298話「匣の中にあったもの」
「う、く――、あ、あぁ……っ!!」
大理石の床に両手を突き、私は必死に、肺へと酸素を送り込もうとしていた。
聖壇の上。つい先ほどまで、シャウルの華奢な肉体から爆発的に噴き出した、魔力の奔流。それは、かつて戦ってきたどの"姫"とも、あるいは目の前に立ち塞がる"千の騎士"とも決定的に異なる、圧倒的な力を持っていた。
空間全体の重力が十倍、二十倍にも膨れ上がったかのような圧迫感。大気そのものがドロドロとした熱い鉛のように変調し、私の皮膚を、髪を、網膜を覆う。
「……魔力の、密度が違うねぇ……っ! 戦うとかそういう次元の前に、私たち全員、すり潰されちゃうよぉ……っ!」
私の背後、リラが悲鳴のような呟きを漏らした。
けれど、そんな私たちの慄きを他所に、カリオペは、狂ったような哄笑を祭儀場全体へと響き渡らせた。
「あははははははは! そうですよ、リラ! 何もかもを、すり潰してしまうのです! "あのお方"が描き上げたこの美しい理想の世界に不要なものは、すべて、消されるのが正しいのですから……ッ!!」
朗々と響く狂信の声。
だが、その歪な言葉を聞いた瞬間、彼女の傍らに控えていた全身鎧の男は、鉄の面頬を僅かにカリオペの方へと向けた。
「……きみが"かのじょ"の、りそうをわかったようにかたるのは、すこし……しゃくだね」
「っ!? も、申し訳……!」
カリオペが弾かれたように声を詰まらせる。しかし、鎧の男はそれ以上の視線を彼女に向けず、ただ冷酷な、絶対の調停者として続ける。
「でも……ちからのないものは、どうせ……このさきをいきのこることなど、できはしないからね。……いまのうちに、まびいてしまおうか」
「……っ! クソが、ムカつく物言いだが……あいつの言う通り、この出力はヤバすぎるぜ……! こうなりゃ、もう……!!」
隣で、カノンが歯噛みする。戦闘経験の豊富な彼女の目は、もしかすると、私が見ているよりも絶望的な景色を映しているのかもしれない。
それを裏付けるように、シャウルを中心に渦巻く魔力は、さらにその風圧を増し、周囲の空間を引き裂き続けていく。
「っ、はぁ、はぁ……!」
荒い息を吐きながら、私は薄れゆく意識の淵で、脳味噌を回す。
このままでは、全滅する。
私たちがここで何もしなければ、魂を上書きされたシャウルによって、回避のしようがない終わりがやってくる。
どうする。どうすれば、目前の破滅を回避できるのか、私の脳はそれで占められていく。
(残された私の魔力は、いいとこ数%もない……。カノンとリラも満身創痍で、正面突破は絶対に無理ね)
冷酷に、そして客観的に、事実のみを並べる。
悲観もせず、楽観もせず――そうすれば、見えてくるものもある。
(――一か八かの、博打ね。……もう、これしかないわ)
もしも、私がこの身に残った全ての力を、"根源"の翼へと一気に注ぎ込んだなら。一度だけではあるが、それなりの威力を出すことはできるだろう。
狙うのは、白銀の全身鎧と、カリオペの二人。
彼女らを撤退、あるいは無力化させることができれば――シャウルのコントロールを、強制的に失わせることができるかもしれない。
もちろん、コントロールを失ったシャウルが、その後どうなるかは分からない。
"女神パンドラ"の力がそのまま大人しく眠りについてくれるのか。あるいは、枷を失ったことで暴走し、この聖教国ごとすべてを焼き尽くす災厄の獣と化すのか――状況が悪化する可能性もある。
むしろ、全命を賭した一撃が、白銀鎧に難なく防がれ、頓死する可能性の方が極めて高かった。
負ける確率の方が圧倒的に高い、救いようのない悲壮な博打。
けれど――。
(ごめんね、みんな。……でも、私は、あの子をこのまま見送るわけにいかないの)
私は、背中に燃え盛る緋色の流動硝子の温度を、自らの命ごと焚べる覚悟を以て、一気に最高出力で稼働させようとした。
まさに――その、極限に至る瞬間だった。
――フッ。
