278話「綻ぶ計算式」-前
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白亜の回廊は、今や往時の静けさを思い出すこともできぬほどの熱に包まれていた。
視界を埋め尽くすのは、乱舞する半透明な七枚のヴェールが描く白銀の軌跡と、それを強引に焼き切らんと四方八方から押し寄せる、ドロドロと赤黒く焼け溶けた流動硝子。熱量はすでに限界値を超え、回廊の空気そのものが焦熱によって歪み、陽炎となって激しく波打っている。
その、一歩でも足を踏み外せば魂ごと消し炭にされる死地の中にありながら、エレクトリア――かつてフロリダの光の中で聡き優等生エレクシアとして生きていた少女は、未だに不気味なほどの平静をその銀色の双眸の奥に保ち続けていた。
彼女の脳内では、常に冷徹な演算式が超高速で駆動している。
目の前で焦熱の翼を激しく羽ばたかせ、狂暴な突進を繰り返しているノクティア・グラスベル。彼女の肉体、精神、そして物語の残量を、エレクトリアはミリ単位で正確に測量し、脳内のなバランスシートへと書き出していた。
(――問題はありませン。戦力バランスの均衡は、間もなく完全に崩壊するはずでス)
エレクトリアは、手元に戻ってきた銀のトレイの重みを確認しながら、内心の計算式にチェックを入れる。
ノクティアの宿す"シンデレラ"の魔法は、その大袈裟な視覚的効果に違わない、極めてエネルギー効率の悪い、致命的な欠陥を抱えている。
魔法を使えば、魔力を消耗するのは自明の理だ。
故に、教国の"姫"は、魔力を己の体内に留めてコントロールする術を身に着けている。
一例を挙げるのならば、セラエナ――彼女の魔法は"泥水を顕現し、操る"といったものだが、彼女が大水量を創造して戦うのは、格上を相手取った時だけだ。普段は水流を攻撃の軌道に乗せたり、水そのものを纏って戦う。
しかし、ノクティアは違う。硝子を装備したり、身に纏うことは稀だ。基本戦術は、創造した硝子による攻撃や、環境の掌握である。
となれば、硝子という物質を虚空から顕現させる彼女の魔法は、発動のたびに莫大な魔力を体外へと完全に放出してしまう。
一度放たれた硝子は、ノクティアの体内へ還元されることはない。つまり、戦えば戦うほど、彼女の魔力タンクには致命的な減算がかかり続けることになるのだ。
ましてや今のノクティアは、ただの硝子ではなく、試練の先で手にしたという"根源"の熱量を強引に引き出し、ドロドロに融解した焦熱の硝子翼を維持し続けている。
あれほどの超高熱を大気中で維持し、形状をコントロールするために失われる魔力の浪費量は、通常の硝子顕現の比ではない。指数関数的に膨れ上がるコスト。普通であれば、ほんの数分戦うだけで精神が枯渇し、全身に負荷がかかってその場に昏倒していてもおかしくはない、最悪の自傷にも近い戦い方だ。
(そう……ノクティア様の動きは、秒を追うごとに確実に鈍っていくはず。それが世界の物理法則であり、最高司教様から与えられた私の演算の絶対解なのですから)
対するエレクトリア自身の戦術は、ノクティアよりも何倍も燃費が良かった。
彼女は、己の体内から魔力をほとんど離さずに戦っていた。空間を舞う七枚のヴェールは、ノクティアの放つ硝子の弾道を最低限の角度で逸らすためだけに、ギリギリの軌道でコントロールされている。
さらに、手にした銀色のトレイは、強力な対魔法の切断能力を持ちながらも、投擲した後は必ずブーメランのように手元に戻るよう位置エネルギーの計算がなされており、何度でもノーコストで再利用ができる構造になっていた。
持続可能な絶対防衛の盾と、一瞬で枯渇する自傷の矛。
故に、どれほどノクティアが激情に身を任せて猛攻を仕掛けてこようとも、こちらの優位は絶対に動かない。時間が経てば、彼女は自らの熱によって勝手に自滅していく。
エレクトリアの脳髄はそう算定していた――。
――それなのに。
(……おかしい。何かが、私の計算式と決定的に噛み合わない……。私が、じわじわと、追い込まれている……!?)
飛来した巨大な硝子の翼による苛烈な一撃を、エレクトリアはヴェールを滑り込ませて真横へと受け流した。
キィィィィィンッ! と、魔力が霧散する甲高い残響が回廊に響き渡る。だが、その衝撃を処理したエレクトリアの指先には、先ほどまでにはなかった不快な重さが、ハッキリとした負荷となって伝わってきていた。
何かが狂っている。ノクティアの魔力残量は、エレクトリアの計算よりも遥かに多い。それどころか、彼女の放つ流動硝子の熱量は、時間が経つにつれて鈍るどころか、より不気味な、予測不能なうねりを伴って増大し続けているのだ。
エレクトリアが自らの完璧なはずの計算式に、初めて明確な疑問を抱いた、まさにその瞬間だった。
彼女の視界の端。
ノクティアの焦熱をいなし続けていた、彼女の肉体の周囲を優雅に旋回する七枚の半透明なヴェールのうち――明確に、一枚の布切れが、糸の切れた人形のように力なく、はらりと床へ向かって剥がれ落ちていった。
床に触れたヴェールは、拾い上げることも叶わず、サラサラと白い光の粒子となって虚空へと消滅していく。
「――やっぱり、そういうことだったのね」
硝煙の向こう側から、ノクティアがレイピアを低く構えたまま、確信に満ちた、冷徹な口調で言い放った。
「何ガ、ですカ……?」
エレクトリアは、手元に戻ってきた銀盤を胸の前で固定したまま、どこかに生じた計算の誤りを、未だ脳内で処理しきれずにいた。
「あなたのそのヴェール、どんな魔法でも触れるだけで無力化する無敵の盾なんかじゃないわ。……本当は、一定以上の熱量や魔力を吸い込んだら自動的に破裂して消えてしまう、ただの使い捨ての防壁なんじゃないの?」
ノクティアの双眸が、数歩離れた向こうからエレクトリアの虚実を鋭く射抜く。
「それを、あなたは持ち前の空間認識能力と測量の技量で、私の攻撃の、最も威力の弱いベクトルの先端にだけ、コンマ数秒のタイミングでヴェールを滑り込ませていた……」
そう、ヴェールそのものの耐久量はさほどではなくとも、触れさえすれば、魔力は拡散する。
「直撃を避けて、綺麗に横へと受け流すことで、ヴェールへのダメージを最小限に抑え……。まるで、一枚の盾を何度も無限に再利用しているように、私に見せかけていただけ」
ノクティアが一歩、前へと進み出る。
その背中から立ち上る流動硝子の炎が、白亜の壁に不気味な影を大きく落としていく。




