286話「もう一人の"不帰"」
――"姫降ろしの儀"。
それを耳にしても、カリオペはただ聖母の笑みを深くするだけだった。その沈黙こそが、私の推測が100%の正解であるという冷酷な証明だ。
シャウルの魂を上書きし、教国に都合の良い、新しい"手駒"に作り変える。そんな絶望的な変転を、ただ指をくわえて見届けてやる義理など、私にはこれっぽっちも存在しない。
「そんな真似、絶対にさせるもんですか……!」
私は迷いを振り切り、大理石の床を力強く蹴り上げた。
狙うは最高司教カリオペの身柄。先の消耗もあり、多少の目眩が残っているが、ここで彼女の動きを完全に封じ込めることくらいはできる。
そうすれば、この最悪な儀式の進行を強制停止させることができるはずだ。
(――大丈夫。殺す必要は無い。ただ、あの女の機動力を奪って、動きを止めさえすれば……!!)
私は走りながらレイピアの切っ先をカリオペへと向け、"シンデレラ"の魔力を解放する。
「拘束しなさい――"硝子の戒め"!!」
カリオペの足元から、キィィィィン! と甲高い鳴動と共に、美しくも強固な数条の硝子の鎖が蛇のように這い出た。それは彼女の法衣の裾を絡め取り、その四肢を完全に固定せんと、爆発的な速度でせり上がっていく。
捕らえた――そう確信した、まさにその刹那だった。
バサササササササッ!!!
どこからともなく飛来した、夜の闇を溶かし込んだような二羽の小鳥――"小夜啼鳥"。
その小さな翼がカリオペの周囲を滑らかに旋回し、ただ一度、激しく羽ばたきを放った瞬間、大気中に目に見えない高周波が爆発的に拡散した。
その不気味な振動が触れた瞬間、カリオペを縛り上げるはずだった私の硝子の鎖は、強度を失った砂の城のように、パリン……とあまりにも脆く、あまりにも呆気なく、粉々に崩壊して光の塵へと還っていった。
(魔法の構造が、内側から解体された……!?)
私は突き出していたレイピアの軌道を強引に停止させ、信じられない思いで前方へと着地した。床に飛び散った硝子の破片の向こう、カリオペの斜め前方の空間に、滑るような足取りで降り立った影があった。
「……悪いねぇ、ノクティア。この人をここで奪られるわけには、いかないんだぁ」
灰色の髪を不規則に揺らし、相変わらずその顔の全容を薄いヴェールの下に隠した少女。
プレアデス聖教国の特使、そして今は、最高司教の懐刀として私の前に立ちはだかる"姫"――リラ・マイア。
彼女はいつもと変わらない、緊張感の欠片もない間延びした声で、ぽつりとそう告げてきた。
「……リラ、あなた、どうして……? エリダヌスでは、あんなに私たちに協力的だったじゃない……!」
「どうしてもこうしてもないよぉ、ノクティア」
リラは細い肩をすくめ、ヴェールの奥の瞳を微かに細めた。
「私は元々、このプレアデス聖教国に所属する“姫”だからねぇ。そりゃあ、自分の陣営が大きな勝負を仕掛けてる時は、そっちに肩入れするのが、普通でしょぉ?」
飄々とした口調。緊張感のない佇まい。
けれど、彼女の全身から漏れ出す魔力の温度は、先ほどまでの信徒たちとは一線を画す、肌がヒリつくほどの剣呑なプレッシャーを帯びていた。
(――私は、リラが実際に戦ったところを、私はただの一度も見たことがない……!)
