291話「割れた仮面」-前
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――バサササササササッ!!!
鼓膜を激しく圧迫する小夜啼鳥の狂おしい羽ばたき。その高周波のうねりが、リラの視界のすべてを覆っていた、三年前の穏やかな夜の海の潮風と、感じていた手の柔らかな温もりを、無慈悲に過去へと追いやっていく。
網膜に焼き付いていた煌めきが急速にフェードアウトし、代わりにリラの視界を冷酷に満たしたのは――白亜の壁に囲まれた大聖堂の最上階、焦熱の硝子粉が火花を散らしながら乱舞する、現在の"祭儀場"の苛烈な景色だった。
リラは、前髪を激しく揺らす熱風の中で、軽く頭を振って思考を強制的に現状へと噛み合わせた。
(――懐かしい。まさか、この期に及んで、もう百年も昔の記憶なんて引き摺り出すことになるなんて)
胸の奥で、冷え切った自嘲の溜息が漏れる。この異世界に流れ着いてから、気の遠くなるような時間の中で、リラはあのバルコニーでの約束だけを唯一の絶対解として、自らの心の深淵を守るための仮面を被り続けてきたのだ。
彼女の目の前ではノクティアが、硝子の翼を狂暴にははためかせ、苛烈な進撃を繰り返していた。空間そのものがマグマのように赤く灼け、大理石の床がパチパチと音を立てて自壊していく。
並の戦士――否、"姫"であっても、その圧倒的な魔力の前に、一瞬で消し炭に変えられているであろう、強大な出力。
けれど。リラの周囲を旋回する二羽の小夜啼鳥の羽音が、迸る融解硝子の整合性を内側から乱し、その熱流のベクトルを事もなげに宙空へと霧散させていく。
確かにノクティアの魔法は苛烈だ。けれど――その程度の相手であれば、リラはこの百年近い経験の中で、それこそ数え切れないほど相手にしてきている。
対処不可能な相手というわけではない。分は悪かろうが、負けることはないと確信していた。
彼女自身の単体スペックに、世界をひっくり返すような絶対的な破壊力などない。しかし、百年積み重ねた戦闘技量と、相手の魔力の揺らぎを完璧に見切る眼力を組み合わせれば――ただ"負けない"だけであれば、そう難しいことでもない。
彼女からしてみれば、ノクティアはその程度の敵だった。
――だからこそ、リラは自身の胸中で、ぎらつくような熱が、不快な苛立ちとなって湧き上がってくるのを感じていた。
(……嫌でも考えてしまう、あの、エリダヌスの夕暮れ……!)
エリダヌス連邦がアルゴラ率いる帝国の軍勢によって急襲され、あの混迷の夜戦を迎えた、あの日。リラは冷静に、彼我の戦力を分析していた。
目の前に迫る帝国軍。それだけならまだしも、アケルナルを捕縛するために"マッチ売りの少女"も参戦していた。
もしもあの盤面に、彼女が一人の戦力としてまともに参戦していれば――物語を終え、"姫"として行動不能になっていた可能性が高い。少なくとも、リラ本人はそう考えていた。
(アケルは、私をただの一人の人間として救ってくれた、世界でたった一人の大切な親友だった――。なのに、あの時の私は……あの子を助けにいくための覚悟が、決定的に不足していた)
死にたくない。この世界でまだ、あのバルコニーから続く物語を見届けなければならない。自分にはまだ、プレアデスという国家の裏側で果たすべき大きな役割がある。
そんな都合の良い、保身のための理屈を脳内でいくつも組み立てて、己の臆病さを正当性で飾り付け――結果として、彼女はあの鏡の迷宮から、自らの足で逃亡することを選んでしまったのだ。
それは、胸に残る後悔として彼女を苛み続けていた。あの場所で決定的に、取り返しのつかない間違いを犯してしまった――親友の危機を、劇場の暗闇からただ指をくわえて見ているだけの、本当の傍観者に成り下がってしまったのだ。
(――だから、次は絶対に間違えない。アケルを帝国のあの昏い檻から今度こそ救い出すために、私はここで"災厄の姫"を誕生させる……!)
ノクティアは強くなった。並の姫であれば一瞬で圧殺するほどの、最高峰の出力を手に入れたのだろう。
しかし、現在の成長曲線では、災害にも例えられる"人魚姫"の暴走や、帝国で旗を振る"マッチ売りの少女"には、遠く及ばない。
「――止まりなよぉ、ノクティア」
彼女は自らの衣服の袖を払いながら、いつもの軽薄な、間延びした仮面の声音を回廊へと放った。
「私たちがこれ以上ここで無駄に魔力を削り合うのって、不毛じゃない? ……いい加減、理解できないのかなぁ?」
しかし、警告の言葉など、ノクティアの耳にはただの一分も届いてはいなかった。
彼女は血に汚れた硝子の靴の踵を大理石へと深く突き立て、緋色の硝子を纏ったレイピアを低く構えたまま、狂暴な突進をただの一歩も緩めようとはしない。
その頑なな、ある意味では破れかぶれとも言える構えが、リラの精神の底にある無色の澱を、僅かに、確実に苛つかせる。
(――なんで、この子は。……なんで、そんなに真っ直ぐな目で、前だけを見て歩けるわけ?)
あのエリダヌスの戦場で、アケルナルを帝国の魔手から守りきることができなかった敗北者。
ガーランドにおいて、雪の女王アダーラの圧倒的な氷の前に、ただ無様に膝を突いて絶望を味わっただけの、未熟者。
なぜ、いずれの戦場においても、そんなにも折れない熱量を維持できるというのか。
(――いや、違う)
既にリラ自身は、その苛立ちの正体に気が付きつつあった。
(あの夜、アケルを守るために戦うことを放棄し、彼女を見捨てたのは――他でもない、この私自身じゃないか)
醜く濁った自責の念。前を向いて歩むノクティアの輝きが、仮面の裏側に隠されていた感情を、容赦なく抉り出してくるからこそ、彼女は己の心の温度が、制御不能な怒りとなって跳ね上がるのを止められないのだ。
「……だからぁ、止まりなって……っ!!!」
間延びした聲音のカーテンが、内側から激しく引き裂かれる。
襲いかかってくるノクティアの流動硝子の翼の弾道を、小夜啼鳥の羽音の高周波によって力任せに真横へと逸らす。キィィィン! と魔力が霧散し、彼女の姿勢に、コンマ数秒の決定的な隙が生まれた。
リラはその瞬間を見逃さず、渾身の一撃を放った。重力を置き去りにした、容赦のない、完璧な弾道の回し蹴り。狙いはノクティアの顎先。
加速した爪先が、ノクティアの華奢な顎の下へと、完璧なカウンターのタイミングで、強かに、容赦なく叩き込まれた。
どれほど強大な魔法を宿した“姫”であれ、物理法則に従って脳を激しく揺さぶられれば、立っていられるはずがない。強烈な打撃圧が彼女の頸椎を軋ませ、その身体を横合いへと転がす。これで、この泥臭い小競り合いも、ようやく決着を迎えるはず――。
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