突如として、祭儀場全体を圧殺せんばかりに荒れ狂っていた魔力が、まるで電源を唐突に切られた機械のように、ピタリと停止した。
「え……?」
私は思わず、素っ頓狂な声を上げる。
見れば、シャウルの身体を中心に、増大し続けていたあの禍々しい魔力が、信じられないほどの速度で、みるみるうちに萎んでいくのが分かった。
それは、すべての不条理を超克していたはずの、神話の領域ともいえる魔力の密度から――。
私たちと同じ、"姫"レベルの出力へと、急速にダウングレードし。
それでもなお、その萎縮の秒針は止まることなく、ついには――。
「なっ……何、これ……? 神話の気配が……!?」
――魔法も使えない一般人と何一つ変わらない程度にまで、その気配は萎んでしまったのだった。
私は激しくなる呼吸を抑えつつ、目の前の不可解な現象を受け止めようとした。
しかし、私よりもずっと狼狽している者――カリオペは、そんな冷静さすらも持つことができなかった。
「なっ……!? な、何ですか、これは……! まさか、儀式の失敗!? そんなはずはありません! 彼女の精神の適合率は高く、使用した"聖典"も、教国の最奥に伝わる最も純度の高いものであったはずです……!!」
カリオペは自らの頭を抱え、後ずさりながら、狂ったように喚き散らした。
彼女がどれほど目を剥いて現実を拒絶しようとも、椅子の前から立ち上がったシャウルの全身からは、もはや一筋の魔力も放たれていなかった。
カリオペの悲鳴のような問いかけに対し、シャウルは、ゆっくりと、カリオペの方へと振り返った。
あの子の顔には、冷酷で超然とした女神の表情など、全く見られることはなく。
そこにいたのは、お腹が空けば喚き散らし、いつも勝手に駆け回る、あの無邪気で、純朴な私の――。
「――あたしは、あたしっすよ、カリオペ様」
シャウルの唇から零れ落ちた、いつも通りの、衒いのない声色。
その一言が、冷え切っていた祭儀場の空間を、じわりじわりと溶かしていく。
「……そ、そんな! あり得ない! あなたは、神の依り代として、世界で最も適した"器"であったはずなのに……! なぜ、魂の上書きが、失敗したのですか……っ!!」
カリオペの醜い狼狽を、シャウルはただ、優しく、けれどこれ以上ないほどに強い光をその目に宿し、真っ直ぐに見つめ返した。
「別に、大したことじゃないっすよ、カリオペ様。あたしは、あんたたちの言うような、大層な器なんかじゃなかったんす」
シャウルは自らの胸にそっと手を当てて、凛とした声で、カリオペに向け、高らかに宣言した。
「あたしは、どこまで行ったって、グラスベル家の侍女……。ノクティアお嬢様の侍女のシャウルっす。それ以上でも、それ以下でもないんすよ!」
「まさか、シャウルちゃん……。"姫降ろしの儀"による魂の上書きを……意志だけで拒絶したってのか……!?」
私の隣で、カノンが目を見開いて、信じられないというように叫んだ。
"姫降ろしの儀"について多少は知見があるはずのカノンがここまで驚くのだ、滅多にないことなのだろう。
その辺りの詳細は、もう一人の有識者が知っているんじゃないかと、私は背後に跪くリラに目を向けた。
彼女は、現状を飲み込むだけの間を置いてから、どこか納得したかのような、穏やかな溜息と共に口を開いた。
「――"姫"の中に入れられる中身はさぁ、私たちと同じ、あちらの世界で無残に命を落とした、死した魂なんだぁ……。彼女らは基本的にはみんな、新しい体で生き返ることを望むものだけど……。もしも、その魂自身が拒絶選択したのなら。その魂は定着せずに剥がれ落ちちゃうこともある」
リラは、おどけた調子で「レアケースだけどね」と付け加えたが、その声の震えは隠せていなかった。
その言葉を肯定するかのように、シャウルは一度だけこちらを振り向くと、力強く、深くその首を縦に振ってみせた。
その奥底には、いかなる不条理にも負けることのない、気高き意志の光が、眩く、そして美しく灯り続けていた。




