282話「白磁の援軍」
静寂が、鼓膜を冷たく圧迫していた。
私は崩れた大理石の瓦礫の横にそっと膝を突き、床に横たわるエレクトリアの胸元が、小さく、規則正しく上下しているのを見届け、その場から立ち上がった。
休んでいる暇など、一秒たりとも残されてはいない。
彼女が最後に残した、あの言葉。
シャウルは今、この聖堂の最上階にある、特別な祭儀場へと連れ去られている。カリオペが何を目論んでいるのかは知らないが、時間はそう、多くは残されていない。
(……図らずも、天井が大きく崩れてくれたわね。これなら、わざわざ迷路のような内部の階段を上るより、外へ出てショートカットした方が――)
ふと見上げた頭上には、私とエレクトリアの激突によって完全に消し飛んだ、巨大な天井の穴が広がっていた。そこからは冷たい夜空と星々が覗いている。背中の翼をもう一度羽ばたかせ、外壁に沿って一気に最上階のテラスへと飛び立てば、何分もの時間を短縮できるはずだ。
そう判断し、背中の硝子の翼へ再び魔力を流し込もうとした、その瞬間だった。
――ズキン。
「――っ、く、あ……」
突如として、目の前が真っ暗になるほどの強烈な目眩が、私の脳髄を真っ直ぐに刺し貫いた。
視界が不気味にぐにゃりと歪み、天地の感覚が消失する。胃の奥からせり上がる強烈な寒気と吐き気。私は激しい不整脈に襲われた心臓を左手で押さえながら、危うくその場に無様に転倒しそうになり、近くのへし折れた石柱にどうにか縋りついた。
身体が、悲鳴を上げている。
当然だった。"根源"の魔法は、肉体と精神に牙を剥く、あまりにもエネルギー効率の悪い自傷の力。エレクトリアを撃破するのに、相当消耗してしまったようだ。
冷や汗が額から顎へと伝い、大理石の床に小さなシミを作る。
この状態でさらに翼を発動し続け、重力に逆らって上空を飛行するなど、現実的ではない。
(……駄目ね。ここは大人しく、翼を閉じるしかないわ)
私は奥歯を噛み締め、背中に残っていた緋色の陽炎をサラサラと解体した。熱が急速に失われ、背中が夜の冷気に晒されて不気味に冷えていく。
「――それでも、行かなくちゃ……。待ってて、シャウル……!」
壁に預けていた身体を強引に引き剥がし、ふらつく両足に言葉の鞭を打って、私は最奥へと続く薄暗い通路へと向かって歩み出した。一歩を踏み出すたびに足首が軋むような痛みを訴えるが、そんなものを気にする猶予は、今の私には存在しない。
しかし、世界は、手負いの私に対してどこまでも冷酷だった。
ザッ、ザッ、ザッ、ザッ、ザッ――。
暗がりの向こうから、統制された、不気味なほどに規則正しい無数の足音が、回廊の壁面に反響しながら急速に近づいてくるのが聞こえた。
私がレイピアを引き抜き、迎撃の姿勢を取るよりも早く、通路の先から溢れ出してきたのは――白装束を身に纏い、その瞳に狂信の光を爛々と輝かせた、プレアデス聖教国の無数の武装信徒たちの集団だった。その数、数十、あるいは百を容易に超える。
「……っ、つくづく、徹底してるわね……!」
私は彼らの冷徹な包囲陣形を前にして、思わず忌々しげに悪態を吐いた。
彼らの目的は、ハッキリとしていた。この手負いの私を、彼ら自身の力で完全に討ち倒そうなどとは、最初から考えていないのだ。彼女らの目的は私の残されたわずかな魔力を無駄に消費させ、時間を稼ぐこと。
もしも私が教国側の指揮官であったとしても、間違いなく同じ防衛ラインをここに構築するだろう。彼らは一丸となって、私という駒を削りにきているのだ。
(……でも、どうする? 時間が無いのはもちろんだけど、こいつら全員を真っ向から相手にしていたら、最上階に着く前に私の身体が保たない……!)
プレアデスの信徒たちは、ただの訓練された兵士ではない。その全員が、何らかの魔法の使い手だ。
もしもここにいるのがカノンであれば、おのれの超人的な戦闘技術と肉体の駆動だけで、魔力を一切使わずに彼らを突破きるだろう。けれど、私にはそこまでの洗練された技術などない。
彼らの防衛網を突破するためには、どうあれ通常の硝子の魔法を展開し、力任せに押し潰さざるを得ない。それはつまり、カリオペとの最終決戦に残しておくべき最後の魔力を、ここで捨てることを意味していた。
信徒たちが一斉に呪文を唱え始め、通路の奥に不気味な光の術式が幾重にも形成されていく。
退路はない。進むしかない。私は震える右手でレイピアの柄を強く握り直し、最悪の自傷を覚悟して、魔力を練ろうとした――まさに、その悲壮な覚悟を決めた瞬間だった。
「――"七人の虚人"!!!!」
通路の側面に並ぶ白亜の柱の影、その漆黒の暗闇の中から、私の鼓膜を突き破るような、聞き覚えのある少女の鋭い叫び声が響き渡った。
直後、空間の明度を強引に奪い去るような、不気味な白銀のきらめきが虚空に迸る。
闇の中から弾丸の如き速度で躍り出てきたのは、人間の形状をしながらも、その輪郭が歪にブレ続ける、七体の不気味な影の軍勢だった。
ドガガガガガガガガガッ!!!
