287話「最強を超える"厄"」
パリィィィィンッ!!!
硬質で、けれどどこか悲鳴のような玻璃の破砕音が、広大な祭儀場の冷え切った空気を何度も激しく震わせていた。
私の差し出すレイピアの切っ先から放たれる、硝子の散弾。そして、私の背中から時折火花を散らすようにして吹き出す、融けた硝子の熱流。それらの攻撃のすべてが、目の前に立つリラに届くより前に、ことごとく虚空で解体され、サラサラとした光の塵へと変えられていく。
激しい攻防の残響が白亜の壁に反響するその渦中で、私は額から流れる冷や汗を拭うこともできずに、ある確信を得ていた。
(――単純な魔力の最大出力だけなら、間違いなく私の方が上だ)
というよりも、"小夜啼鳥"が有する魔法の純粋な攻撃出力が、他の"姫"たちと比較して著しく低いというのが正解だろうか。
彼女の肉体の周囲を超高速で旋回している、二羽の漆黒の小鳥。あの能力の本質は、物理的な破壊ではない。あの羽音が高周波のうねりとなって空間を満たすことで、そこに展開された相手の魔力の構造そのものを乱し、内側から完璧に自壊させる――ただ、それだけなのだ。
彼女の魔法そのものには、他者の肉体を一瞬で消し炭にするような攻撃力など無い。そして、先ほど戦ったエレクトリアが誇っていた絶対防衛の盾や、カノンの"ブリキの木こり"の鎧のような、絶対的な防御の術があるわけでもない。
魔法の単体スペックだけを見れば、彼女は決して恐るべき化け物ではないはずだった。
けれど、その低い出力を補って余りあるほどに積み上げられた――リラ自身の、生身の戦闘技量が、その戦力差を埋めていた。
さすがは、大戦期から最前線で生き残り、名を轟かせた"不帰の姫"だ。
魔力の干渉を無効化された瞬間に滑り込んでくる、超至近距離での徒手空拳の実力。その一撃一撃の重さ、関節の駆動速度、急所を的確に撃ち抜く弾道。それら生身の体術の完成度は、私のような素人の領域など、初手から遥かに置き去りにしていた。
それに加えて、何よりも厄介だったのは――彼女がその奥底に秘めている、こちらの魔力の流れを完璧に見切る、異常なまでの眼力だった。
「――っ!」
私がリラの足元を硝子化してその機動力を奪おうと、ほんの一瞬だけ魔力を練った、まさにその刹那。
私の魔法が虚空へと顕現するよりも早く、リラの顔がヴェールの下で僅かに歪むのが分かった。彼女は私の魔力の、わずかな揺らぎの予兆を最初から完全に読み切っていたかのように、大理石の床を踏みしめて、私の硝子の棘が突き出すはずだった座標から、紙一重でその身を躱してみせたのだ。
かと思えば、直後には強烈な上段への蹴りが、風切り音を伴って私の顔面へと肉薄してくる。
自らの有する強大な魔法の出力に依存し、それを盤面の軸として戦っていたこれまでの強敵たちと比較しても、この魔法をただの補助道具として扱い、自らの生身の肉体を最大の爪牙として振るってくるリラという存在が、これ以上ないほどにやり辛い相手であることは間違いなかった。
ガギィィィィィンッッッ!!!
