284話「聖壇の雛鳥」
◆◇◆
「……う、うう……?」
深い泥の底から無理やり引き摺り起こされたかのような、ひどく不快な感覚が、シャウルの意識の輪郭をゆっくりと形作っていった。
脳の芯がじわりと痺れるような、過眠時特有の重い頭痛。視界はひど霞んでおり、網膜に映るすべての景色が、水中に落としたインクのように不気味に揺らいでいた。
(……あたし、一体どうしちゃったっすか? 確か、さっきまで――)
シャウルは、霧がかかった頭の中の記憶の引き出しを、必死に手探りで開けようとした。
先程まで、彼女は大聖堂の内部に用意されていた、あの静かな自分の部屋にいたはずだった。物思いに耽りながら、一人で部屋の窓から夜空を眺めていた。
そこへ、トントンと小気味よい音を立てて部屋の扉が叩かれたのだ。現れたのは、白衣の信徒が一人。その手には、焼き立ての香ばしい匂いを漂わせる、美しい装飾の施された小皿が握られていた。
『最高司教カリオペ様からの、シャウル様への差し入れです。連日のこともあり、お疲れでしょうからと』
そう言われて手渡された、バターと蜂蜜の甘い香りが鼻腔をくすぐる焼き菓子。
シャウルは、それを何の疑いもなく口へと運んだのだ。サクサクとした心地よい食感と、口いっぱいに広がる濃厚な甘み。
――そう、そこまではハッキリと覚えている。
(……そうっす。それを食べたら急に、立っていられないくらいの猛烈な眠気が襲ってきて――)
そこから先の記憶は、完全に断絶していた。
あの菓子に、何かが混ぜられていたことに、彼女は今になってようやく気がついたのだった。
「はっ……!」
シャウルは、冷たい戦慄が背筋を駆け抜けるのを感じながら、強引に目蓋を見開いた。
視覚の霧が徐々に晴れていく。見えたのは、私室の天井ではなかった。
そこは、見たこともないほどに広く、そして息を呑むほどにきらびやかな、巨大なドーム状の大空間。面積で言えば、あの広大な修練場にすら引けを取らないだろう。
部屋の正面には、夜の月光を浴びて青白くきらめく、壁面全体を埋め尽くすような巨大な幾何学模様のステンドグラスが嵌め込まれていた。そして、その真下、部屋の中央には――見たこともない、不気味なほど精巧な銅像が設置されていた。
それは、一冊の古い本を両手で静かに抱え、何もない虚空を見つめながら静かに腰掛けている、一人の美しい女性の姿を象った像だった。その表情は、どこか悲しそうであり、同時に世界のすべてを突き放したかのように冷酷に見え、シャウルの胸に言い知れぬ不吉な予感を沸き上がらせた。
「――ここは、大聖堂の最上階にある"祭儀場"ですよ。シャウル様」
不意に、空間の静寂を優しく溶かすような、いつもの聞き慣れた聖母の如き声音が背後から響いてきた。
「ひっ……!?」
シャウルは弾かれたように後ろを振り返った。
そこに立っていたのは、純白の最高司教の法衣を一点の乱れもなく身に纏った、カリオペその人であった。
彼女は片手に、美しく磨き上げられたクリスタルの水差しと、透明なグラスを携え、床の大理石を滑るような足取りで、じりじりとシャウルのすぐ側まで歩み寄ってくる。
「……カリオペ様。これは、一体どういうことっすか? あたしに薬を盛って、こんな場所に連れてくるなんて……!」
シャウルは、未だに麻痺の残る両足を踏ん張り、カリオペに気圧されるようにして、じり、と後ろへ一歩下がった。
「どういうことも何も、最初からあなたにお約束していた通りの筋書きですよ」
カリオペはシャウルの正面でピタリと足を止めると、水差しからグラスへと、冷たい水を注ぎ込んだ。その手元には、一分の揺らぎもない。
「私の言葉を忘れてしまいましたか? 私は、あなたへ力を授けると言ったはずです。これは、そのための段取りなのですよ」
「……っ、どうしてなんすか、カリオペ様!!