「ぎゃあぁぁぁっ!?」
「何だ、どこから――っ!?」
不意を突かれた先頭の武装信徒たちが、防衛の障壁を張る間すら与えられず、その七体の影が振るう鋭利な剣閃によって容赦なく肉体を切り裂かれ、次々と床の上へと無様に転がっていく。完璧だったはずの教国の包囲陣形が、横合いからの奇襲によって、一瞬にして瓦解していった。
そして、その激しい血飛沫の霧を背負い、私の前方へと鮮やかに着地して信徒たちの前に立ち塞がったのは、透き通るような白磁の肌と、小柄ながらも芯の通った強固な佇まいを持った、一人の少女だった。
「……っ、ミラク!?」
私は驚愕のあまり、レイピアの先を僅かに下げてその名前を叫んだ。
「ミラク、じゃないわよ、ノクティア!」
ミラクは私の方を振り返ることもせず、自らの周囲で駆動を続ける七体の分身体に指示を送りながら、ぶっきらぼうな声を張り上げた。
「ちょっと昼寝してる隙に、一体何が起きてるのよ!? 回廊の奥を見たら、エレクトリアが気絶して転がってるし、建物のあちこちからは見たこともないようなデカい魔力反応がバンバン立ち上ってるし……! あんた、何してるのよ!」
彼女の言葉が終わるより早く、体勢を立て直したプレアデスの信徒たちが、ミラクをも明確な排除対象だと見定め、その瞳に狂暴な殺意を宿して一斉に襲いかかってきた。
四方から迫る光の槍と、空間を緊縛せんとする魔力の鎖。
「――ふん、規律を失った烏合の衆が、この私に勝てると思ってるわけ?」
ミラクは冷笑を浮かべ、自らの細い両腕を交差させた。
彼女の意志に呼応するように、七体の白磁の影たちは、まるで一つの巨大な生き物のような完璧な連携を以て空間を跳ね回り、迫りくる信徒たちの攻撃をことごとく弾き飛ばし、容赦なく床へと叩き伏せていく。
その力はエリダヌスで共闘した時よりも、ひと目見て分かるほどに洗練されていた。
「……なにボサッとしてんのよ、あんた。早く行きなさいよ!」
信徒を拘束した分身体の背後から、ミラクが私に向けて、鋭い叱咤の声を飛ばした。
「何が理由かは知らないけれど、あんた、死にそうな顔をしながらその奥の階段を上ろうとしてたじゃない。……死ぬほど急いでる用事があるんでしょ?」
「……でも、ミラク」
私は彼女の小柄な後ろ姿を見つめながら、その場から足を動かすことができなかった。
彼女の実力は分かっている。けれど、ここにいる信徒の数は尋常ではない。私を先に行かせるために、彼女をここに置き去りにしていくことへの、強い躊躇いと心配が私の胸を締め付ける。
「でもも何もないわよ、このお人好し! 私を誰だと思ってるの?」
ミラクは襲いかかる信徒の顔面に強烈な蹴りを叩き込みながら、不敵で、誰よりもプライドの高い笑みを鮮やかに浮かべてみせた。
「丁度いいのよ。プレアデスに来てから、訓練以外の実戦はお預けだったしね。修行の成果を試すには、こいつらは最高のサンドバッグよ!」
恐怖に震えることなく、ただ自らの力を証明するために笑う、誇り高き白雪姫。
その瞳の奥にある確固たる強者の輝きを見た瞬間、私の中にあった迷いや心配は、一瞬にして消え去っていった。
「……ええ、わかったわ。……ミラク、ここは、あんたに預けるわね……!」
「さっさと行きなさい! 後でたっぷり貸しを返してもらうんだからね!」
ミラクの力強い怒声を受け流しながら、私は、彼女の分身体が強引にこじ開けてくれた白衣の隙間へと、一気に身体を滑り込ませた。
目指すは、この白亜の大聖堂の頂点。カリオペとシャウルが待つ、最上階の特別な祭儀場。
私はただ一途に、夜を穿つ鋭い足音を響かせながら、漆黒の最上階へと向かって、全力で駆け上がっていくのだった。




