278話「綻ぶ計算式」-後
「種明かしをすれば、なんてことはない。ただの、極限まで無駄を省いた、超高精度のドッジボールを繰り返していただけよ。だったら――その測量が追いつかないほどの不規則な熱量で、ヴェールのキャパシティごと、上から力任せに叩き潰してしまえば、あなたの完全防御は、それで終わりを迎えるわ」
「…………」
完璧に見切られていた。
エレクトリアが、この世界に生まれ変わっから数十年。誰にも破られたことのなかった絶対防衛のタネが、出会って間もないヴァルゴの姫によって、看破されてしまったのだ。
エレクトリアの薄い唇から、感情の消えた声が冷たく零れ落ちる。
「……だとしたラ、何だと言うのですカ?」
彼女は再び、手元の銀盤をいつでも投擲できるように引き戻し、消失した一枚の穴を埋めるようにして、残された六枚のヴェールを自らの身体の前面へとタイトに展開し直した。
「タネが割れたところデ、あなたの実力が私の測定値を超えることはありませン。私はあなたの放つ魔法の軌道ヲ、熱量のベクトルヲ、すべて0.001ミリも誤差のないの精度で認識していまス。たとえ使い捨ての防壁であろ切ろウと、あなたが私の計算の網の目を掻い潜リ、この肉体に爪先を届かせるルートハ……依然としテ、存在しませン」
言い放つ言葉は、変わらず傲慢で、冷酷。
しかし、エレクトリアの脳内の演算回路は、先ほどから激しい警告音を鳴らし続けていた。
ノクティアの攻撃は、明らかに先ほどから変質していた。
先ほどの、彼女の最大出力全方位攻撃――“玻璃の聖殉釘”を、エレクトリアが自らのすべての手札を噛み合わせて無傷で完全に防ぎ切った、あの瞬間。
計算上、ノクティアの心は完全に折れ、自らの圧倒的な格の差の前に膝を突き、降伏を受け入れるはずだった。
それなのに、一体何が、あの子をこれほどまでに狂暴に変質させたというのか。
エレクトリアの優秀すぎる脳は、その心理的な変数の正体を導き出せず、ただ未知のエラーメッセージだけを吐き出し続けていた。
「お喋りは終わりよ、エレクトリア。……ここからは、カノンに叩き込まれた、私の本当の戦い方を見せてあげる」
ノクティアの叫びと同時に、回廊の空気が爆発した。
彼女の身体が、大理石の床を蹴って肉薄してくる。だが、踏み込みを見た瞬間、エレクトリアの網膜は、強烈な不快感を覚えた。
(……歪です。あまりにも、戦術の合理性からかけ離れている……!)
ノクティアの動きは、先ほどまでの美しく直線的で、無駄のないそれとは完全に決別していた。
彼女の踏み出すステップは、あえて重心を不必要に斜めへと傾け、身体をクネクネと奇妙な角度へと歪ませる、まるで泥臭い酒場の喧嘩でも眺めているかのような、極めて非効率的で不規則なリズム。
レイピアの切っ先はあちこちへと不規則にぶれ、背中の硝子の翼から放たれる熱流の弾道は、物理的な最短ルートを無視して、壁や天井の不必要な座標へと乱反射を繰り返している。
――それは、いつか見た"不帰の姫"を思わせる。戦場の常識をあざ笑う、ある種の怪物の戦い方。
相手の予測の網の目に、あえて非効率的な振れを強引に叩き込むことで、システム全体の計算式を内側から完全に麻痺させる、泥臭い歴戦の戦闘術。
(右……いえ、上!? ――違う、左ッ!!)
エレクトリアは、眼前に迫りくる不規則な流動硝子の連撃に対して、初めてその足取りに、焦りが混ざる。
鋭い翼の爪先が、彼女の顔面の数センチ横を、超高熱の暴風を伴って通り過ぎていく。躱し、いなし、トレイを投擲して軌道を強引に切断し、残された六枚のヴェールを滑り込ませて魔力を霧散させ――。
防げない量ではない。彼女の計算能力であれば、この不規則な変数の羅列であっても、すべてを整理して処理することは可能だ。
だが、その処理のプロセスそのものが、エレクトリアの脳内資源を、先ほどの数倍の速度でガリガリと消費させていく。
コンマ数秒のズレ。相手の突きが、自分の計算した予測座標から、ほんの数ミリだけ外側の空間を"敢えて"通り過ぎていく。その不必要な軌道を計算し直すために、エレクトリアの完璧な方程式が、ドミノ倒しのように次々と書き換えを強要されていく。
(なぜ? なぜ、わざわざそんな無駄なステップを踏むのですか!? 攻撃の効率が下がっているのに、なぜ、私の防御のタイミングだけが、これほどまでに狂わされる……!?)
測量士の目が、ノクティアの不条理なステップの奥にある、真意を捉えようとした、その刹那。
「――そこよっ!!」
空間を切り裂く、ノクティアの確信の咆哮。
踏み出した右足の踵が、床の大理石を乱暴に削り取り、白い石粉の煙をエレクトリアの網膜へとダイレクトに吹き付けた。
ほんの一瞬の、視覚の遮断。
「しまッ――」
エレクトリアの計算に、今夜初めて、決定的な空白が生じた。
視界が遮られたそのコンマ数秒の闇の向こうから、エレクトリアの目を完全に置き去りにした速度で、ノクティアの右手のレイピアが、空間の死角を突くような変則的な弾道でその胸元へと突き出された。
迎撃するためのトレイは、今投げ放ったばかりで手元に戻る軌道の途中。
躱すための自らの軸足は、先ほどの不規則な連撃の処理のために、理想的な反転の座標から数センチメートル外側へとズレてしまっている。
間に合わない。
エレクトリアは、本能的な恐怖のままに、自らの周囲を回る残された六枚のヴェールのうち、最も近くにあった一枚を、軌道の計算もできずに、ただその弾道の前に強引に引き摺り下ろした。
――パリィィィィィィィンッッッ!!!
回廊に、ガラスのコップが床に叩きつけられて粉砕されたかのような、救いようのない鋭い破砕音が響き渡る。
ノクティアのレイピアの先端に宿る、根源の融解硝子の圧倒的な熱量の塊。それが、エレクトリアの滑り込ませたヴェールの中心へと、今度は横へと受け流されることなく、正面から激しく直撃したのだ。
ヴェールの限界を示す、不気味な亀裂の線が一瞬にして布の表面全体へと走り――。
直後、その二枚目のヴェールは、衝撃を吸い付くし、跡形もなく粉々に砕け散り、虚空へと消滅していった。
「くっ……!?」
直撃の余波に押され、エレクトリアの華奢な肉体は、大理石の床の上を無様に数メートルも後方へと滑らせていった。
彼女の周囲を回るヴェールは、今や、七枚あったはずのものが、五枚へとその数を減らしている。絶対防衛の神話に、誰の目にも明らかな、致命的なヒビが刻み込まれた瞬間だった。
「ほら……。これで残りは五枚。あなたの完璧な計算の世界の終わりまで、あと五回よ、エレクトリア」
煙の向こう側で、ノクティアは翼に宿る緋色の炎を、より一層激しく燃え上がらせながら、冷酷に、けれどどこか楽しげに、次の一手を組み立て始めていた。
エレクトリアの額からは、前世での惨劇の日ですら流したことのなかった、冷たい、焦りの汗が、大理石の床へと静かに滑り落ちていくのだった。
◆◇◆




