280話「銀盆と灼熱」-後
このまま優位を保ち、彼女の攻撃を騎士たちに押し付けて、私はその隙に最上階へと逃げ切ることはできるだろう。
けれど、そんな逃げ腰の勝利では――私は、この零落の聖女エレクトリアという一人の少女を、真の意味で打ち倒したことにはならないのだ。
この教国の影に抗うのならば、その体現者の一人である彼女を、真っ向勝負で完璧に打ち破らなければならない。
それが、この戦いの本質的な勝利条件であり、今の私が彼女に対して払うべき、戦士としての敬意だった。
私の受託の言葉を耳にしたエレクトリアは、驚くことも、嘲笑うこともしなかった。
ただ、自らの銀盤を両手で包み込むようにして、これまでとは決定的に異なる――相手の命を、その首を確実に刈り取るための、無慈悲な狩人の構えを取った。
「――感謝いたしまス、ノクティア様。己の合理性を捨ててまデ、私に付き合ってくださるその愚かさ二、最大級の敬意ヲ。……そしテ、さようなラ。私のこの"根源"の刃を受けて、五体を五体として維持したまま生き残った者ハ……私の受肉から今にいたるまデ、ただの一人も存在しないのでス」
「あら、そう? なら、私がその記念すべき、一人目の生存者になってあげるわ」
「……ふフ。本当二、そうなればいいの二」
エレクトリアの薄い唇の端から、今夜初めて、冷酷な仮面の裏側に隠されていた、一人の少女としての微かな、本当に寂しげな笑みが溢れ出た。
直後、彼女の体内に蓄積されていた全魔力が、手にした銀のトレイへと流し込まれていく。
キィィィィィィィィィンッッッ!!!
まばゆい銀色の光を放ちながら、彼女のトレイは空間の容積を無視して急激に巨大化を始め、そのフチには、触れるものすべてを強制的に解体するような、悍ましい断頭台の如き鋭利な刃が幾重にも形成されていった。
世界そのものを一刀両断に引き裂くような、あまりにも凶悪な切れ味。その白銀の鏡面が、対峙する私の顔を、青白く、冷酷に照り返す。
「……“ヘロディアの娘”ハ、聖人の首を求めましタ」
巨大化していく断頭の刃の背後から聞こえてくる、エレクトリアの、どこか遠い過去を想起するような静かな語り。
一方で、それは自らに言い聞かせるような、そんな響きも帯びていた。
「……しかシ、いくら周囲の目があれド、他人の命を無慈悲に奪う要望なド……。そんな呪われた要望ハ、断れば良かったのでス。嫌だと、それは道理に適わないト、そう言って拒絶すれバ、それで良かったはずなのだト……」
彼女の周囲の空間が、刃の放つ魔圧によって音を起てて裂けていく。
「……しかシ、それは誰にもできなかっタ。不条理を吹き込んだ彼女の母ヘロディアモ、それを聞いて苦悩したヘロデ王モ、実際にヨハネの首を望んだサロメ本人モ……。誰もガ、それぞれの逃れられない歴史のしがらみに引っ張らレ、操り人形のように踊らされテ……。結果としテ、預言者の首は盆の上へト、呆気なく落ちるしかなかったのでス」
「…………」
私は、ただ黙って、銀色の光の中に立つエレクトリアの横顔を見つめていた。
そこにいるのは、教国の誇る冷酷な処刑人でも、恐ろしい力を持つ零落の聖女でもない。
その人生を理不尽に踏み躙られ、尊厳は命ごと破壊され、苦しみと痛みを伴う理不尽に打ち拉がれたまま、この異世界へと流れ着くしかなかった――ただの、哀れで孤独な、一人の少女の姿だった。
(――いつだって、そうだ。最後にはみんな、本当の顔を見せる)
そう、ノクティアは思考する。
彼女は、神のいない世界の残酷さから自らの精神の形を守るために、与えられた"処刑人"という新しい檻の中に、自らの意志で閉じこもっているだけなのだ。
断れば良かった。拒絶すれば良かった。けれど、それができなかったからこそ、彼女は今、自らの世界のすべてを否定するための、最悪の不条理の刃を研ぎ澄ましている。
「――私のこの刃ハ、すべてを無に帰す"否定の刃"でス」
エレクトリアの瞳からは、既にすべての迷いが剥離されていた。その虹彩が捉えるのは、完全な死へと向かう数値。私を死に至らしめる、最短のルート。
「あなたが背負う物語の背景モ、シャウル様を救いたいというその感情の熱モ……。そのすべての文脈を無視しテ、ただ物理的二、その首を私の銀盤の上に載せル……! これガ、私の観測する世界の絶対的なルールでス、ノクティア様ッ!!」
「――そう! だったら、やれるものなら、やってみなさい!!」
私は彼女の両目をを真っ正面から睨み返し、背中の"根源"の融解硝子の翼へと、私の魂のすべて――これまでの旅路や、私が燃え尽きたあの夜の無念を注ぎ込む。
――エリダヌスでは、一歩及ばず。
――ガーランドでは、力が足りず。
――そして、現世ではたった一人の妹すら救えなかった。
でも、今ならば。この翼なら、全てに届かせることができる。
「……あなたのその、世界への諦めとしがらみの刃が勝つか、私の胸を焼く、この熱が勝つか……! この首に届くかどうか、その刃で試してみるといいわ、エレクトリア――!!」
ドロドロと焼け溶けた緋色の硝子が、私の右手のレイピアの刃へと収束し、空間そのものをマグマのように赤く、激しく燃え上がらせていく。
互いの視線が、数秒の静寂の中で交差した。
回廊の全座標から、すべての音が消滅したかのような、完璧な一瞬の真空。
そして――その静寂を引き裂いて、両者は、己の"根源"のすべてを懸けた最大最高の必殺技を解き放ち、正面から激突した。
「――すべてを焼き尽くしなさいッ!!! "灰冠・溶玻璃の劫火"!!!!」
「――その首ヲ、盆の上ヘ!!! "終舞・断頭銀盤"!!!!!」
私の内より出でた、数千度の超高熱を帯びた、溶けた硝子の奔流。それは周囲のあらゆるものを焦がしながら、レイピアを伝い、一条の流星のように走っていく。
それに応じるように、エレクトリアの手から放たれた、世界のすべての物理と感情を強制切断する白銀の断頭台の巨大な輪。
二つの"根源"の光が重なり合い、回廊の中央の座標で正面から激突する。それらは、大聖堂の空間全体を眩い爆発の渦の中へと、力強く飲み込んでいくのだった――。




