297話「生きる理由」
シャウルの目に飛び込んできたのは、瓦礫の山に半身を押し潰されながら、静かに命の灯火を消し去ろうとしている一人の少女だった。
少女の年齢は、おそらくシャウル自身とそう変わらない、十代半ばほどの瑞々しさを残した横顔。けれど、その頬は煤と乾いた血に汚れ、口の端からは絶え間なくどす黒い鮮血が流れ落ちている。彼女の瞳の奥から、命の熱が失われつつあるのを、シャウルはただ見つめることしかできなかった。
この子は、あと幾ばくもしないうちに、あの瓦礫の下で孤独に冷たくなっていく。
その事実は、俯瞰しているだけのシャウルにも避けようがないほどに、理解できてしまった。
「――私は、死にたくなかったの」
不意に。
冷え切った闇の静寂を引き裂くようにして、シャウルのすぐ背後から、ぽつりと、どこか哀愁を帯びた声が響き渡った。
「ひっ……!?」
シャウルは弾かれたようにその場を振り返った。
そこに立っていたのは、数瞬前まで、瓦礫の下敷きになっていたはずの――他でもない、あの黒髪の少女であった。
彼女の肉体には、すり潰された肉体の傷も、流れ落ちる赤黒い鮮血の汚れも、ただの一筋すら存在してはいない。ただ、彼女が身に纏う黒いマントのような衣服の裾だけが、心象世界の存在しない風に吹かれてサラサラと揺れている。
その艶を失った黒髪を不規則に揺らしながら、少女は自らのくすんだ、けれど底知れない執念を宿した二つの瞳を、シャウルへと真っ直ぐに向け、静かに口を開いた。
「……お父さんは戦争に行って、そのまま二度と帰ってこなかったの。……お母さんは病気の薬がなくなって、起き上がれなくなっちゃったの。妹も弟も、毎日、お腹を空かせて、泣いてばかりいたの。……だからね、私が、私がここで死んじゃいけなかったの」
「……君、は」
シャウルは、自らの喉元まで出かかった言葉を、形にすることができなかった。
彼女自身も知っている。戦火によって奪われたあらゆる営み、そして、引き裂かれた家族と――喪失の悲しみ。
シャウル自身は、かつて帝国軍に村を滅ぼされた時も、生き残ることができた。しかし、守るべきものは全て、手のひらから零れ落ちてしまった。
家族、兄弟、友人――そう考えれば、目の前の少女は鏡映しのようだった。
(……あたしとは、真逆っす)
全てを手放して生き残った自分。
全てを残して死んでしまった少女。
シャウルは思う。だからこそ彼女は、自分の目の前に立っているのだと。自分の歩んできた道を責めるように、ここにいるのだと。
(……だと、するのなら。この子は……)
理屈はよく知らなかった。シャウルは"姫降ろしの儀"について詳しいわけではない。むしろ、グラスベル特使隊の中では最も無知とも言えるだろう。
けれど、目の前の少女がなぜここに現れたのか――その理由は、本能的に理解できていた。
「いいっすよ。……あげるっす、あたしの、この体」
何の躊躇も、未練もない、あまりにも呆気ない自己否定。
シャウルは、自らの諦めを帯びた瞳を少女へと真っ直ぐに向けると、自嘲気味に微笑みながら、言葉を淡々と紡いだ。
「あたしはね、お嬢様……ノクティアお嬢様の役に立ちたかったんす。でも、結局、どこに行ってもただの足手まといで、自分で考えたことも全部、間違ってたんす」
選択も。
感情も。
葛藤も。
全てが過ちだと言うのならば。
「だから、あたしはここでおしまいにするっす。後は、全部あげるっすから――」
少女は、そのシャウルの自己犠牲とも、あるいは、敗北宣言とも取れる言葉を、真っ向から見つめ続けていた。
黒髪の少女が抱える、生への狂おしい執念。
シャウルの、冷え切ってしまった生きる意思。
相反する二つの魂が、心象世界の中心で一筋の細い光の螺旋を描くようにして静かに交差し、混ざり合っていこうとしていた。
そして一心拍の間を置いて――。
「――いらないの」
一瞬の空白の後に、少女の薄い唇から零れ落ちた言葉と共に、シャウルは拒まれ、弾かれた。
「……っ!? いらない……って、なんすか、それ……!」
シャウルは言葉の意味がた理解できず、崩れた体勢のまま、驚愕に目を見開いた。
自らの身体を完全に差し出せば、彼女はまだ生きられる。なのにどうして、と、胸中に困惑が広がっていく。
「いらないって、意味わからないっすよ! 君はさっき、死にたくないっていってたじゃないっすか!? あたしの体を奪えば、やり直せるかもしれないのに……っ!」
