293話「神話の住人」
ぐらつく視界の真ん中で、私はただ呆然と、崩落した天井の穴の向こう側を見上げていた。
全身を走る焦熱と、激しい目眩。リラとの死闘を終えたばかりの私の身体は、すでに限界を迎えていた。
それなのに、突如として頭上から降臨した白銀の全身鎧――その絶対的な存在感が、故に、目を離すことができない。
鏡面のように磨き上げられたその鎧は、夜空の月光を妖しく乱反射させながら、何の推進力も伴わずに虚空へと静かに浮遊している。ただそこに存在しているだけで、祭儀場全体の大気そのものが軋み、大理石の床がカタカタと鳴動していた。
そして何より、歴戦の"姫"であるカノンが、ここまでやられている。その事実が、さらに心拍を押し上げる。
「……戦っちゃいけないって、一体どういうことよ……!? カノン、あいつは……あの鎧の中身は、一体何者なの?」
私はどうにか戦闘態勢を継続しつつ、隣に立つカノンへと掠れた声を絞り出した。
カノンは勢いよく血の混じった唾を吐き出すと、淡々とした調子でで私の問いに答える。
「さあな。お姉さんにも詳しくはわからねぇ――だけど、あいつはたぶん、この世界の"裏側"に関わる奴だ……聞いたことあるか? "原初の姫"の噂話をさぁ」
「――っ! 原初の、姫……!?」
カノンの唇から放たれたその単語が、私の脳内の記憶から、かつてエリダヌスの地――あの晶潮館での記憶が、鮮烈にフラッシュバックしてきた。
他でもない、アケルナルとリラの二人から聞かされた、世界の真実。
この世界の仕組みを形作り、私たち“姫”と呼ばれる不条理な存在を盤上に配置するための魔法を行使したとされる、始まりの迷い子。
「……なんで、そんなとんでもない連中が、今さらここで割り込んでくるのよ……っ!」
理由が分からない。これはあくまでも、私たちとプレアデスの間の、極めて局地的な諍いであるはずだ。なのに、どうしてそんな、神話めいた物語の登場人物が直接介入してくるのか。
その私の困惑に対する回答は、私のすぐ背後の暗闇から、ふらりと返ってきた。
「――それはねぇ、ノクティア。……教国が崇めているモノの正体がさぁ、正しくその"原初の姫"だからなんだよぉ」
「リラ……っ!?」
振り返れば、先ほど完全に戦闘を放棄したはずのリラが、乱れた衣服の裾を払いながら、ゾンビのようにふらふらと立ち上がるところだった。
彼女の唇から溢れ出るのは、いつものあの掴みどころのない、間延びした緊張感の欠片もない声音。だからこそ、このシリアスな舞台の上ではよく通る。
「カリオペはさぁ、神の言葉の代弁者なんかじゃないんだよぉ。その人は、あくまでも"原初の姫"が描き上げた理想の世界の設計図を、この世界に実現させるために配置された、ただの使徒に過ぎないのぉ。……そして、その行動が妨害された時に現れるとされる者――それこそが、あそこに浮いてる"千の騎士"」
「"千の騎士"……」
警戒を強める私を、白銀鎧はただ見下ろすばかりだ。それは余裕によるものなのか、あるいは。
「"原初の姫"の手によって直接生み出された、世界を調停するための最終戦力……。とは言ってもさぁ、あいつは教国の最も深い底――あの誰も立ち入ることの許されない"遺棄層"の暗部の、さらにその最深部に封じられていたはずなんだけどねぇ……」
リラは普段通りの飄々とした口調を維持しようとしていたけれど、そのヴェールの下の瞳には、明らかな困惑の色彩が、ひび割れの如くハッキリと浮かび上がっていた。
百年の歴史を持つ彼女でも、目の前の白銀の全身鎧の出現は、完全に予測の範疇を超えていたのだろう。
そして。リラの困惑を証明するかのように、私のすぐ目の前の聖壇の上、最高司教カリオペの表情も、目まぐるしく変化する。
