285話「降ろされる物語」
白亜の螺旋階段を、私は一段、また一段と、残されたすべての力を両足に込めて駆け上がっていた。
一歩を踏み出すたびに、足首の関節が悲鳴のような軋み音を立て、胃の奥からは生温い目眩が何度もせり上がってくる。エレクトリアとの一騎打ちは、私の肉体と魔力を、文字通り空っぽの一歩手前まで削り落としていた。
――けれど、私の歩みが完全に止まることはなかった。
階下の通路からは、未だに激しい金属の衝突音と、信徒たちの怒号がかすかに響いてきている。
私を先に行かせるために、あの無数の武装信徒たちの包囲網をたった一人で引き受けてくれたミラク。
彼女が命懸けで防衛ラインを抉り開けてくれたおかげで、この上層へと続く階段に配置されている信徒の数は、驚くほどにまばらだった。
「そこを、退きなさい……ッ!!」
行く手を塞ごうと槍を構えた数人の信徒に対し、私は走りながらレイピアを鋭く一閃させた。
虚空から顕現させた最小限の硝子の棘が、彼らの武器を正確に弾き飛ばし、その足を床へと縫い付ける。これ以上の余計な魔力の浪費は命取りになる。私は彼らを討ち倒すことすら最低限に留め、ただひたすらに、夜を穿つ鋭い足音だけを回廊に響かせて先を急いだ。
(状況は、もう滅茶苦茶ね。……カノンや、他のみんなも、無事だといいけれど――)
大聖堂の外部、ここから離れた"男性領"の様子は、正確には感知できない。けれど、私は階段の踊り場のスリット窓を通過する瞬間、大聖堂の外周の夜空に、肌が粟立つような凄まじい魔力の残響をハッキリと感じ取っていた。
黒い、泥水のような魔力を真っ向から撃ち払う、エメラルド色の輝き。
間違いない、カノンだ。彼女もまた、大聖堂の外で、こちらの想像を超えるような激しい死闘を繰り広げているのだろう。
加えて、ザラの姿も数日前から見えない。彼女のことだ、心配は要らないだろうが、手助けに来てもらうことはできないだろう。
(……助力が期待できる状況じゃなさそうね。ここは――私が、単独で突破するしかない……!)
孤独な確信が、私の胸の中の真空を冷たく満たしていく。
この場で頼れる仲間は誰もいない。けれど、私の心に絶望が過ることはなかった。シャウルをこの手で救い出すと、そう決めたから。
そして、階段を上りきった先、通路の最奥に、ついに目的の場所が姿を現した。
周囲の白亜の壁とは一線を画す、装飾が贅沢に施された巨大な両開きの重厚な大扉。
私は息を整える僅かな猶予すら自分に許さず、大理石の床を力強く踏みしめると、右足の硝子の靴に総身の力を込めて、扉を真っ正面から乱暴に蹴り開けた。
――バンッッッ!!!!
重々しい扉が左右へと勢いよく弾け飛び、壁に激突して激しい音を立てた。
私の視界に一気に飛び込んできたのは、吸い込まれそうなほどの容積を持った、広大なドーム状の空間――大聖堂の最上階に隠されていた、特別な"祭儀場"の全貌だった。
「――シャウルっ!!」
私は部屋の中を確かめるよりも早く、その名を狂ったように叫んだ。
ステンドグラスの光が最も色濃く投影された、部屋の中央。
そこに置かれた豪奢な彫刻の椅子に、私があれほど探していた、大好きなあの子の身体が腰掛けさせられていた。
シャウルは、縄や魔力の鎖で物理的に拘束されているようには見えなかった。けれど、その小さな身体からは完全に生気が失われており、まるで糸の切れた人形のように、ぐったりと頭を垂れて項垂れている。
微かな胸の上下が見えた。生きている。けれど、その意識は深い霧の底へと沈められているのが遠目からでも分かった。
彼女のすぐ傍らに、影のように寄り添って立っていた人物が、私の突入の衝撃を受け、ゆっくりとこちらへと向き直った。
「――おや、お早いお着きですね。ノクティア様」
どこまでも優しく、どこまでも穏やかな声音。
純白の最高司教の法衣を一点の乱れもなく身に纏い、完璧に張り付いたような聖母の如き笑みを浮かべている女性――プレアデス聖教国の最高指導者、カリオペだった。
彼女は手元に置かれていたクリスタルのグラスをそっと聖壇へと戻すと、まるで我が家に帰ってきた娘を迎えるかのような、曇りのない慈愛の目を私へと向けてきた。
「まさか、あのエレクトリアを突破してこられるとは思いませんでした。ああ、素晴らしい成長です。……きっと、"あのお方"も深く喜んでおられるでしょうね」