私は咄嗟にレイピアの腹を盾の形状に変形させ、リラから放たれた目にも留まらぬ連続の足技を辛うじて正面から受け止めた。硝子の防壁に凄まじい亀裂が走り、その衝撃に押されるまま、私の身体は床の上を後方へと数メートルも強制的に滑らされていく。
エレクトリア戦の疲労が残る両足が情けなく震え、呼吸が激しく乱れる。
その滑走の隙間から、私は椅子に座らされたまま、ぐったりと項垂れているシャウルの姿を視界の端に捉えた。あの子の魂を書き換えるための儀式が、今もカリオペの手によって静かに進められている。もう、一刻の猶予もない。
「……リラ、どうしてなのっ!? あなたならわかるでしょう、こんな真似、絶対に間違ってるって!」
私は激しい過呼吸に耐えながら、対峙するリラに向けて、喉が裂けるほどの叫び声を投げかけた。
「シャウルは、普通の一般人よ! "姫"のしがらみなんて何一つ関係のない、ただの侍女なの! その子の魂の形を強引に書き換えて、兵器として作り変えるなんて……! そんな理不尽な選択、あなただって間違っているって、理解できているはずじゃないの……っ!!」
私の、激情を剥き出しにした問いかけ。
リラはその言葉を、まるで感情を完全にパージされた能面のような顔のまま、静かに聞いていた。ヴェールの下のその瞳には、私への怒りも、自らの行いに対する罪悪感も宿ってはいない。
彼女は自らの周囲を回る二羽の小夜啼鳥の羽音を、一時的にゆったりとした調子へと落としながら、間延びした声音でぽつりと答えた。
「……確かに、客観的な道徳で言えばさぁ、そんなの100%間違ってるかもしれないねぇ、ノクティア」
「だったら……っ! だったらどうしてそこを退いてくれないの! あなたが教国の味方をする理由なんて――」
「でもねぇ。……もう、これしかないんだよぉ、ノクティア」
リラは私の言葉を遮るようにして大きく踏み込むと、大振りの回し蹴りを私の胸元へと叩き込んできた。
私は本能的に真後ろへと大きく跳躍し、その強烈な風圧を受け流しながら、二人の間に広く距離を空ける形で着地した。
ハァ、ハァ、と荒い息を吐きながら、私はどうにか立ち直り、リラの立ち姿を鋭く睨みつける。
私を見つめながら、リラは自らの法衣の裾を優雅に揺らし、その間延びした調子のまま、淡々と口を開く。
「ノクティア。あなたはあの極寒のガーランドの地で、雪の女王アダーラにはまともに勝てなかった。"根源"の力を身に着けて尚、エレクトリアにすら辛勝……。ハッキリ言って、今のあなたのその程度の成長曲線じゃあさぁ、全然無理なんだよぉ」
「無理って……、一体何がよ! 私はこうして、あなたたちの防衛ラインを突破して、ここまで辿り着いたわ!」
「勝つのがだよぉ、ノクティア」
リラは一歩、前へと進み出た。その金色のステンドグラスの光を浴びた影が、私の足元へと不気味に長く伸びていく。
「正真正銘、最強の"姫"――アケルナル・ヴォア=ヴォーラにさぁ」
「――っ!! アケルナル……!」
その、名がリラの唇から告げられた瞬間、私の心臓がドクンと冷たく脈打った。
アケルナル・ヴォア=ヴォーラ。
かつてのエリダヌスの決戦において、私が守りきることができず、結果として帝国手に落ちてしまった――"喰らってしまった人魚姫"。
しかし、本来であれば操られ、敵となってしまうはずだった彼女が自分自身を眠らせたことで、数カ月の猶予が生まれたはずだ。
「……だったら! アケルナルがその深い眠りから目覚めてしまう前に、私たちが一丸となって、あの帝国を根底から叩き潰してしまえばいいじゃない! そのための特使団であり、そのための同盟の交渉だったはずでしょ……っ!」
「あはは、それもできたかもねぇ、ノクティア」
リラは私の必死の反論を聞いて、歪な笑みを漏らした。その笑い声には、どこか諦念にも似た感情が、色濃く混ざり合っていた。
「もしも、あなたが私たちの想像を超えるほどに強ければ。もしも、プレアデスの戦力が、もっと揃っていればねぇ……。でも、現在の私たちの戦力じゃあ、アケルナルが目覚めた瞬間に、一瞬でゲームオーバーになるのが関の山なんだよねぇ」
バサササササササッ!!!
リラが自らの両腕を滑らかに広げた瞬間、彼女の周囲を旋回していた二羽の小夜啼鳥の影が、虚空の魔力を吸い込んでさらに数羽の群れへと瞬時に分裂し、私へと向かって一斉に放たれた。
空間を切り裂く、鳥たちの鋭利な羽ばたきの波。
「くっ……、そこを、退きなさいっ!!」
私は迫りくる小鳥たちの群れを、強引に床へと叩き落とそうとした。キィィィン、パリィィンと、魔力が相殺される甲高い残響が祭儀場に鳴り響く。
けれど、リラの放った鳥の全てを防ぎきることは、不可能だった。
――チクッ。
「――っあ……!」
一羽の小夜啼鳥の鋭い翼の先端が、私の左の頬の皮膚を浅く切り裂いた。
ツッと一筋の鮮血が流れ落ち、床の大理石に赤いシミを作る。激しい痛みが走るが、私はその場に足を縫い付けたまま、リラの次の言葉を待つしかなかった。
リラは、傷ついた私を見つめながら、自らの指先をそっと天へと向け、その最も高い座標にあるステンドグラスの真下、眠るシャウルの椅子を愛おしげに指し示した。
「"最強"に対抗するためにはさぁ、それをも上回る、新しい"最強"を作るしかないんだよぉ、ノクティア」
彼女の間延びした調子の裏に、強い確信の響きが宿っていく。
「"人魚姫"すらも、一瞬で霞んでしまうような――新しい"災厄の姫"をさぁ」




