295話「神話の目覚め」
「……っ、女神、パンドラ……!?」
私の唇から、ひどく掠れた、絶望を孕んだ声が零れ落ちた。
呼吸をするたびに肺の奥が灼けるように熱い。全身の筋肉がちぎれそうなほどの疲弊を訴える中で、リラが告げたその名は、私の思考をかき乱すのに十分だった。
私たちの世界の物語が、世界を強引に書き換えるほどの絶対的な力を持つ、この異世界。
"姫"たちが宿している"シンデレラ"や"ドロシー"といった童話の力ですら、本来の世界の物理法則を捻じ曲げ、一国を傾けるほどの規格外の奇跡を行使することができるのだ。
だとするならば――童話よりも遥かに古く、人類の歴史の始まりから数千年にわたり受け継がれてきた神話の住人。それも、世界に初めてありとあらゆる病苦、悪意、絶望をもたらしたとされる、原初の女性の物語が顕現したのなら、一体どれほど底の知れない破壊の力がこの世界へと吐き出されることになるというのだろう。
想像するだけで、頭蓋の奥が痛む。息を吸おうにも、カリオペの手元にある"聖典"から溢れ出る黄金の霧が、大気の粘度を大きく上げてしまい、それもままならなかった。
「……まずいぜ、ノクティア」
私のすぐ隣で、床に両手を突いて膝を折っていたカノンが、今までに見せたことのないほどに眉を顰めていた。彼女の艷やかな黒髪が、禍々しい残光を浴びて不気味に歪む。
「神話の力をその肉体に無理やり宿した"姫"なんて、聞いたことも見たこともねえ……! あんなもの、人間がコントロールできるはずがねえ! あの子の魂が書き換わった瞬間、このプレアデス聖教国どころか、世界にどんな影響が出たっておかしくねえぞ……っ!」
カノンの鋭い警告。
私はそれに、声を出せないまま、ただ静かに頷くことしかできなかった。
一刻も早く、あの聖壇の上に立つカリオペの手からあの"聖典"を叩き落とし、シャウルの魂の書き換えを止めなければならない。
頭では分かっている。やるべきことはこれ以上ないほどに明確だ。
けれど、私たちの正面の座標には――僅かな隙間すら存在しない、あの白銀の全身鎧の男が、冷酷に立ち塞がっていた。
彼の装甲から際限なく溢れ出る白銀の閃光の雨は、依然として周囲の空間を制圧し続けている。私だけでなく、カノンもリラも、ここまでの連戦もあり、余力は残っていない。魔力は底をつきかけ、肉体はボロ雑巾のように傷ついている。
この満身創痍の三人の手札で、あの"千の騎士"を突破し、その先のカリオペを止めるのは、言うまでもなく困難だ。
(何か、何かあいつの目を一瞬でも逸らすための、手は残されていないの……!?)
私が自らの指先を床へと突き立て、必死に逆転の道筋を探そうと脳を酷使していた――。
――まさにその次の瞬間だった。
――ズガガガガガガガガガガァァァァァンッッッッ!!!!!
私たちの頭上、先ほど崩落したばかりのあの天井の巨大な穴の向こう側から、夜空の星光を乱暴に引き裂くような、凄まじい突進音が祭儀場へと飛び込んできた。
「グルゥゥゥォォォォォォォォォォッッッッ!!!!!」
空間を震わせるような、地鳴りの如き猛獣の咆哮。
白い石粉を派手に撒き散らしつつ、天井の穴から弾丸のような速度で躍り出てきたのは――全身の毛並みを硬質化させ、月光を浴びてキラキラと美しくきらめく"硝子の鬣"を激しく夜風に靡かせた、一頭の獰猛なる硝子の獅子の姿だった。
(ギエナ……! 外壁の垂直な白壁を強引に駆け上がってきたの……っ!?)
その硝子の猛獣の背中。激しく波打つ鬣をその左手で力強く掴み、真っ直ぐに正面の白銀鎧を見据えている一人の若き騎士の姿が、私の瞳に飛び込んできた。
純銀の軽鎧を身に纏い、その瞳に一点の曇りもない確固たる意志の炎を爛々と輝かせている、グラスベル家が誇る私の騎士――。
「――アルトっ!!」
私の、悲鳴のような叫び声。
アルトは私のその呼びかけに対して、言葉を返すことはなかった。
ギエナが激しく地面を踏み切り、白銀の騎士へと肉薄する。まさにその刹那、アルトは獅子の背中を力強く蹴り上げ、重力を置き去りにするような鋭い跳躍を以て、中空へとその身を躍らせた。
彼の両手に握られていたのは、これまで幾度となく、道を阻む敵を打ち倒してきた――伝説の聖剣。
「――おおおおおおおっ、穿てッッ!!! "アルシャイン"!!!!!」
彼の咆哮と共に、聖剣の刀身から、周囲の禍々しい魔力をなぎ払うような、眩いばかりの清廉なる光が溢れた。
アルトは空中で自らの身体を限界までしならせると、その最高純度のエネルギーを一点に集中させ、眼下の全身鎧の無防備な頭部へ向けて、渾身の力で振り抜いた。
キィィィィィィィィィンッッッッ!!!!!