「確かに、私は死にたくなかったの。……でも、それはあなたの身体を奪ってまで、生き返りたいってわけじゃないの」
少女は、狼狽を静かに受け止めながら、その艶のない黒髪を優しく揺らし、どこか悟りを開いたかのような、穏やかな微笑みを浮かべてみせた。
「あのね、私の物語は……あの日、冷たい瓦礫の下で、一人で寂しく息を引き取った瞬間に終わってしまったの。未練も、心残りもあるけれど、これで私の苦しいことは、全部、綺麗に終わったの。それは、もう二度と、上書きしてやり直すべきじゃないの――」
「で、でもっ……! それだって、死んじゃったらそこまでっすよ! そこで物語を閉じちゃったら、もうも残らないじゃないっすか! 」
「そこまでして、他人の物語にしがみついて生きたくはないの」
少女は、シャウルの必死の説得を、優しく首を横に振り、拒絶した。
「そんな風にして、他人の皮を被らせられて生き長らえるなんて、そんな生き方はきっと、間違っているの。……私はね、お父さんとお母さんが愛してくれた私自身で、私だけの人生を、最後の瞬間まで全力で生き抜いたの。だからこそ、私の物語には、私だけの価値があったの」
「あ――」
その瞬間。
シャウルは、何かの歯車が噛み合う音を聞いた。
諦め、他人に自分の身体を譲り渡して、消えてしまうこと。
それは一見、相手の命を救うための美しい自己犠牲のように見えて――その実、相手に対して人生を押し付ける、これ以上ないほどに卑劣な行為でもあったのだ。
生きるということは、思い通りにいかないことばかりだ。
理不尽な格差に泣かされ、信じていた他人に裏切られ、自分の不甲斐なさに夜ごと胸を掻き毟り、泥水を啜るような敗北を何度も味わわされる。
それでも、私たち人間が歯を食いしばって前に踏み出し続けられるのは――それが、他でもない、己だけの人生だからに他ならない。
自分の足で歩み、自分の頭で悩み、自分の手で選択したものだからこそ、私たちはその不格好な結果に対して、本当の愛着と覚悟を宿すことができるのだ。
(……ああ。……そう、だったんすね、お嬢様……)
シャウルは、心の深淵から溢れ出る光の奥に、主であるノクティア・グラスベルの気高き後ろ姿をハッキリと幻視していた。
彼女がどれほどの覚悟を持って"姫"として生きているのか――それが少しだけ、分かった気がした。
「……私の人生はね、あの灰色の瓦礫の下で、終わりを迎えたの。……だからね、あなたはあなたの人生を、他人の未練なんかで汚させずに……。あなたの足で、最後までちゃんと、生きてほしいの」
名も知らぬ異世界の黒髪の少女は、自らの黒いマントを揺らしながら、シャウルに向けて、この世の何よりも清らかで、温かい慈愛の微笑みを咲かせてみせた。
何もかもを投げ出して、この暗い深淵の底に沈んでいたシャウルの胸の奥。
冷え切っていたはずの生命の導火線に、本物の、生きるための灯火が、再び静かに灯り始める。
「……わかったっすよ。……もう、そこまで言われちゃったら、あたしも退くわけにはいかないっすね」
弱くたっていい。
無力なままでいい。
これから先、何度騙されて、自分の不甲斐なさに泣きじゃくることになったとしても。
それでも、この一度きりの不格好な人生には、きっと生きている意味があって。このちっぽけな命がここにあることには、絶対に譲れない理由があって。
そうして、進むべき道は、きっとあの眩しい"姫"の隣にあるのだから。
シャウルは両手をぎゅっと握り締め、少女の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
少女の身体が、ゆっくりと、白く輝く優しい光の粒子となって、心象世界の闇の境界線へと、サラサラと溶けて消え始めていく。
消えゆく細い輪郭に、シャウルは、消えゆく彼女に向けて、最後の問いを投げかけた。
「……最後に一つだけ、いいっすか。……君の名前を、あたしに教えてほしいっす」
シャウルの最後の問いかけに、ほんの少しだけ驚いたように目を見開いた少女は、完全に姿が見えなくなる刹那、弾んだ声とともに答えるのだった――。
「……いいの。私の、名前は――」
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