277話「不穏の流星」-前
セラエナは冷たい大理石の床に膝を突き、両手で自らの身体を辛うじて支えていた。
黒いレオタードは泥水と自らの血液で汚れ、かつて聖教国の処刑人として誇っていた凛とした佇まいは、そこには影も形も残されていない。
激しく上下する細い肩。肺を焦がすような過呼吸の合間に、彼女は自らの折れた鼻から溢れ出る痛みに耐えながら、目の前の現実を拒絶するように頭を振った。
セラエナは、間違いなく強者であった。
プレアデス聖教国という、世界で最も洗練され、かつ"姫"という存在に支配された特権的な環境。そこで施される最上級の戦闘訓練。
そして何よりも、彼女が元の世界――セレナ・フォンテインとして生きていた頃に、打ち込んでいたクラシックバレエの肉体技法。それらは、この異世界において、空間を優雅に踊りながら敵を圧殺する黒鳥の魔法として、完璧すぎる親和性を持って融和していた。
しなやかな肢体が生み出す不規則なステップと、空間を泥濘の海へと変え、自在に操る魔法。その二つの方程式を組み合わせることで、彼女は若い身空でありながら、教国でも有数の実力者としての地位を完全に不動のものにしていたのだ。
もちろん、その頭上には、最高司教の懐刀であるリラや、零落の聖女エレクトリアといった、圧倒的な格上たちが確かに君臨していた。けれど、セラエナにとって彼らの背中は、決して届かない絶望の距離ではなかった。
自分はまだ若い。物語の練度を高め、戦闘の経験を積んでいけば、いずれあの完璧なエレクトリアの背中ですら追い付き、追い越せるものだと、心のどこかで本気で信じていた。少なくとも、その道筋は無理のないものであったはずだ。
しかし――。
(――駄目だ。この人には、逆立ちしたって、勝てる気がしない……!)
セラエナの胸の内に残されていたすべてのプライドは、今や、底なしの昏いインクによって完璧に塗り潰されていた。
――怯懦。
完全に、心が折れてしまっていた。それは、彼女が誇る最大威力の魔法を傷一つなく防ぎ切られた、その現実を突きつけられた瞬間かもしれない。
あるいは、もっと前――この怪物の魔力すら込められていない、ただの生身の裏拳によって、自らの端正な鼻骨を容易く叩き割られたあの瞬間に、彼女の魂の城壁はすでに音を立てて瓦解していたのだ。
身体が、恐怖のあまり、硬直して立ち上がることができない。
そんな、泥濘の底で無様に震えるだけの白鳥の眼前に、コツン、と軽い音を立てて、緑のきらめきを帯びた"銀の靴"の踵が静かに下ろされた。
「あ? なんだよ、もう降参かよ。……興醒めだなぁ、おい」
上空から見下ろすカノンの声は、心底つまらなそうに歪んでいた。
彼女は全身に纏っていたエメラルド色の魔力を霧散させると、腰に両手を当てて、大袈裟にため息を吐いてみせた。そんな強者の余裕を前にして、セラエナは屈辱に唇を噛み締めながら、血の混じった唾を吐き出し、掠れた声で問いかけた。
「……あなた、どうやって……そこまでの、不条理な力を手に入れたのですか。百年前からこの世界で生き抜いているとて、今のあなたの動きは、私たちとは明らかに違いすぎる……!」
「あはは、何それ! インタビュー的なやつ?」
カノンはいつもの軽薄な笑みを顔に貼り戻すと、自らの人指し指を頬に当てて、わざとらしく小首を傾げてみせた。
「才能だよ、サ・イ・ノ・ウ。このカノンちゃんの実力ってやつはさぁ、あんたたちみたいな温室育ちの凡人様には、逆立ちしたって理解できない領域にあるので〜す! クソゲーの仕様を愚直に守ってる奴が、バグ技の塊に勝てるわけないじゃん?」
おどけた口調。ふざけきった態度。
しかし、セラエナの顔は、その軽薄な言葉のカーテンの裏側を覗き込もうとするかのように、厳しく、鋭い緊張を崩さなかった。
(――この人。いつもこうして、ふざけたピエロの仮面を被って周囲を煙に巻いているけれど。……本当は、私たちが考えているよりも、遥かに恐ろしい化け物なのではないですか……?)
セラエナの眼力は、カノンという存在の、真の歪みを正確に捉え始めていた。
カノンは、ヴァルゴ王国の夜戦において、新興の硝子の姫であるノクティア・グラスベルに敗北し、その配下として動くことになっていると、教国の情報網には記録されていた。
カリオペもまた、その前提の上でカノンを、敗北してもなお油断のならない強者としてマークしていたはずだ。
だが。今、自らの肉体を以てその暴力を体験したセラエナには、彼女の敗北という情報が、あまりにも不自然な欺瞞の塊にしか見えなかった。
「……ひとつ、お聞きしたいことがあります」
セラエナは、自らの鼻を押さえる右手にじわりと力を込めながら、カノンの瞳を真っ直ぐに見据えた。
「あなた、あの子――ノクティア・グラスベルに負けたと聞きましたが……。それは本当に、真実の敗北だったのですか?」
その問いが回廊の空気に放たれた瞬間。
今までニヤニヤとしたふざけた笑みを浮かべていたカノンの顔から、一切の感情の揺らぎが、まるで消しゴムで消されたかのように一瞬で消失した。
昏い双眸が、氷のような冷徹な光を帯びて細められる。カノンは、ゆっくりと自らの腰から手を下ろした。
「……へえ、どうしてそう思うの?」
低く、地を這うような声音。
けれど、セラエナは恐怖で喉を鳴らしながらも、自らの導き出した結論を、震える唇から紡ぎ続けた。
「だって、おかしいではありませんか。あなたの真の実力は、恐らくですが……このプレアデス聖教国の全戦力をもってしても、ほとんど比肩する者がいないほどに圧倒的に高い。あの、エレクトリア様やリラ様であっても、あなたを完全に圧殺することなど不可能に近い。それほどの実力者が、あの経験の浅い、覚醒したばかりのグラスベルの姫に、まともに戦って遅れをとるなど……絶対にあり得ない」




