289話「潮騒のバルコニー」
潮の香りを孕んだ夜風が、豪奢なベルベットのカーテンを大きく揺らしていた。
今から三年前。後にエリダヌス連邦として一大国家群が成立するよりもまだ少し前、大陸の南端に位置するとある穏やかな海辺の小国。その王城の広大な晩餐会会場は、金銀の装飾と、灯された明かりによって、眩いばかりの光の中にあった。
オーケストラが奏でる優雅なワルツ。高価なワインがグラスに注がれる小気味よい音。着飾った貴族や各国の高官たちが、偽物の笑みを顔に貼り付けて談笑している。
リラ・マイアは、その華やかな喧騒の片隅で、ただ一人、壁に背を預けて色彩の海を眺めていた。まだ、"姫"という存在の知名度そのものが世界において浅かった頃の記憶だ。
当時の各国は、突如として歴史の表舞台に現れ始めた"姫"と呼ばれる異能の少女たちに対して、明確な対応を図りかねていた。
ある者は世界の理を変調させる神の奇跡だと崇め、ある者は国家の均衡を崩す忌むべきイレギュラーだと恐れ――そしてまたある者は、ただの都合の良い政治的な道具として利用しようと、品定めしていたのだ。
だからこそ、会場を満たしている空気は、純粋な祝祭のそれとは程遠かった。リラのすぐ近くを通り過ぎる貴族たちが、扇やグラスの陰から、彼女に向けて容赦のない視線を突き刺してくる。
「――おい、あれが噂のプレアデスの"小夜啼鳥"か?」
「大層な二つ名がついているが、どう見ても、ただの細い小娘ではないか。本当に、一国を単独で陥落させるほどの戦力を宿しているというのかね」
「誇大妄想の宗教国家が、箔をつけるために大袈裟な噂を流しているだけだろう。あんな子供に、恐ろしい力などあるはずがない」
隠そうともしない侮りと、底の浅い猜疑。
彼女の耳に届く声は、どれもが冷酷にリラを値踏みし、値段をつけようとするものだった。
三年。彼女が灰色の日常から世界へ流れ着いてからの月日。けれど、その三年という時間は、彼女の生身の心を完全に麻痺させ、周囲の悪意を無感情に受け流すための仮面を完成させるには、あまりにも短すぎたのだ。
胸の奥が、酸性の泥水を流し込まれたかのように、じわじわと不快に灼けていく。
ドレスのコルセットが肉体を締め付けているのではない。この部屋を支配する、記号としての自分を値踏みする人間たちの目そのものが、彼女の気道を物理的に塞いでいるのだ。
(……あー、もう無理。窒息しそう)
リラは小さく息を漏らすと、誰にも気づかれないように壁際を伝い、会場の最奥に設置された、夜の海へと開かれた広いバルコニーの向こう側へと、逃げるようにして足を動かした。
この猜疑の海に沈んでしまう前に、ただの一分だけでもいいから、息継ぎをするために。
一歩、バルコニーの白石の床へと足を踏み出した瞬間、会場の不快な熱気とワルツの残響が、遮音のカーテンを引いたかのように遠のいていった。
代わりに彼女の全身を包み込んだのは、夜の海がもたらす、ひんやりとした冷たい潮風と、満天の星々が落とす静かな世界の明度。
「ぷはっ……、生き返ったぁ……」
リラは誰もいないバルコニーの欄干へと駆け寄り、そこへ両肘を預けて、深く、深く、夜の空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
けれど、その孤独な平穏の時間は、唐突な他者の声によって遮られることになる。
「――あら、あなたも夕涼みに来たの?」
「――っ!?」
リラの背筋に、一瞬にして硬質な緊張のコードが走った。
いつの間にそこにいたのか。慌てて振り返ったリラの網膜に飛び込んできたのは、夜の月光をその身に浴びて、信じられないほどの輝きを放っている一人の女性のシルエットだった。
その佇まいは、あまりにも衝撃的だった。
まるで、幼い頃にあちらの世界で読んだ、格式高い古典的な絵本の世界から、その美しい挿絵ごと現実へと飛び出してきたかのような、文字通り完璧な"お姫様"の輪郭。
すらりと高い、モデルのような抜群の等身。
夜風にしなやかに揺れる、眩いばかりの豊かなブロンドの長髪。
仕立ての良いサファイアブルーのイブニングドレスを纏い、夜の海を背にして力強く立っている彼女は、その彫刻のように整った美しい顔に、穏やかで、優しい笑みを浮かべてリラを見つめていた。
――けれど、それだけではない。
その女性がただそこに佇んでいるだけで、バルコニーの魔力が微振しているのが分かった。大気を通じてリラの肌へとダイレクトに伝わってくる、あまりにも濃密で、あまりにも強大な圧力。