」
シャウルは、自らの胸の奥の感覚を必死に裏切ろうとしながら、叫び声を上げた。
彼女がカリオペから悪意の匂いを嗅ぎ取ったことは一度もなかったのだ。漂うのは、いつも清廉で、どこまでも澄み切った、他者への慈愛の香りだけ。
「あなたからは、あたしを罠にハメようとするような、そんな汚い嘘の匂いはしてないっす! なのに、どうしてこんな強引な真似をするんすか……!」
「ええ、当然でしょうね」
カリオペは、差し出したグラスをそっと傍らの聖壇へと置くと、自らの胸元に右手を当てて、曇りのない、あまりにも美しい笑みをシャウルへと向けた。
「あなたを騙すつもりなど、私には最初からありませんから。私は自分の行いが、どこまでも正しいと信じ切っているのです。自分自身の正義を、一片の疑いもなく曇りなく信じること……。これもまた、信仰の形なのですからね」
「……っ、この……っ!!!」
カリオペの、言葉を耳にした瞬間、シャウルは本能的に、これ以上の対話は完全に無意味であると悟った。
彼女は麻痺の残る身体に強引に命令を下し、大理石の床を力強く踏みしめると、自らの右足をバネのようにしならせて、カリオペの無防備な側頭部へ向けて、最速の弾道で鋭い回し蹴りを放った。
シャウルはノクティアたちのような“姫”としての不条理な戦いの力は持っていない。けれど、最低限の戦闘訓練は修めてきている。
不敬罪で即座に処刑されるかもしれない。けれど、目の前の怪物をここで止めなければ、最悪の結末を迎えてしまう。そんな予感が、彼女を動かした。
空気を切り裂く、シャウルの渾身の蹴り。
その爪先が、カリオペの白い頬へと直撃する――まさに、その瞬間だった。
――スッ。
「――ごめんねぇ、ノクティアぁ」
暗闇の中から、場違いなほどに軽薄で、けれど圧倒的な速度を持った一本の"細い腕"が、文字通り空間を飛び越えるようにして滑り込んできた。
パシィィィンッッッ!!!
「――っ、が、あ……っ!?」
シャウルの放った必殺の回し蹴りは、カリオペの髪一筋に触れることすらできず、横合いから伸びてきたその手の平によって、まるでおもちゃのボールでも受け止めるかのように、完璧なタイミングでパシリと正面から掴み取られてしまった。
息を切らしながら床へ膝を突くシャウルの視線の先。
カリオペのすぐ横、いつの間にかその影から躍り出るようにして立っていたのは、特徴的な灰色の髪を揺らし、その瞳の奥にすべてをあざ笑うかのような冷徹な光を宿した少女。
プレアデス聖教国、最高司教の懐刀。
“小夜啼鳥”――リラ・マイアの姿だった。
「リ、ラ様……っ!」
シャウルは、自らの右足を掴んだままの、リラの指先の恐ろしいほどの握力を前にして、全身の血液が引いていくような絶望を味わっていた。
目の前にいるのは、ノクティアたちと同等の、あるいはそれ以上の不条理な戦力を持つ本物の“姫”。リラがここにいるということは、この祭儀場から自らの足で逃げ切る確率ど、最初から存在しないということだった。
シャウルは、それ以上の抵抗を放棄し、ただ聖壇の前に立つカリオペの姿を、床に跪いたままじっと見据えることしかできなかった。
なぜなら、カリオペから漂ってくるのは、今なお、自分を心から心配し、愛おしんでくれているかのような、温かく清らかな"母性の匂い"だったからだ。
恐怖の力で縛り付けるのではない。
悪意の刃で脅すのでもない。
ただ、相手を肯定し、掌握してしまう、底知れない掌握術。これこそが、最高司教カリオペという存在の真の、そして最も恐ろしい怪物性の輪郭だった。
諦念の混じった小さな溜息と共に、シャウルは床を見つめたまま、掠れた声で問いかけた。
「……あたしを、本当はどうするつもりなんすか、カリオペ様。あたしには、あなたたちがどうこうするような価値なんてないっすよ……」
「ふふ、そんなことはありませんよ、可愛いシャウル様」
カリオペはリラの手を軽く制し、シャウルの右足を解放させると、自らその場に優雅にしゃがみ込み、シャウルの頬を、白く温かい指先でそっと包み込んだ。
その触れ方は、あまりにも優しく。
「最初から言っているではありませんか。私はあなたへ、この世界で最も美しく、最も正しい力を与えるのですよ」
カリオペはシャウルの顔を覗き込み、その唇の両端を、ニヤリと吊り上げてみせた。
「――"彼女"の清廉なる世界を焼き尽くす者に、鉄槌を下す。この世で最も清らかで恐ろしい力を、ね」
彼女の慈母の如き声色が、祭儀場の冷たい大理石の壁面に反響し、シャウルの魂の深淵へと、逃れられない柵のように深く、深く、絡みついていく。
白亜の大聖堂の頂点、星天に最も近いその聖壇の上で、ついに、少女の運命を完全に書き換えるための、最悪の儀式の幕が上がろうとしていた。
◆◇◆




