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間に合わなかったシンデレラは、硝子の靴で戦場を踊る  作者: 入江 鋭利
22章「災禍と目覚めともう一人の"不帰"」
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283話「―――(文字が掠れていて判読できない)」

◆◇◆


 記憶の最も深い底に今も灯り続けている、一番古い光がある。


 それはいつも、胸が締め付けられるほどに鮮やかで、そしてどこか冷え切った、あの夕暮れの色彩を伴って私の脳裏に蘇ってくる。


 白亜の石材で築かれた、天空へと突き出るような高いテラス。


 見上げれば、そこにはマゼンタとインディゴ、そして琥珀色の光が不気味なほどのグラデーションを描く、広大な空が広がっていた。大気は塵一つなく澄み渡り、遥か眼下に広がる壮麗な都の屋根を一筋の残光が等しく、神聖に照らし出している。


 どこを見渡しても一点の欠点も見当たらない、まるで熟練の画家が何ヶ月も懸けてキャンバスに描き込んだかのような、完璧な景色。けれど、その美しさは、どこか現実味を欠いていた。あまりにも整いすぎているが故に、まるで巨大な大嘘(まやかし)を目の前に突きつけられているかのような、奇妙な平穏。


 そんな、偽りの世界を象徴するような特等席の欄干に、緩やかに腰掛け、長い髪を夕風に揺らしている"彼女"がいた。


 彼女の佇まいは、奇妙だった。


 そこに実体として存在しているはずなのに、まるで光の屈折が見せた陽炎のように、その輪郭が時折サラサラと世界の境界線に溶けてしまいそうに見えるのだ。彼女の纏う衣服の贅沢な布地も、その白い指先も、夕日の光を浴びて信じられないほど綺麗にきらめいていた。


 まだ小さく、世界の仕組みを何一つ知らなかった幼い私は、ただ、彼女の存在感に圧せられるようにして、その背中を少し離れた影からじっと見つめていた。


 不意に、彼女が振り返ることもせず、ただ夕闇に沈みゆく地平線の彼方を見つめたまま、鈴を転がすような、けれどどこか生気のない透き通った声で、私に問いかけてきた。




「――なあ、きみ。世界はどうして、回っていると思う?」




 その唐突な質問の意図を、当時の私の浅い知性では測りかねた。彼女の声は、風の鳴動と同じくらい自然に、けれど私の魂の芯を冷たく揺らすような響きを伴って、テラスの空間に染み渡っていった。


「世界にはさ、いつだって数え切れないほどの争いがある。理不尽な格差が生む貧困がある。肉体を内側から蝕む病苦がある。他者を裏切り、陥れようとする汚い悪意が、血の報復を呼び寄せる復讐が、理性を狂わせる色欲が、弱者を踏み躙る暴虐が――。ありとあらゆる、目を背けたくなるような悪徳が、この大地の至る所に満ち満ちている。……なのに、世界は何事もなかったかのように、今日も、明日も、恙無く回り続けている。これは、一体どうしてだい?」


 彼女の唇から淡々と羅列される、世界の暗部。


 それは幼い私にとっては、あまりにも刺激が強く、恐ろしい世界の真実だった。けれど、彼女がそれらを語る口調には、悲憤も、嫌悪も、何も含まれてはいなかった。ただ、道端に転がる石ころの数を数えるような、徹底した無関心。


 私は自らの胸の前で、小さな両手をぎゅっと握り締め、当時、周囲の大人たちから教え込まれていた、最も正しく、最も美しいはずの模範解答を、震える唇から必死に紡ぎ出した。


「……それは、人間の心の中にある思いが、それらの悪徳を遥かに超える、素晴らしいものだからです。どんなに暗い悪意や惨劇に晒されようとも、人と人とが手を携え、互いを信じ合うその尊い光は、決して負けたりしないから……。だから、世界は美しく回り続けることができるのです」


