290話「選んだ仮面」
夜の海から吹き上げる湿った風が、大理石のバルコニーを白く冷たく満たしていた。
城内から漏れ聞こえるワルツの旋律は、厚いカーテンに遮られて、まるで水底から響く遠いざわめきのように微かだ。満天の星々と、海面にきらきらと砕け散る月光の粒子。その美しい夜のステージの真ん中で、リラは、自らの小さな右手をしっかりと握り締めてくれた金髪の姫君の、信じられないほど確かな手の温もりを、ただ呆然と肌で感じ続けていた。
「そっか……。リラはこっちの世界に来てから、ずっとすごく苦労したのね」
リラの手を包み込んだまま、アケルナルは、瞳に心からの同情と慈愛の色彩を宿して、穏やかな笑みと共に深く頷いた。
言葉だけではなく、ただの一人の傷ついた人間としておのれの過去を受け止められた。その事実に、リラの胸の奥に張り付いていた冷たい防壁の氷が、じわりと涙のような雫となって融解していく。
「……そう、かも。というか、たぶんこの息苦しさとか苦しみは、向こうの世界で生きていた頃からのものだけど……。私は、あなたみたいに、上手くはやれないからさ」
リラは自らの視線を少しだけ伏せ、欄干に凭れるアケルナルの美しい貌を、羨望と諦めが混ざり合った複雑な目で見つめた。
目の前にいる彼女は、どこまでも美しく、そして何より圧倒的に"強そう"だった。
ただ単に宿している魔力が規格外だというだけではない。その立ち姿は優美でありながらも闊達としており、世界という理不尽な檻の中に置かれていながらも、まるでこの世のすべての不条理と完璧に折り合いをつけて、自分の足で凛と立っているかのような、そんな王道の輝きに満ち溢れていたのだ。
あちらの世界での自分と同じ、ただの迷い人の魂のはずなのに、どうしてこれほどの差が存在するのだろう。もしも、自分が彼女のような完璧な人間になれたなら、この異世界の窮屈な網の目だって、もっと綺麗に笑い飛ばして歩んでいけたのかもしれない。
そんな、リラが心の中に抱いた、無色の劣等感。
それを敏感に察知したかのように、アケルナルは握っていた手をそっと離すと、クスッと悪戯っぽく笑いかけた。
「何言ってるのよ、リラ。私だってね、こっちの世界に突然放り込まれてからは、結構どころじゃないくらい、死ぬ気で苦労したのよ?」
「……それは、絶対に嘘でしょ」
リラは信じられないというように首を横に振った。
「だって、あなたのその立ち振る舞い、すごくお淑やかだし……。なんていうか、言葉の端々から品性が溢れてるじゃん。絶対に、向こうの世界にいた時から、誰もが振り返るような良家のお嬢様だったとか、あるいは華やかな世界で生きてるモデルさんだったとか、そういう特別な存在だったんでしょ?」
それを聞いた彼女は、ほんの少しだけきょとんとした表情で固まった。
そして、たっぷり数秒の間を置いてから。
「あはははは! モデル!? お嬢様!? ないない、本当にないから!」
アケルナルはバルコニーの夜空へ向けて、本日二度目の、笑い声を弾けさせた。
今度は優雅な姫君としての振る舞いすら完全に忘れて、体をくの字にして笑っている。そのあまりにも親しみやすいリアクションに、リラは目を丸くして、完全に思考をフリーズさせた。
「ちょっと、そんなに目を剥かないでよ、リラ。本当のことなんだから」
アケルナルはふぅ、と笑いすぎた息を整えながら、白石の柵に自らの背中を心地よさそうに預けた。彼女の豊かなブロンドの髪が、夜風に吹かれて金色の漣のように美しく舞う。
「私ね、向こうの世界にいた頃は、普通のOLだったのよ? 毎日、満員電車に揺られてオフィスに行って、上司の機嫌を取りながらパソコンにデータを打ち込んで、定時になったら安いお惣菜を買ってワンルームの部屋に帰るだけの、ただの事務員」
「OL……? ただの、事務員……?」
「そう。張り合いの無い毎日、変化に乏しい退屈な日常。そんなある日の会社帰り、ひどく疲れて駅のホームに立っていたら、運悪く線路に落っこちちゃってね。次の瞬間には、なぜかこの世界の、ヴォーラ家のベッドの上で目覚めてたってわけ」
