292話「白銀」
「はあ、はあ、はあ、はあ……っ!!」
自らの口から吐き出される息が、まるで沸騰した湯気のように熱く、喉を激しく灼いた。
視界は未だに不気味な白濁を繰り返し、天地の境界線がぐにゃぐにゃと歪んでいる。全身の筋肉という筋肉が、限界以上の負荷によって千切れそうなほどの痛みを激しく訴え、心臓は壊れたドラムのようにけたたましい不整脈を体内に響かせていた。
もはや、立っていること自体が、不思議なほどに違いない。
けれど、私は崩れ落ちそうになる肉体を、執念の楔だけでどうにか繋ぎ止めていた。
私のすぐ目の前には、静かに床の上へと両膝を突いたリラの姿があった。
薄いヴェールの下、彼女に宿っていたあの掴みどころのない、諦観のような表情は今やどこにもない。代わりにそこにあったのは、一片の欺瞞もない、どこか清々しい表情だった。
(――伝わったのね、リラ。ありがとう)
私は彼女の横を、言葉を交わすことなく通り過ぎた。そのまま、ただ一途に、部屋の最奥に位置するあの聖壇の方へと、一歩、また一歩と足を前に進めていく。
――その瞬間。
この国の頂点に君臨し、いつだって聖母のような慈愛の微笑みを顔に貼り付けていたカリオペに、今夜初めて、ハッキリとした焦燥の縦線がヒビ割れのように走った。
「……なっ、り、リラ……っ!? あなた、一体何をしているのです! まだ動けるでしょう! 早く、ノクティア様を……ノクティアを止めなさいッ!!」
カリオペの声から、優雅な調子が完全に失われ、ただのヒステリックな悲鳴へと変調していく。
けれど、床に跪いたリラがその命令に従って立ち上がることはなかった。彼女はただ、自らの顔を伏せたまま、静かに沈黙を保ち続けている。
「無駄よ、カリオペ。もう、私とあなたの間を遮るモノは、この盤面のどこを探しても残されていないわ」
重苦しい足音が、祭儀場の冷え切った空間に不気味に響き渡る。
何をしても決して折れず、どれほどの絶望的な状況でも真っ直ぐに前へと進み続ける、不屈の"姫"。私からすれば、そうあるしかなかったというだけの話なのだが――効果は覿面だった。
やがて、カリオペの端正だった顔面はみるみるうちに青白く恐怖に染まっていく。
「――これで終わりよ、カリオペ。シャウルは、私たちがヴァルゴへ連れて帰るわ……!」
私は聖壇のすぐ手前でピタリと足を止め、右手のレイピアの切っ先を、恐怖に震える最高司教の喉元へと容赦なく突き付けた。融解硝子の熱が、彼女の純白の法衣の襟元を僅かに焦がし、不気味な黒い煙を立ち上らせる。
「……っ! やめなさい……いや、おやめください、ノクティア様……っ!!」
カリオペは自らの両手を胸の前で激しく交差させ、まるで断頭台の前に立たされた囚人のように、縋るような声を上げて必死に叫び散らした。
「もう、あの大戦の悲劇を繰り返さないためには、これ以外の術は残されていないのですよ! 私たちは、あんな不届き者――"マッチ売りの少女"などに、かつて"あのお方"が、作り上げたこの理想の世界を……焼き尽くされるわけにはいかないのです……ッ!!」
"あのお方"。理想の世界。
彼女の口から次々と溢れ出る、高尚で神聖な大義名分。
「……――あんたたちの言う、"あのお方"ってのが、一体どこの誰なのか、私はそんなもの、知りもしないけれど」
私はゆっくりと自らの顔を上げ、カリオペの目を正面から睨んだ。
その瞬間、私の瞳の奥に灯ったのは、きっと、世界を救うための正義の光などではない。
それは、大切な人のためなら、世界そのものを破滅に導いても構わないという、純粋な狂気の熱量。そうであると、自覚していた。
「その、理想の世界とやらが、そこにいる、何の罪もない女の子の魂を下敷きにしないと成立しないような、歪な欠陥品の世界だっていうのなら――」
私の背中の空間から、今まで以上に狂暴な密度を以て、緋色の液体硝子が爆発的に溢れ出した。
「――そんなゴミみたいな世界、"マッチ売りの少女"の前に、この私が焚べてやるわよッッ!!!」
「やめなさい、やめ……やめて……っ! 来ないで……っ!!」
カリオペが恐怖のあまりその場にへたり込み、子供のように頭を抱えて悲鳴をあげる。
私は無防備な彼女に向けて左の手の平を翳し、今度こそ彼女を完全に止めるため、拘束魔法を発動させようとした――。
――その時だった。
ズガガガガガガガガガガガガァァァァァァンッッッッ!!!!!
祭儀場全体を揺るがす、凄まじい重低音。
ステンドグラスの光が乱反射していた美しいドーム状の天井。その頂点が、から一瞬にして蜘蛛の巣状の巨大な亀裂が広がり、次の瞬間には、白亜の石材の雪崩となって、崩落してきたのだ。
「なっ……、何が――!?」
私は咄嗟に硝子の防壁を頭上に展開し、降り注ぐ瓦礫の破片を強引に横へと弾き飛ばした。周囲の空間が一瞬にして真っ白な石粉の煙によって遮断され、激しい風切り音が鼓膜を圧迫する。
その、瓦礫と煙のカーテンを引き裂くようにして、上空の大きな穴から、もの凄い質量を伴った人影が、真っ直ぐに床へと落下してきた。
ドォォォォォォォンッッッ!!!
大理石の床に、クレーターのような衝撃の跡を刻み込みながら、着地を決めたその人物。
自らの前髪をパッパッと払いながら、のそりと顔を上げたのは――。
「……カノン!? あなた、どうしてこんな場所に……っ!」
私は驚愕のあまり、拘束魔法の手を止めてその名前を叫んだ。
その実力は、誰も疑うことのない"不帰の姫"。
しかし、その肌の至る所に、浅くはあるものの、無数の傷が刻み込まれ、そこからダラダラと赤い鮮血が流れ落ちていたのを見て、私は戦慄した。
あの怪物が、明確に押されている。
「――ッチィ。クソが、あたしとしたことが、とんだ虎の尾を踏んづけちまったわ」
カノンは口元に付着した血を乱暴に拭い取ると、心底忌々しげに首を鳴らしつつ、崩落した天井の穴の向こう側を、その瞳を爛々と輝かせながら睨み据えた。
「……本格的にやべえかも。お姉さんの勘が『これ以上は絶対に触るな』ってガンガン警鐘鳴らしてる、ハッキリ言って、戦っちゃいけないタイプの、最悪なイベントボスだったみてぇだわ……っ!」
「戦っちゃいけない、ボス……?」
私はカノンの信じられない台詞を聞きながら、彼女の視線の先――崩落して開いた、あの夜空へと続く暗黒の穴の向こう側へと、ゆっくりと視線を巡らせた。
周囲に立ち込めていた煙が、上空から降り注ぐ異様な波動の直撃を受けて、一瞬にして吹き飛ばされていく。
天井の、真上の虚空。
星々の光が降り注ぐその夜天の真ん中に、それは、ただ世界の中心として当然のように静かに浮遊していた。
まるで、燦々と照らす太陽のように。
あるいは、冷たく輝く月のように。
夜空を引き裂く白銀の装甲が、私たちを見下ろしていた――。