空間を直線的に切り裂く、極大の光の斬撃。
これまで私たちのどんな抵抗にも揺らぎも見せなかったあの白銀鎧が、この天を穿つ一撃を前に、初めてその面頬を僅かに上空へと動かした。
アルトの放った聖剣の一閃が、全身鎧の男の白銀の装甲へと直撃する。凄まじい光の爆発が起き、白銀の光と星光の粒子が乱反射して弾け飛ぶ。その衝突の中で、僅かに全身鎧が押されるように後退した。
生じた、ほんのコンマ数秒の、決定的な隙。
「――うたれたきしの……わすれがたみ、か。まだ、こんながらくたが、のこって、いるなんてね……っ!」
爆煙の向こう側、全身鎧の声色が、初めて生々しい苦々しさを帯びる。彼はそのまま腕を乱暴に振り払い、迫る聖剣の残光を力任せに空間へと霧散させていく。
「――ノクティア様、今ですッッ!!!」
床へと着地し、聖剣を構え直したアルトが、その喉を千切れんばかりに震わせ、鋭い叫び声を飛ばした。
「――ええ、わかったわ!」
彼が命懸けで切り開いてくれた好機を、無駄にするわけにはいかない。
私は全身の痛みも疲労感も無視して、両足に言葉の鞭を打つと、弾かれたように前方へと駆け出した。
ガガガガッ、と私の硝子の靴の踵が大理石の床を削り、強烈な推進力を生み出す。
狙うは、聖壇の上。
最高司教カリオペの身柄。
一歩、また一歩と、彫刻の椅子に座らされたままのシャウルの輪郭が、急速に拡大してくる。
あの子を包み込む黄金の霧は、すでに彼女を浸食し、その白い肌の表面に不気味な神話の術式を刻み込み始めていた。急がなければ、本当にあの子の魂が消え去ってしまう。
「シャウルッ!! 今、助けるわ……!!」
私は聖壇の段差を一気に飛び越え、自らの右手を真っ直ぐに伸ばした。
あと、ほんの数歩。
あと、ほんの数十センチメートル。
私の血と泥に汚れた指先が、あの子のぐったりと項垂れる華奢な肩の布地へと、まさに触れようとした――その、極限の瞬間だった。
「――残念、あなたはやはり、どこまでも"間に合わない"」
私の目の前。
本を抱えたカリオペの唇の両端が、ニヤリ、と――勝利を確信したかのように、酷薄に吊り上がった。
――ドクンッ!!!
次の瞬間、世界のすべてが凍りついたかのような錯覚に襲われた。
それは、シャウルの華奢な肉体の最深部から。
先ほどまで"聖典"が放っていたものとは、エネルギーの次元そのものが決定的に異なる、圧倒的に巨大で、圧倒的に禍々しい、暗黒の魔力が奔流となり、全方位へ放たれたのだ。
その奔流に触れた瞬間、私の伸ばしていた右手は、あの子の身体に触れることすら許されず、ただの木の葉のように吹き飛ばされた。
衝撃波が私の全身の皮膚を容赦なく引き裂き、内臓を激しく震わせる。私は聖壇の階段を転がり落ち、大理石の床の上を何十メートルも派手にバウンドしながら投げ飛ばされ、カノンたちのすぐ近くの床へと、激しく叩きつけられた。
「う、く、――げほっ、あ、か……っ!」
口の端から大量の鮮血が溢れ出し、大理石を赤く染める。ダメージは深く、指先一つ動かすことすらままならない。
激しい過呼吸の中で、私は薄れゆく意識を必死に保ちながら、霧が立ち込める聖壇の上へと視線を向けた。
黄金の光炎が狂暴に渦巻く、聖壇の上。
シャウルは――その深い霧の底から、糸の切れた人形のような不気味な動きで、ゆっくりと立ち上がっていった。
持ち上げられた彼女の顔。
普段なら人懐っこい笑顔を咲かせていたはずのその愛らしい顔からは、もはや生身の感情は感じられない。
彼女の澄んだ瞳は、世界のすべての光を吸い込んだかのような、不気味に明滅する底なしの虚無へと完全に書き換えられてしまっていた。
彼女がただそこに一歩を踏み出し、立ち上がっただけで、祭儀場全体の空気そのものが完全に死に絶え、空間そのものが存在の重さに耐えかね、ペリペリと音を立てて崩壊していくような錯覚すらある。
取り返しのつかない、最悪の結末。
私たちがどれほど血を流し、どれほどの奇跡を重ね合わせようとも、世界の残酷な筋書きは、ただの一分も引っくり返ることはなかった。
眩い星光が降り注ぐ白亜の大聖堂の頂点において、私たちの目の前に君臨したのは、最悪なる"災厄の姫"――女神パンドラとしての力を宿したシャウルだった。




