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間に合わなかったシンデレラは、硝子の靴で戦場を踊る  作者: 入江 鋭利
22章「災禍と目覚めともう一人の"不帰"」
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288話「飢えた構成要素」

◆◇◆


 リラ・マイアという少女の魂の根底は、かつて、元の世界で生きていた頃から、一貫して冷え切っていた。


 昔から特段、自分という存在に執着したこともなければ、自身の尊厳について深く考えたこともなかった。


 毎日、決まった時間に目を覚まし、没個性的な制服に身を包み、アスファルトの剥げかけた退屈な通学路を歩く。教室に並ぶ同級生たちは誰もが驚くほどに平凡で、彼らと交わす言葉もまた均一に退屈であり、彼女を包む世界そのものが、最初から色彩を奪われた灰色のグラデーションで構築されていた。


 価値観を揺さぶられるような大恋愛の経験もなければ、凄惨な事件に巻き込まれて世界を呪うような悲劇の引き金もない。人生の進路を大きく捻じ曲げるような運命の波濤など、彼女のささやかな日常には影すら見当たらなかった。


 このまま、誰の記憶に残ることもなく、普通に学校を卒業し、普通の会社に就職し、普通に歳を重ねて、普通に死んでいく。それこそが、彼女に与えられた人生のすべての図面であった。


(――でも、そういう人間だって、この退屈な社会を維持するためには必要なはずでしょ)


 彼女はいつも、スマートフォンの冷たい画面の向こう側に広がる極彩色のフィクションを眺めながら、心の中でそう冷めて割り切っていた。


 自分はどこにでもいる一般人A。物語の主要な登場人物ではなく、背景の街並みを埋めるためだけに配置された、無名のその他大勢。社会という巨大な工場の、交換不可能な部品ではなく、いくらでも代えの利く無価値な歯車の一つ。


 それでいい。それ以上の重荷を背負って生きるなんて、面倒なだけだ。そう自分に言い聞かせ、納得しているつもりだった。


 ――けれど、その冷めきった諦念の裏側で、彼女の魂は、常に激しく飢えていた。


 ここではない、どこか遠い世界。


 日常の物理法則を根底から踏み躙るような、圧倒的な非現実。


 世界の中心に立ち、誰もがその一挙手一投足に注目せざるを得ないような、絶対的な特別。


 そして何より――ただの背景の一部ではない、自分という確固たる存在の確立。


 単なる構成要素から逸脱し、おのれの物語を始めたいという昏い渇望は、青春期の鬱屈としたノイズとなって、彼女の胸の奥を確実に蝕み続けていた。


 だが、それを実行に移すだけの胆力も、退屈な日常を自らの手で破壊するだけの狂気も、当時の彼女には備わっていなかった。彼女はただ、誰にも明かせない飢餓感を抱えたまま、終わりのない灰色の時間の流れの中で、無気力に飼い殺され続けていたのだ。




 ――だから、あの日。




 夕暮れの薄暗い交差点。視界の端から、直進の赤信号を完全に無視して暴走してきた、居眠り運転のトラック。


 硬質な金属の塊が、抵抗のしようもない、彼女の華奢な肉体へと、一切の躊躇なく激突した、あの断絶の瞬間。


 ――ドォォォンッ!!!


 骨が砕け、肉が裂け、全身の感覚が永遠の闇へとシャットダウンしていくその最悪な結末の最中にあっても、彼女の胸の中に去来したのは、恐怖や未練ではなかった。



(ああ、やっと……この退屈な日々が、終わってくれるんだ)



 ――そんな、救いようのない、それでいて深い安堵。




 そして、次に彼女がゆっくりと両目を開けたとき、世界の全ては、潔癖な白亜の輝きへと上書きされていた。


 プレアデス聖教国。


 天を衝くほどの壮麗な尖塔と、世界中の光を吸い込んだかのような美しい大理石の回廊。


 その見知らぬ異世界の神聖な祭壇の上で、自らの五体に、迸る魔法の力が宿っていることに気づいたとき――彼女は、かつての世界で名乗っていたおのれの古い本名を、何の躊躇も、未練もなく放棄した。