にこやかに、何の一考もなく私を称賛してくるカリオペ。そこに混ざっているのは、どこまでも澄み切った、自らの正義を100%信じ切っている狂信の香り。
「――お喋りをするつもりはないわ、カリオペ」
私はレイピアを構えた。硬質で鋭利な硝子の切っ先を、正面の最高司教の喉元へと真っ直ぐに突き付ける。
「すぐに、その子の側から離れなさい。……さもなくば」
「殺す、とでも言いますか?」
カリオペは刃を目の前に突き付けられても、その美しい眉一つ動かさなかった。彼女はただ、自らの胸元にそっと両手を当て、悲しそうな、それでいてすべてを許すかのような歪な微笑みを崩さない。
「あなたは、ヴァルゴ王国の特使。そのあなたが、仮にもこのプレアデス聖教国の最高指導者である私を、このような私的な感情のままに殺害するというのですか? それが何を意味するか、あなたであれば、理解できないはずがありませんよね」
全面戦争、あるいは、国家間の絶対的な決裂。そんなことは理解している。
だが、その欺瞞に満ちた言葉が私の耳に届いた瞬間、私の胸の奥で燻っていた激情の火種が、爆発的な熱量を伴って一気に燃え上がった。
「……その全面戦争の理由を最初に寄越したのは、あなたの方じゃない……っ!!」
――ゴォォォォォォォォォォッッッ!!!
私の魂の咆哮に呼応するように、背中の空間から、ドロドロと赤黒く焼け溶けた"根源"の流動硝子が爆流となって溢れ出した。それは二対の不揃いな焦熱の翼を形成し、祭儀場の冷え切った空気を一瞬にして白熱させていく。私の衣服の裾が熱風で激しく揺れ、床の大理石がパチパチと音を立てて火花を散らす。
だが。その、魔力に晒されても尚、カリオペはただの一歩も後ろへ退がることはなかった。動じる気配すら、爪の先ほども見せない。
「……理由、ですか。人聞きが悪いですね、ノクティア様」
カリオペはふう、と小さく美しいため息を吐くと、首を横に振った。
「私はただ、そこに眠る哀れな子に、ほんの少しだけ"力を貸してあげる"ことにしただけですよ。あなたの力になりたいと、悩むその子にね」
「力を貸す……!? あなた、よくもそんな白々しい嘘を……っ!!」
「ならば、ノクティア様。お尋ねしますが――」
カリオペは私の激しい拒絶の言葉を遮るようにして、その瞳を、妖しく明滅させた。
「私は一体この子に、これから何をしようとしているのか……あなたは、それを知っているというのですか?」
カリオペの、私の思考を試すような冷酷な問いかけ。
私は硝子の翼を構えたまま、自らの脳内を超高速で回転させる。
なぜ、シャウルだったのか。
その疑問は、この大聖堂の地下に足を踏み入れたあの日から、ずっと私の胸の奥に消えないバグとして残り続けていた。
今回のヴァルゴ王国の特使団の中で、シャウル以外の三人は戦力として有用だ、他でもない私自身。歴戦の"姫"であるカノン。そして、騎士として完璧に完成された実力を持つザラだ。
もしも教国が、自らの陣営を強化するための強力な手駒を欲しているなら。あるいは、ヴァルゴ王国の影響力を削ぐために人質を求めているなら。私たち強者自身を罠に嵌めて無力化するか、あるいは直接その身を拘束するべきなのだ。
それなのに、教国はそのすべてを無視して、戦闘能力を持たない、ただの侍女であるシャウルだけを、ピンポイントで狙った。
強者ではなく、無垢な一般人の少女を狙う理由。
そして――この場所。大聖堂の最上階、特別な"祭儀場"。
カリオペの、「力を貸す」という言葉。
この世界において、普通の人間が、凄まじい力を手に入れる方法――それは確かに、一つだけ存在する。
すべての点と線が、私の中でひとつの恐ろしい絶対解へと収束していった。
「――"姫降ろしの儀"」
私の口から、その言葉は搾り出すようにして放たれた。
「あなた、シャウルの魂を書き換えて、新しい"姫"を作るつもりね……!?」
正面に立つ最高司教カリオペは、自らの企てを暴かれたというのに、驚くことも、動揺することもしなかった。
彼女はただ、夜の月光をその身に浴びながら、自らの張り付いたような表情の裏に、底知れない暗黒の狂信を潜ませたまま――静かに、どこまでも優しく、笑うのだった。




