294話「災厄の女神」-後
魔力は相変わらず、底をつきかけている。背中の翼は熱を失い始めており、満足に羽ばたくこともできなかった。けれど、私は最後の気力を振り絞り、伸ばした手の先から、数条の細い硝子の矢を、カリオペの手元を目掛けて射出した。
――パキン。
しかし、その私の必死の抵抗は、カリオペに届くよりも遥か手前で、ただそこに立っていた全身鎧の男によって、埃でも払うかのように難なく叩き落とされ、光の塵へと解体されてしまった。
「――カリオペ……ッ!!!」
「……っ、いつまでも鬱陶しいですね、ノクティア様……っ!!」
カリオペは私の叫び声に対して、今度こそ完全に聖母の仮面をかなぐり捨て、般若のような形相で激しい怒りの声を張り上げた。
「もう、儀式は、最終段階へと突入しているのです! あなたたちがどれほど無様に足掻こうとも、"あのお方"の筋書きはもう書き換えられません! あとは、この器に、我が教国が研ぎ澄まし続けてきた、至高の御霊を降ろすだけ……!」
そこまで一気に叫ぶと、カリオペは懐の奥から、一冊の古い、不気味な輝きを帯びた本を取り出した。
その本の表紙には、この世界のどの国家の文字とも異なる、歪にのたうつような不気味な黄金の模様が刻み込まれていた。
あれが、シャウルの魂の形を書き換えるために用意された、教国最奥の禁忌――“聖典”。
私はその本をカリオペの手から叩き落とすために、もう一度大理石の床を蹴って前方へと駆け出そうとして――。
「――っ!!」
――その場に足が縫い留められた。
突如として、私の全身の全細胞が、肉体の内で叫び出したのだ。
私は踏み出すことすらできず、まるで目に見えない巨大な鉄のハンマーで頭上から床へと叩きつけられたかのように、その場に激しく両膝を突き、這いつくばった。
身体が、動かない。
恐怖、だけではない。カリオペの手元にある、"聖典"の頁が開かれた瞬間、そこから祭儀場全体を覆うように溢れ出してきた魔力の"質"そのものが、あまりにも悍ましく、あまりにも凄まじかったがために、この身に宿した物語そのものが警鐘を鳴らし、全身を竦ませたのだ。
息ができない。大気そのものがドロドロとした鉛の液体に変わってしまったかのように重苦しい。胃の奥からせり上がる、強烈な生理的嫌悪。
そして、圧倒的なまでの不気味な魔力の前に、身動きが取れなくなってしまったのは、私だけではなかった。
「……う、ぐ……、あ……っ」
私の隣では、あの規格外の強さを持つカノンすらも、血に伏しこそしていないものの、その足を止めてしまっていた。さらにその後方では、リラも微動だにしないまま、カリオペに苦々しい視線を向けている。
今までに戦ってきた、どの"姫"たちの魔力とも違う。
あらゆる不条理を否定する"シンデレラ"の熱量とも、すべての障害を跳ね除ける"ドロシー"の暴力とも、全ての魔法を解体する"小夜啼鳥"の羽ばたきとも、決定的に次元が異なっている、禍々しくも絶対的な力。
本能的に全身を満たす、恐怖と焦燥の渦中で、カノンが床を見つめたまま、ポツリと、搾り出すような声を漏らした。
「……悪い、ノクティア。おねーさん、前にあんたに対して……とんだ大嘘を吐いてたわ……」
「カノン……? 何を、言って……」
「前に言ったろ……。この世界において、あらゆる“姫”の宿す物語には、貴賎も上下も、最初から存在しねえってよぉ……」
確かに、彼女はそう言っていた。
そして、それは正しいように思えていた。少なくとも、ここまでは。どんな相手であろうと付け入る隙があり、どんな相手だろうと打倒への道筋は存在していた。
しかし。
「……だけど、ありゃあ違う。全面的に非を認めるわ。……あそこで語られようとしてる物語は、明らかに、あたしたちの物語より……根本的な存在の格が、いくつも上だ――!」
カノンの、絶望に満ちた告白。
格が違う。私たちが宿した物語よりも、遥かに上位に位置するナニカ。そんなものが、シャウルに降ろされようとしている。その事実は、私をさらに急き立てた。
「……な、なら、いったい何だって言うのよ……っ! カリオペが、あの"聖典"を使って……シャウルの中に上書きしようとしている、その物語の正体は――!」
私は血を吐きながら、必死にリラの方へと視線を向けた。プレアデスの全てを知る彼女なら、教国が隠し持っていた、あの最終兵器の正体を知っているはずだ。
リラは、自らの"小夜啼鳥"を肩に留めたまま、能面のような白い顔の隙間から、乾いた唇をゆっくりと開いた。
「……私たちはさぁ、ノクティア様。この世界のすべてを焼き尽くそうとする"マッチ売りの少女"を……真っ向から打倒しうる、最強の"姫"をずっと求めていたんだよぉ……」
彼女の間延びした口調は、今や完全に生気を失い、ただの事実を読み上げる機械のように、淡々と、冷酷に回廊へと響き渡る。
「あの、遍く全てを地獄の業火で焼き尽くす本物の怪物を、上から力任せに殴り倒すためにはさぁ……。私たちが背負わされてるような、普通の、ただのめでたしめでたしで終わる"童話"の出力じゃあ、どうしても絶対に、パラメータが足りなかったんだよぉ」
「――ええ、そうでしたね、リラ! だからこそ、私たちはその災厄を打ち破るための絶対的な力を、あなたたちの世界の――くだらない子供向けの童話などではなく、より古く、より強固な"神話"の領域へと求めたのです!」
聖壇の上で、本を開いたカリオペが、狂喜の声を上げながら天に向けて両腕を広げた。
本の頁から溢れ出してきた黄金の霧が、シャウルの華奢な肉体を包み込み、彼女の魂のコードを内側から強引に書き換えようとしていた。
その、少女の運命が歪に噛み合っていく絶望の変転を見つめながら、リラは、その続きを、淡々と唇から零した。
「……私たちが、あの子の魂を贄にして、この現世へと降ろそうとしたもの。……それは、人類の歴史の始まりにおいて、世界にすべての不条理と絶望をもたらしたとされる、原初の女性、災いの“姫”――」
黄金の光が拡がっていく。
シャウルを中心に、止めることもできぬまま。
まるで私たちの絶望すら、塗り潰そうとするかのように――。
「――女神パンドラ、正真正銘、本物の女神様だよぉ」




