296話「辺獄の淵で」
◆◇◆
そこには、光もなければ、音もなかった。
上下の感覚も、左右の境界線すらも存在しない、徹底的な漆黒に支配された空間。シャウルはその只中を、まるで水底に沈む一枚の木の葉のように、あてもなく漂い続けていた。
肉体の感覚は、とうに消失している。
自らの指先がどこにあるのかも、呼吸をしているのかすらも定かではない。ただ、自分の意識だけが、この冷たい虚無の海にぽつんと浮かんでいるのを、ぼんやりと感じていた。
(……ここ、一体どこなんすか?)
思考の海へ向けて、声を投げかけてみる。けれど、その問いかけに対して応えてくれる者は存在しなかった。自らの声すらも、放たれた瞬間に吸い込まれてしまうような静寂。
シャウルは小さく眉を顰めようとしたが、今の彼女にはその表情を作るための肉体すら与えられてはいなかった。ただ、精にはねなになにになになわへひなはひになひほななねへななほひひなひへぬははなはな神の表面にじわりと不快な皺が寄るのを感じて、彼女はゆっくりと、その意識を閉じようとした。
(――なんだか、もう……すごく、疲れちゃったっす)
深い闇の中へ沈み込みながら、彼女の脳裏には、これまでの自らの短い人生の歩みが、走馬灯のように次々と浮かんでは消えていった。
この数ヶ月の間、色々なことがあった。
自分のこれまでの生い立ちのこと。主であるノクティアのこと。プレアデス聖教国へやってきてから、自分を本物の娘のように愛し、優しく包み込んでくれた最高司教カリオペのこと。
――そして、それらの物事を考えれば考えるほどに、彼女の頭はこんがらがっていき、何も分からなくなっていくのだった。
自分にとって、この世界で一番大切なものは、一体何だったのだろうか。
ほんの昔、ヴァルゴ王国の片隅で、浮浪児として生きていた頃は、こんなことを考える必要はなかった。明日の天気のこと、その日の食事のこと、ただ自分のことだけを考えて生きていれば、それだけで世界は恙無く回り続けていた。
グラスベル家でノクティアの侍女となってからも、基本的には何も変わらなかった。彼女の手伝いをして、賑やかな仲間たちと語り合い、美味しい食事を共有すること――ただ、自分の視界にある"楽しいこと"だけを選び取る、それが彼女の人生だった。
――変わったのは、ほんの最近。
ノクティアを取り巻く不条理な戦いの渦に巻き込まれてからは、世界は彼女に対して、そんな気楽な傍観者としての立場をしてはくれなかった。
シャウルはこれまでの人生の中で避けてきた、重苦しい選択を、何度も、何度も、冷酷に目の前に突きつけられることになったのだ。
何が本当の正解で、何が間違いなのか。
何が手放してはならない大事なもので、何が切り捨てるべきものなのか。
(……もう、こんな難しいことを考え続けるの、本当にしんどいっすよ……)
どれほど思考を巡らせてみても、正しい答えなんてものは見つけられなかった。
何が正しいかは分からなかったけれど、だからこそ、ただ一つだけ胸に残っていたのは、自分を信じてくれたノクティアの役に立ちたいという気持ちだった。
それだけは、確かに心から願ったのだ。だからこそ、彼女は自らの意志で、カリオペの甘い囁きに乗ってしまった。
――けれど、そんな決断すらも、間違っていたと気付かされる。
シャウルはカリオペが纏う、善意の匂いを信じ切っていた。しかし、そんな彼女を待っていたのは、教国の礎として生贄になる――そんな結末だった。
結局、無駄だったのだ。シャウルの勇気も決断も、何もかもが裏切られてしまった。
(……なら、もう……いいっすよね。あたしは、もう何にも頑張らなくていいっすよね……)
シャウルは、すべての思考を止めようとした。
このまま、何もない闇の底で、一つの石ころのようにじっとしていればいい。自らの意志で何も選ばず、何も行動しなければ、これ以上誰かを傷付けるような過ちを犯すこともないし、裏切られて胸を引き裂かれるような痛苦を味わうこともない。
すべてを諦め、目を完全に閉じ、微睡みと倦怠感に身を委ねようとした、まさにその刹那だった。
――何かが、彼女の視界を掠めた。
(……なんすか、あれ)
閉じようとしていた意識の目が、反射的に小さく開かれた。
漆黒の闇の中、ぼんやりと浮かぶ景色。
それは、シャウルが目にしたことのない――どこか違う世界のもの。
至る所に転がっているのは、完全に粉々にへし折られ、内部から赤黒く錆びついた鉄の骨組みを露出させた、奇妙な灰色の建物の残骸。地面は巨大な隕石でも衝突したかのように深く抉れ、かつて窓であっただろう四角い空間のフチには、尖ったガラスの破片がびっしりと並んでいる。
どこを見渡しても、激しい爆発の炎によって黒く灼け焦げていない場所など残されてはいない、目を覆いたくなるような惨状。
それは、彼女の知るどの国家の様式とも決定的に異なっていた。
倒壊した部屋の中に転がっている、奇妙な配線が複雑に絡み合った箱や、割れた平たいガラスの板。機械といえば、帝国製の無骨で前時代的なものしか見たことのない彼女からすれば、それらの小さな遺物は、何に使うための道具なのか、その正体を判断することすら不可能な未知の存在だった。
しかし、彼女の目を引いたのは、それらではなかった。
その遺物の周りに、幾重にも重なるようにして無残に倒れ伏している、無数の人間たちの死体の山。彼らが身に纏っている衣服もまた、今までに訪れたいずれの国でも見たこともないデザインの布地だった。
ここで何があったのか、詳しい事情は知らずとも、シャウルはその光景の本質を、直感的に察知していた。
(これは……戦争の痕跡っす。それも……あたしたちの世界の戦いなんて比じゃないくらい、めちゃくちゃな怪物が通り過ぎた後の……地獄の跡っす……)
そこには、騎士たちの誇りも、神聖なる信仰の光も、もしかすると掲げるべき大義すら存在しないかもしれない。
ただ、大量の血が際限なく大地を濡らし、無数の尊い命がゴミのように一瞬で絶たれ、助けを呼ぶ子供たちの悲痛な叫び声が、砲声によって無慈悲にかき消されていく。
痛苦と、喪失と、理不尽な死だけが、世界の真ん中に据えられている。そんな、二度とめでたしめでたしには戻らない、救いようのない赤と黒の景色。
なぜ、自分は今、こんなものを見せられているのだろうか。
シャウルがその赤黒い地獄の光景に精神を激しく恐怖で震わせ、視線を彷徨わせようとした――その瞬間。
彼女は、"それ"を目にしてしまう。




