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間に合わなかったシンデレラは、硝子の靴で戦場を踊る  作者: 入江 鋭利
22章「災禍と目覚めともう一人の"不帰"」
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291話「割れた仮面」-後



「……っあ、が――」



 顎を完璧に撃ち抜かれたノクティアの肉体は、慣性に従って、確かに一瞬だけ無防備に浮き上がった。その瞳から一瞬にして光が消え、視界が暗転しているであろう様がハッキリと見えた。


 勝負あり。リラは勝利を確信し、ほんの少しだけ、気を緩める。


 ――しかし。



「――……っっ!!!!」



 ノクティアは、倒れなかった。


 彼女は脳を直接激しく揺さぶられるという致命的な一撃を受けつつ、強靭な精神の力だけで、意識を強引に現世へと引き戻したのだ。彼女は慣性を振り切り、逆に自らの頭部の質量を前方向へと激しくスイングさせ――。


 ――ゴンッっ!!!


「なっ……!?」


 リラの鼻面の中心へと、頭突きが真っ正面から見舞われた。鈍く、救いようのない骨の衝突音が辺りに鳴り響く。


 想定外の反撃。今度はリラの視界が激しく上下を喪失して明滅し、激痛と共に、ツッと鼻から鮮血が流れ落ちるのが分かった。


 思考が、怒りの熱によって真っ白に灼けつく。


 彼女は揺らぐ視界の暗闇の中で、感情の命ずるままに、目の前にいたノクティアの、ボロボロに破れたドレスの胸ぐらを、両手で力任せに掴み上げた。




「――止まれって、言ってるだろ……っ!!!」




 いつも貼り付けていた、あの軽薄で間延びした傍観者の仮面が、今度こそ音を立てて完全に粉々に剥がれ落ちた。


 そこに現れたのは、世界の行く末を傍観する斜に構えた消費者などではなく、親友を見捨てた己の過去に狂いそうになりながら、目の前の光を必死に否定しようと藻掻く――剥き出しの、一人の人間の貌だった。


 彼女は、体内の魔力を限界を超えて収束させ、残された全出力を、右拳の硬度へとダイレクトに、そして強引に流し込んだ。


 もはやそれは魔法ですらない。ただの質量と、ただの純粋な膨大な魔力の塊による物理的な殴打。けれど、百年の修羅場を生き抜いた"もう一人の不帰"が放つその怒りの鉄槌は、常人であれば、一撃でその肉体を粉々に粉砕して挽肉へと変えてしまうほどの、破壊力を持つ。


 その、黒い輝きを帯びた拳が、ノクティアの無防備な顔面へと向かって、空間を切り裂く速度で容赦なく振り下ろされる。



 ――直撃。



 しかし、ノクティアはその場に自らの硝子の靴の踵を、大理石を爆砕するほどの深さで踏み留まらせ――。


 放たれた渾身の鉄拳を、硝子の翼で受けることも、レイピアの腹で受け流すこともせず――自らの左の頬で、真正面から受け止めたのだった。


 ――ドォォォォォォォォンッッッ!!!!


 大聖堂の最上階を激しく揺るがす、肉と骨が最大質量で衝突した凄まじい打撃音。


衝撃波が彼女の顔面から全方位へと吹き荒れ、白亜の壁に新たな亀裂を刻み込んでいく。


 一撃で骨肉を砕き得るはずのその強打を、ノクティアはただの肉体の硬度と、折れない魂の執念だけで、その場に文字通り、踏み止まって耐えてみせたのだ。彼女の頸椎がメリメリと不快な音を立て、左の頬の皮膚が裂けて鮮血が派手に飛び散るが――その右手に握られた剣の切っ先は、依然として、リラの胸元を正確に指し止めたままだった。


「……つ、――あ、あ……」


 その、尋常ではない、人間の領域を遥かに超越した覚悟を前にして。


 リラは、自らの右拳を彼女の頬に押し当てたまま、全身の毛穴が恐怖で開ききるような、圧倒的な気迫に身を震わせるしかなかった。


(――理解できない。どうして、この子は倒れない……!?)


 一体なぜ、彼女はここまで自らの肉体をズタズタに壊し、血を流しながら、それでも一歩も後ろへ退がらず、前へと進むことができるのか。


 戸惑いが、足を止める。そのまま、永遠にも思えるような時が流れて――。


「――リラ! 一体何をしているのです、早く、その不届き者にトドメを刺しなさい!」


 ――不意の声に、リラの意識は引き戻される。


 背後、巨大なステンドグラスの光が降り注ぐ聖壇の上から飛ばされた、カリオペによる催促の声。


 見れば、確かノクティアは既に一歩も動けないはずの、満身創痍にあった。エレクトリアとの死闘で魔力の残量は底を突き、さらにリラとの連続の肉弾戦。そして、先ほど放たれた魔力毆打を顔面で直接受け止めたことが決定打となったようだ。


 彼女の両足には、もうほとんど支持力が残されていない。ガクガクと震え、今にも床の上へと崩れ落ちそうなその細い身体。


 今であれば。リラがもう一度手足に魔力を込め、その無防備な細い首を絞め上げれば、確実に行動不能へと追い込める。この戦いにおけるプレアデス側の勝利は、まさに手の届くところまで来ていた。


 リラは、カリオペの命令に従って、自らの体内に残された魔力を、じわりと右の指先へと集約させようとした。


 ――だが。


「……っ!」


 彼女は、その手を、彼女の首元へと伸ばすことが、どうしてもできなかった。


 リラの双眸は、超至近距離で見つめ合う、ノクティアのその深い瞳の最深部に――完全に縫い留められてしまっていたのだ。


「……あ」


 その唇から、百年の歴史の中でも発したことがないような、小さな、そして掠れた声が漏れ出た。


 ノクティアの、その今にも消えてしまいそうな、瞳の奥に宿っていたのは。


 ――百年前のあの夜、潮騒が心地よく響いていたバルコニーの欄干の横で、絞め殺されかけていた彼女をただの一人の人間として救い、その手を強く握り締めてくれた――アケルナルの目に灯っていたものと、全く同じ光の輝きだった。


 この世界の不条理に、決して負けることなく。


 元の世界で押し付けられた、悲劇のしがらみにも、折れることなく。


 その上で、自分が納得できないもの、受け入れることのできない最悪な結末には、たとえ世界中のすべてを敵に回そうとも、はっきりとノーを突きつけて拒絶する、強靭な意志の眼光。


(……この子は、今でもあのバルコニーに立っている。世界に負けないまま、ただ真っ直ぐに、己の大切なものを、守るために――)


 そのまばゆい残影を、目の前の"姫"の中にハッキリと目撃してしまった瞬間――リラ・マイアという少女が百年かけて築き上げてきた、あの無責任な観客の仮面は、内側から完璧に、美しく、粉々に瓦解していった。



 ――パリン。と、何かが砕ける音がした。



 彼女の右手から、すべての魔力がサラサラと光の粒子となって解体されていく。握りしめていたノクティアの胸ぐらからゆっくりと両手を離すと、彼女の周囲を旋回していた小夜啼鳥は、役目を果たしたかのように飛び去っていく。



「――あは、は。……お姉さんの、負け、だねぇ……ノクティア……」



 リラは、自らの張り付いたような笑みを消し去り、一人の少女としての穏やかな微笑みをその貌に浮かべながら――静かに、その場に両膝を突いた。


 崩れ落ちるようにして大理石の床へと跪く。それは、確かな敗北であり――一方で、彼女の魂が百年目にしてようやく手に入れた、一つの答えでもあるのだった。



◆◇◆

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