 それは、絵本に書かれているような、あまりにもナイーブで、清らかな言葉だった。


 信仰は善であり、人間はその愛によって不条理を超克していく。その美しい光の結末を信じて疑わなかった私に対して、彼女は――。



「――違うね」



 彼女は私のその健気な言葉を、ただの一秒の躊躇もなく、冷酷な一言で、完全に断ち切った。


 風の音が、一瞬だけ止まったような気がした。


「答えは簡単。最初から、そう作られているからさ」


 彼女はゆっくりと欄干から身体を離し、こちらへと向き直った。その流れるような優雅な動作すら、あらかじめ厳密に秒単位で規定されていたかのように無駄がない。


「きみが今言ったその尊い思いも、胸を締め付けるような惨劇も、すべてはこの世界の構造上"起こりうること"として、最初から金型にはめ込まれていた仕様に過ぎないんだよ。どれほど凶悪な悪徳が存在しようとも、それによって世界というシステムが崩壊しないように、最初からバランスが計算されている。……どんなに残酷な存在も、どんなに清らかな聖者も、最初から盤上に載せられていた、ただの"駒"にすぎないのさ」


「……盤上、に……?」


 私は彼女の言う"盤上"という言葉の意味が理解できず、ただオウム返しに呟くことしかできなかった。世界が盤面。私たちが駒。ならば、その盤を挟んでゲームを動かしているのは、一体どこの誰だというのだろう。


「そうだよ。……きみたちが特別な奇跡だと崇めている"姫"の力だって、その世界の仕組みの一端、ただの駆動歯車でしかないってことさ」


 そう答えた彼女の表情を、私はどうしても、正確に分類することができなかった。


 彼女の顔は、あまりにも美しかった。


 けれど、その微笑みは、世界の誰よりも悲しそうに見え、同時に、世界のすべてをあざ笑うかのように楽しそうでもあった。そして何よりも――それらの感情のすべてが、まるで精巧に作られた作り物であるかのように、徹底的な欺瞞に満ちていた。


 最初からすべての顛末と台詞が決まっている、古い絵本。その頁の中に印刷された挿絵のように、彼女のあらゆる仕草、視線の動かし方、指先の角度にいたるまで、本物の生命の息吹が、ただの一分も感じられなかった。


 まるで、真っ白な仮面の上に、鮮やかな色彩の絵の具をこれでもかと塗りたくって作り上げられたような、歪な貌。


 彼女はその作り物の貌で、夕暮れの光を浴びながら、静かに笑っていた。


「――"人魚姫"、 "髪長姫"、 "ドロシー"に"小夜啼鳥"。……ああ、"マッチ売りの少女"なんかは、なかなか良いセンいってるとは思うけどね。……けれど、結局のところ、彼女たちの誰一人として、あらかじめ定められた頁の境界線を超えることはできないだろうね」


 彼女の口から次々と零れ落ちる、聞き覚えのある不条理な物語の名前。


 それらの物語を宿す存在が、どれほどおのれの運命に抗おうと、どれほど激情の熱を燃やそうと、世界の構造そのものを内側から食い破ることは絶対にできない。彼女の言葉は、まるで世界の果てにある絶対の壁の存在を、冷酷に告げる宣告のようだった。


 ザッ、と彼女が、天に向けて自らの細い右手の指先を、滑らかに伸ばした。


 その指先は、琥珀色の空の向こうにある、目に見えない世界の天井を、文字通り物理的に掴み取るかのような、異様な緊迫感を伴って虚空へと固定されていた。


「――だからこそ、私は知りたいんだよ」


 彼女の瞳の奥に、今までの無関心を一瞬で消し去るような、狂気の熱量が、じわり、と灯るのを私は見た。


「この世界の、あらかじめ印刷されてしまった完璧な筋書き(シナリオ)は、私たちの手で壊し得るのか。……私という観測者の想像を、世界のシステムそのものの限界値を遥かに超越した、本当の、まったく新しい不条理な物語が、この紙面に生まれ得るのかどうかをね」


 筋書きの破壊。

 想像を超えた、未知の物語の誕生。


 彼女の放ったその言葉の意味を、当時の幼い私は、やはり正確に理解することはできなかった。


 けれど、その時の彼女の立ち姿は、夕暮れの琥珀色の空のようにどこまでも美しく――。


 そして、その背後に刻一刻と迫りくる、すべてを無に帰す夜の帳のように、息が止まるほどに、恐ろしかった。


 彼女は、世界のすべてを知り尽くしたが故に、その完璧な調和に退屈し、世界そのものを破壊することだけを渇望している、絶対的な反逆者。


 それでいて、誰よりも世界を愛し、その存続と発展を願う平和主義者。


 相反する二つが、彼女の本質だった。


 彼女の伸ばした指先から零れ落ちた白銀の光の残像が、私の網膜の裏側に焼きつき、いつまでも、いつまでも残り続けていた――。

 


◆◇◆

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