アケルナルの口から淡々と語られる、前世の記憶。
それは、リラが経験したあの居眠り運転の交差点の慘劇と、驚くほどによく似た、ありふれた現代人の輪郭だった。
「……そんな、だって……。信じられないじゃん。あなた、この世界での振る舞いとか、あまりにも完璧に溶け込んでるじゃない。最初から、そう生まれてきたみたいに」
リラが戸惑いながらも通路の先を指し示すと、アケルナルは瞳を悪戯っぽく細めて、人指し指を一本、自らの美しい唇の前に立ててみせた。
「私はね、リラ。――ただ"演じている"だけよ」
「え……?」
「あの灰色の世界で死んでいった、ただのしがない事務員である“魚川姫奈”としての自分を、私はあの日、完全に封印したの。そして気高く、闊達な"人魚姫"――アケルナル・ヴォア=ヴォーラという配役の仮面を被って、毎日、舞台の上で生きているだけ」
彼女はドレスの裾を少しだけ持ち上げ、舞台女優のように優雅な一礼をして見せた。
「中々に上手く出来てるでしょ? ヴォーラ家のお抱え家庭教師を総動員して、令嬢としてのマナーを死ぬ気で丸暗記したんだから」
励ますような、戯けるような笑み。
しかしその、優美な笑顔ですら、きっと彼女の努力に裏打ちされたものなのだろうと、リラは確信した。
「……だからね、リラ。あなただって、生身の心のままで、この世界付き合ってあげる必要なんてないのよ。あなたも同じように、この世界を生き抜くための仮面を被って、役回りを演じればいいの」
アケルナルは欄干から身を乗り出し、リラの心を覗き込むようにして、真っ直ぐな問いの矢を投げかけた。
「この世界で、あなたはどんな立ち位置で、どんな役回りを演じたい? どんな仮面を被れば、あなたの魂は一番息がしやすくなる?」
「私が、演じる、役回り――」
リラは自らの胸元にそっと手を当て、そのアケルナルの問いを噛み締めた。
どんな存在になりたいか。どんな仮面を被れば、この息苦しい世界の中で、自分を殺さずに生き残ることができるのか。
まず、この世界を力強く牽引していくような"主役"。
――考えるまでもなく、ない。主役を張るには、自分はあまりにも地味で、あまりにも卑小な存在だと、すでに理解させられてしまっていた。
ならば、かつての世界と同じように、ただ社会の歯車として配置される"脇役"。
――それこそ、もう二度と、まっぴら御免だった。元の世界と同じように生きるなんて、この第二の生を投げ捨てるようなものだ。
では、この世界のシステムそのものを裏側から操るような、達観した"作家"はどうだろう?
――否、それになれるような高度な知性も、積み上げるべき学も教養、あるいは世界を動かそうという高尚な意欲など、自分の中には存在しない。
主役にもなれず、脇役には戻りたくもなく、何かを描くこともできない。
ならば、の末にリラ・マイアという少女の思考が、ようやく辿り着いた、自分の役柄――。
(……なあんだ。私が張れる役なんて、最初から一つしか残されていなかったじゃない)
主役たちの繰り広げる命懸けの死闘を、特等席から俯瞰し、傍観し、おもしろおかしく楽しむための、無責任な"観客"としての立場。
誰の味方にもならず、誰の理想にも縛られない。
劇場の暗闇の中に身を潜めながら、滑稽なダンスを眺め、時には拍手を送り、時には退屈だとあざ笑う。
飄々としていて、常に落ち着き払っていて、時には相手の痛いところを悪辣な言葉を容赦なく突き刺すような、無責任で、無遠慮で、どこまでも自分のペースを崩さない、不気味な道化師の仮面。
(これだよ。……これなら、誰も、私の生身の心をただの一分も傷つけることはできなくなる)
リラは、自らの胸の奥で、歯車が噛み合う音を聞いた。
ゆっくりと顔を上げた。その顔には、先ほどまでの怯えた少女の表情など、欠片も残されてはいなかった。
「――わかったよぉ、アケルナル」
彼女の唇から零れ落ちたのは、これまでの彼女とは決定的に異なる――間延びした、緊張感の欠片もない、独特な声音であった。
◆◇◆




