上に巨大な赤黒い池を作っていく。
その出血の量、完全に破壊された内臓、そして彼女の瞳から失われつつある意識の光。
それが致命傷であることは、誰の目から見ても一目瞭然だった。
「ひ、う……っ、あ、か……っ」
カリオペの唇から、血の泡と共に、絶え絶えの、弱々しい呼吸の音が漏れ出る。
彼女の白い指先は、取り落とした"聖典"をを探すように這うが、探り当てられず、ピクピクと虚しく震えることしかできていなかった。
「……うそ、だろ。おい、リラ! お前、こいつを治す方法はねえのか!?」
カノンが自らの短い髪をかきむしりながら、リラの胸ぐらを掴まんばかりの勢いで叫んだ。
けれど、リラはただ、自らのヴェールの下で、悲しそうに首を横に振るしかなかった。
「……ないよぉ、カノン。……失われた組織を完璧に再構成して、死のカウントダウンを巻き戻すような……そんな便利な回復魔法なんて、それこそ"髪長姫"くらいしか使えない」
私の硝子の魔法も、カノンの変身魔法も、すべては敵を打ち破るための暴力に特化している。誰かの失われゆく命を繋ぎ止める術など、誰も持ってはいなかった。
(……もしも、聖堂内にいる信徒たちや、魔法の使い手を片っ端から捕まえてくれば……、その中には、高度な治癒の奇跡を行使できる者がいるかもしれない。けれど――)
私はカリオペの胸の上下、そして、広がり続ける血溜まりを見つつ、その残り時間を弾き出した。
(――甘く見積もって、おそらく一分未満。……教国の下層まで往復して回復要員を確保して戻ってくるなんて、どう考えても間に合わない)
カリオペの、生温かい血の匂いが祭儀場を満たしていく中で、私はただ、彼女の消えゆく最後の呼吸の音を、何もできずに見つめ続けるしかなかった。