その肌を打つ独特のプレッシャーを感じ取った瞬間、リラは、目の前にいるこの完璧な美貌を持った女性もまた――自分と同じ、世界に数人しか存在しない不条理の器、"姫"と呼ばれる化け物の一人なのだと、ハッキリと確信した。
「……まあ、一応ね。……あなたは?」
リラは警戒しつつも、できるだけいつも通りの、感情を排した冷めたトーンを意識して問い返した。
「私も、ただの夕涼みよ。……というよりもね」
金髪の姫君は、リラの態度を気にする風でもなく、自らの美しいサファイアの瞳を少しだけバツ悪そうに伏せながら、欄干の少し離れた位置へと、気さくな動作で背中を預けた。
「あの部屋の中の、息が詰まるような空気に……どうしても、最後まで耐えきれなくなっちゃっただけなんだけどね」
そう言って、自嘲気味に肩をすくめる彼女の仕草。
その瞬間、リラの胸の中に、ほんの少しだけ熱が灯った。温かい、血を巡らせる感覚。
「……まあ、わかるよ」
リラは少しだけ警戒を緩めながら、欄干に預けた視線を、目の前の美しい姫から、遠くの暗い海面へと戻した。
「この世界って、なんていうか、本当に窮屈だもんね。どこに行っても、自分のことじゃなくて、私の能力しか見てないし……。息苦しいっていうか、皆、目が怖くてさ。ただの便利なお人形としてしか、見てくれないんだもん」
ぽつり、ぽつり。
リラは、自分でも驚くほどに素直な、あちらの世界にいた頃からずっと胸の奥に溜め込んでいた本音の毒を、含むところなく口にしていた。
相手との正確な距離を測りかねつつも、彼女になら、この気持ちを共有できるかもしれないと、そんな淡い期待があったのかもしれない。
リラの、そのどこか投げやりで、けれど切実な愚痴。
それを静かに聞き届けていた金髪の姫君は、一瞬だけ驚いたようにその丸い目を見開いた――と思うや否や。
「――ぷっ、あはははは!」
突如として、バルコニーの夜の静寂を吹き飛ばすような、屈託のない笑い声が、夜の闇に弾けていった。
「な、何がおかしいの? 私は別に、面白いことなんて……」
リラは自らのプライドを僅かに刺激され、顔を真っ赤にして彼女を睨みつけた。
けれど、笑い続けるその金髪の女性の表情を見た瞬間、リラの言葉は、その喉の奥で完全にフリーズしてしまった。
彼女は、"生きて"いた。
心の底から楽しそうに、そして何よりも――この世界のあらゆるしがらみから、完全に解き放たれたかのように、自由そうに。
国家の権威にも縛られることなく、聖女という役割の檻に締められることもなく。まるで、夏のひまわりのように、とても、とても清々しく、一人の人間として、彼女は声を震わせて笑っていたのだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい! あなたを馬鹿にしたわけじゃないのよ」
彼女は目尻に浮かんだ涙を指先で小さく拭いながら、未だにクスクスと楽しそうな残響を響かせて、こちらにその眩い貌を向けた。
「あなた、元々は"日本"の人でしょう? さっきから会話を観察していたけれど……『まあ』とか、『一応』とか。そういう、少しだけ濁すような言葉が、頭にいくつもつくのが……なんだか、とても懐かしくてね。あちらの世界の匂いがして、嬉しくなっちゃったの」
「え……? あなたも、もしかして……?」
リラの思考は停まり、目を丸くした。この異世界において、元の世界の、それも日本のことが話せる存在に出会うなど、思っていたのだ。
「ねえ、私の名前はアケルナルっていうの」
金髪の姫君は、笑いすぎて少しだけ上気した自らの頬を夜風に晒しながら、リラとの間の距離を、一歩、軽やかにつめてきた。
「アケルナル・ヴォア=ヴォーラ。……この世界の人たちは、私のことを"人魚姫"なんていう大層な名前で呼ぶけれど、そんなのどうでもいいわ。……あなたの名前は?」
正面から見据えられる、澄んだサファイアの瞳。
その光の前に、リラを縛り付けていたあらゆるしがらみが、ボロボロと音を立てて剥がれ落ちていくのを感じていた。
目の前にいるこの女性は、世界をあるがままに見ている。自分のことも、兵器や偶像としてではなく、ただの一人の対等な人間として、その言葉を受け止めようとしてくれている。
「……私、私は……リラ。リラ・マイア、だよ」
彼女がかつて地球での灰色の名前を捨て、この世界で得た名前。
けれど、それを口にした瞬間、リラの胸の奥の真空は、三年目にして初めて、本物の人間の温度によって、いっぱいに満たされていった。
「リラね! 素敵な名前だわ、これからよろしくね、リラ!」
アケルナルは、太陽のような屈託のない笑顔を咲かせると、自らの白く、細い右手を迷いなく伸ばし――リラの小さな手を力強く握り締めたのだった。