「……まさか、そんな、あり得ません……! "青ひげ"が……、あの"遺棄層"の絶対の看守であった彼が……死んだ、というのですか……っ!?」
カリオペの、喉を締め付けられたような慄きの悲鳴。
"青ひげ"。またしても、私の知らない古い物語の登場人物の名前が、彼女の唇から零れ落ちる。
彼女がこれほどまでに動揺し、恐怖に支配されている理由が、私にはどうしても分からなかった。なぜ白銀の騎士がここに現れたことが、教国の番人の死を意味するのか。そのなにもかもが。
私たちがその不気味な空白に困惑していると、頭上の虚空に浮かんでいた白銀の全身鎧が、まだ世界の空気に馴染んでいないかのような、ひどく幼く、辿々しい口調の声を、ぽつり、ぽつりと零した。
「うん。……もう、ばんにんは……いないよ」
それは、まるで小さな子供が、今日の天気でも報告するかのような、不気味なほどに純粋で、どこまでも平坦な声だった。
けれど、その言葉の背後から漂ってくるのは、先ほどまで戦っていたプレアデスの信徒たちの比ではない、あらゆるものを内側から力任せに押し潰すような、絶対的な強者の威圧感だった。
「かれは……さいごに、あなたに……。ちからを……とどける、つもり……だったみたい、だけど」
白銀の全身鎧は、重力を完全に無視して、中空を滑るようにしてゆっくりと地上へと降り立ってきた。彼が爪先を床につけた瞬間、大理石が半径数メートルにわたって綺麗に陥没する。
「じぶんの……ましたに……。だれが、いるのかは……。……しらなかった、みたいだね」
「――っ、そんな、こ、これは……! ああ、なんということですか……っ!」
カリオペは自らの頭を抱え、まるで世界のすべてが崩壊していくのを目の当たりにしたかのように、聖壇の上で無様に激しく跪いた。
一体、何が起きているというのだろう。教国の暗部から、この白銀の騎士が這い上がってきた。その事実が、なぜカリオペにとってこれほどの動揺を誘うものとなるのか、私の頭ではどうしてもその答えを導き出すことができない。
しかし、私の目の前に着地した白銀の全身鎧―は、そのカリオペの狂わんばかりの動揺のすべてを、最初から予測していたかのように、ただ鷹揚に、静かにその首を縦に振ってみせた。
「おびえないで、カリオペ。ぼくは……べつに、きみを、おこりに……きたわけじゃ、ないんだ」
アルザームの面頬の奥の聲音は、辿々しいまま、どこか冷徹な絶対の調停者としての響きを帯びていく。
「きみが……むねのおくに、なにをかくしてもいても。……そのすべてを、 "かのじょ"は、さいしょからすべて……わかっているからね」
彼女は、すべてをわかっている。
そのフレーズの不気味さに、私の全身の毛穴が本能的な恐怖で開ききった。
黒幕――そんなものがいるとして、私も気がつけなかったカリオペの内側まで予測することなど、できるはずもない。
スッ、と。
カリオペを見つめていた白銀の面が、無駄を削ぎ落とした、正面に立つ私とカノンの方へと向き直った。
――ドクンッ!!!
「……っ!?」
その瞬間、私たちに襲いかかってきたのは、今までに感じたことのない密度の殺意だった。
今までに戦ってきたエレクトリアやリラの、あの信念のぶつかり合いのような熱量ではない。ただ、システム上に発生した不要なエラーを、マニュアル通りに淡々と消去するかのような、どこまでも冷徹で、どこまでも無慈悲な、絶対的な排除の気配。
「――ぼくは……はたしに、きただけだ。……やくそくを、ね」
アルザームが、その右の手の平を、私たちに向けて静かに翳した。
刹那。
彼の全身の白銀の装甲から、目も眩むようなまばゆい光の粒子が爆発的に溢れ出した――そう思うや否や、私たちへと向けて、無数の鋭利な閃光の雨となって一斉に射出された。