私はレイピアを構え直しながら、奥歯を強く噛み締めた。
かつてエリダヌスの地において、帝国の"姫"アルゴラによる、"鏡の迷宮"に私たちが囚われた時。リラは確かに、その突破口を開いてくれた。けれど、彼女自身はその直後、アルゴラとの直接戦闘を回避し、早々に戦場から撤退してしまっていたのだ。
そして、このプレアデス聖教国にやってきてからの戦闘訓練においても、彼女はいつも遠くから私とエレクトリアを眺めているだけで、自らが積極的に前線に立って刃を交えてくることはただの一度もなかった。
故に、彼女がどのような魔法を操り、どれほどの破壊の出力を隠し持っているのか、私の目ではその本当の実力を捉えきれていない。
(……待ちなさい、落ち着くのよ、ノクティア。エリダヌスの時、彼女はアルゴラを単独で撃破することよりも、リスクを避けて撤退することを選んだ。……だとするならば、彼女の純粋な戦闘力は、少なくともあのアルゴラ以下のはず)
私は、自らの恐怖を抑え込むようにして、脳内で即席の戦闘シミュレーションを組み立てた。
あの時のアルゴラであれば、今の私の手札なら、真っ向から叩き潰せない相手ではない。ならば、目の前の彼女だって、決して突破できない絶対の障壁ではないはずだ。
「……退きなさい、リラ。私はシャウルを連れて帰る。どうしてもそこを退かないって言うのなら……あなたごと、力ずくで黙らせることになるわよ」
私は彼女への最後の警告として、背中の空間から、再び焼け溶けた"根源"の流動硝子を溢れさせた。緋色の炎を纏った二対の硝子翼が、威嚇するように私の背後で大きく広がり、祭儀場の冷え切った空気をジュウジュウと不気味な音を立てて熱していく。
しかし、リラは私の翼を前にしても、ただの一歩も後ろへ退がる気配すら見せなかった。彼女はただ、退屈そうに肩をすくめ、私をおちょくるかのような態度のまま、そこに立ち尽くしている。
「……忠告は、したわよ……ッ!!」
時間の猶予はもう無い。
私はリラを強引に弾き飛ばすため、背中の硝子の翼を前方に引き絞り、その先端から超高熱を帯びた流動硝子の弾丸を、彼女の四肢を目掛けて一斉に射出した。
――しかし。
「――あのさぁ、ノクティア」
リラの間延びした声が響いた、まさにその瞬間。
彼女の周囲を猛烈な速度で旋回し始めた二羽の小夜啼鳥が、その小さな羽ばたきによって、再び空間の物理法則を強引に変調させた。私の放った数千度の熱量を持つ流動硝子の弾丸は、彼女の肉体に触れるよりも遥か手前の空間で、まるで透明なアクリル板にでも衝突したかのように、事もなげにポロポロと床へと弾き落とされ、無害な塵となって消滅していった。
「……なっ!? "根源"の熱流が、完璧に相殺された……!?」
私が目を見開いた、まさにそのコンマ数ミリ秒の空白。
フッ、と。
私の網膜に映っていたはずのリラの輪郭が、一瞬にして消失した。
「っ、どこに――っ!?」
私が慌てて、周囲へと視線を巡らせようとした、その次の瞬間。
ドガァァァァァァンッッッ!!!
「――が、はっ、あ……っ!?」
私の思考の速度を完全に置き去りにした速度で、私の右の側頭部へと、リラの回し蹴りが、完璧なカウンターのタイミングで叩き込まれた。
脳髄を直接ハンマーで強打されたかのような、凄まじい衝撃。私の身体は物理法則に従って真横へと激しく吹き飛ばされ、大理石の床の上を無様に何度もバウンドしながら転がった。
「う、く――」
視界が激しく明滅し、耳鳴りが鳴り止まない。受け身を取る暇すら与えられず、床に這いつくばった私の視界の端。
倒れ込んだ私の腹部へと、リラの爪先が、容赦のない追撃となって真っ直ぐに突き刺さった。
ズドォォンッ!!!
「げほっ……あ、か……っ!!」
肺の中の酸素が、強烈な打撃圧によって一瞬ですべて体外へと強制吐き出される。内臓がひっくり返るような激痛。リラは私の腹部を思い切り蹴り上げることで、私の身体を中空へと強引に浮き上がらせると、その体勢のまま、コマのように鮮やかに自転を始め――。
ドパァァァンッッッ!!!
最後は、浮き上がった私の胸元へ向けて、強烈な裏拳の一撃を無造作に叩き込んできた。
骨が軋むような不快な打撃音と共に、私の身体は凄まじい推力で真横の壁へと投げ飛ばされ、ドォォォン! と激しい音を立ててその壁面へと背中から深く、叩きつけられたのだった。
「ひゅ、――う、く、あ……」
壁に激突した衝撃のまま、私は床の上へとボロ雑巾のように崩れ落ちた。
レイピアを握る右手の感覚が完全に麻痺し、刃の先端が床の上をカチャリと虚しく滑る。全身の筋肉に力が入らず、立ち上がることすらままならない。
強い。あまりにも、強い。この女の戦闘機動は、カノンのような、徹底的に磨き上げられた技術力と、戦闘センスに裏付けされたものだと、一瞬で理解した。
「……私さぁ、今までみんなにはわざわざ言ってなかったけど」
ズシン、ズシンと、大理石を叩く軽い足音。
煙の向こう側から、リラ・マイアは自らの法衣の袖を払いながら、普段通りの、あの緊張感のない間延びした口調のまま、ゆっくりと私の方へと近づいてきた。
「これでも長いこと、修羅場をくぐり抜けてきた身だからさぁ……。実は結構、強いんだよねぇ」
床に這いつくばり、血の混じった唾を吐き出しながら、私は彼女の近づいてくる足元をハッキリと見据えた。
"帰らなかった小夜啼鳥"、リラ・マイア。
カノンと同じ――いや、教国のドグマを内側から支えるために牙を研ぎ澄まし続けてきた、もう一人の、"不帰の姫"。
「さあ、お遊びの時間は終わりだよぉ。最高司教様の邪魔をする悪い子は、ここで私が、綺麗にお掃除しちゃわないとねぇ」
リラの周囲を旋回する二羽の小夜啼鳥が、私の命の終わりを告げるカウントダウンのように、けたたましく、不気味な声で鳴き始めた。
手負いの私に向けて、本物の怪物が、その容赦のない爪牙を剥こうとしていた。