 彼女は、生まれ変わったのだ。リラ・マイアという、新しい世界の登場人物として。


 手の平から溢れ出す、世界の理すら捻じ曲げ、強引に変調させる不条理な魔法の力。


 このプレアデスという国家において、ピラミッドの頂点に君臨することを宿命づけられた“姫”という、特権的な立ち位置。


 そして何よりも、スマートフォンの四角い画面の向こう側でしか見たことのなかった、魔法と不条理がリアルに駆動する、この美しい異世界の景色。


(私は……特別に、なれたんだ。もう、あの灰色の背景の一部なんかじゃない。誰の代わりでもない、かけがえのない、ただ一人の主人公に……!)


 手に入れた新しい肉体の軽さを、魔力の熱量を、彼女は毎夜、自らの胸をかきむしるようにして深く、深く、噛み締めていた。


 かつての飢餓感は完全に満たされ、自分はこのステラという世界の主役の一人として、これから輝かしい祝福の歴史を刻んでいくのだと、一点の曇りもなく、信じて疑わなかった。



 ――けれど。



 そんな甘い全能感は、異世界での時間が経つにつれて、より深く、より逃れられない絶望の檻へと変質していった。


 特別になれたと歓喜した彼女を待っていたのは、求めていたような温かい他者との繋がりではなく――どこまでも眩く、一方で底無しの孤独であった。


 世界における"特別"とは、余人と決定的に異なるということであり、余人と決定的に異なるということはつまり、その社会のあらゆるコミュニティからの完全な孤立を意味していた。


 プレアデス聖教国という、 “姫”を絶対的な頂点として築き上げられた社会すらも、その構造の中において、リラをリラという一人の 人間として見つめる者など、最初からただの一人も存在しなかった。


 ひれ伏す白衣の信徒たち。跪く聖教騎士たち。


 彼らの敬虔な瞳の奥に映っているのは、彼女の言葉でも、彼女の心でもない。


 ただ、国家の安全保障を維持するための、最大戦力に対する期待。


 教義の正当性を証明するための、都合の良い偶像崇拝(アイドル)への視線。


 あるいは、触れるだけで自らも殺されされかねないという――強さが故の、畏怖。


 彼女がどれほど嘆こうとも、周囲の人間はそれを勝手に都合よく解釈し、彼女の生身の感情など、最初から誰にも届かなかった。


 あれほど焦がれ、前の生ではひたすらに飢え、求めていたはずの称号は、自身から独立性を完全に剥ぎ取り、ただのプレアデスというシステムを動かすための記号へと、彼女の精神を完全に締め殺してしまったのだ。


「……なあんだ。……馬鹿みたい」


 ある月の綺麗な夜、誰もいない大聖堂のテラスで、リラは自らの周囲を無感情に旋回する二羽の小夜啼鳥を眺めながら、ぽつりと、冷え切った自嘲を漏らした。


 結局、世界のどこを探したって、自分という存在の居場所(すくい)なんてものは、最初から存在しなかったのだ。


 あちらの世界で、無色無名のまま、社会のシステムにただ平凡に飼い殺されるか。


 こちらの世界で、神聖な姫という仮面を被らされ、都合の良い象徴として締め殺されるか。


 表現のカタチが少しだけ変わっただけで、自分の人生の本質的な価値など、結局はその二つの選択肢のどちらかしかない。


 彼女は、主役になんてなれなかった。


 ただ、前よりもほんの少しだけ目立って、ほんの少しだけ窮屈な役割を与えられただけに過ぎない。


 世界への期待は解けていき、彼女の瞳からは、徐々に温度が薄れていく。結局、この世界は筋書き通りだったのだと、役に徹することを決めた――。



 ――そんな、完全に冷え切ってしまおうとしていた彼女の前に、その後の人生をひっくり返すような、運命の出会いが訪れたのは、彼女がこのプレアデス聖教国に流れ着き、踊り続けて、ちょうど三年が経つ頃の、ある夜のことであった。



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