276話「強者と狭窄」
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かつて、その魂がプレアデス聖教国の冷徹な処刑人、セラエナ・レイク=オーディットという器に鋳込められるよりも遥か昔。
彼女は、ただそこにいるだけで世界から無条件に祝福される、どこにでもいる平凡で幸福な少女であった。
元の世界での彼女の名前は、セレナ・フォンテイン。
霧の都と謳われるイギリスの、穏やかで治安の良い中流階級の家庭に生まれ、何一つとして不自由のない、絵に描いたような満ち足りた日常を過ごしていた。
"シンデレラ"と成り果てたこはるのように、将来を見出すのに苦心し、すり切れた靴底すら気にするような、凍えるような貧困とは無縁の人生だった。
あるいは、"赤ずきん"の物語に狂ってしまった、ララ・ワグナーのように、世界の理不尽な悪意や暴力にその身を晒されたこともない。
麻薬や暴力が日常茶飯事の悪い友人が近づいてくる気配を察すれば、両親が用意してくれた安全な防壁の内側へ、いつでも容易に逃げ込むことができた。彼女はただ、手入れされた芝生と温かな紅茶の香りに囲まれて、安穏とした時間の流れの中で、何の手落ちもなく育っていたのだ。
それは、エレクシアのように、世界の構造そのものを疑い、神の不在に絶望して冷笑を浮かべるような、そんな魂の真空とも無縁の生き方であった。
セレナという少女は、世界の不整合に気づかない程度には聡明であり、同時に、与えられた平穏をそのまま素直に享受して疑わない程度には、幸福に愚かであったのだ。
世界は美しく、自分は愛されている。そのことに何の留保も必要としない、温室の中の綺麗な花。
そんなある日、自宅の静かな書斎で、父親が心配そうに彼女に尋ねたことがあった。
「……なあ、本当にいいのかい、セレナ? せっかく、ロンドンの名門校に入学が決まっていたというのに。あそこを卒業すれば、お前の将来は約束されたようなものなんだよ」
「うん、いいの。お父さん、怒らないで聞いてね。だって――ずっと憧れていた、あの日本に行けるチャンスなんだもの……!」
セレナは、はにかむように笑いながら、けれどその瞳に少女特有の眩いばかりの情熱を宿して答えていた。
きっかけは、学校の友人から何気なく借りた、日本の漫画だった。そこに描かれていた極彩色の世界、劇的でありながらも、どこか親近感を覚える熱い物語に、彼女はずぶずぶと、底なしの沼にはまるようにして魅了されていった。
気がつけば、自らの部屋の壁は東洋のポスターで埋め尽くされ、異国の文化、異国の街並みへ行ってみたいという切実な願いが、彼女の小さな胸をいっぱいに満たすようになっていたのだ。
そんな折、彼女の元に、日本の有名な大学から留学生としての特別推薦状が届く。それは彼女にとって、まさに望むべくもない奇跡の切符であった。
(日本に行ける――ようやく、やっと、私の大好きな物語の世界へ足を踏み入れられるんだ……!)
彼女は、まだ見ぬ未来に、子供のように無邪気に心を躍らせていた。新しい教科書、新しい友人、新しい言葉。そのすべてが、自分をさらに輝かせるためのステージになるはずだと、一点の曇りもない幸福を信じて疑わなかった。
――それが、彼女を乗せた旅客機が太平洋の上空で原因不明の航空機事故に巻き込まれ、その若い命を呆気なく落とすことになる、ほんの数ヶ月前の話であった。
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――ハァ、――ハァ、――ハァ、と。
大聖堂の外周を支配する、どろどろとした深い藍色の闇。
その冷え切った大気の中で、セラエナ・レイク=オーディットは、自らの細い両肩を激しく上下させながら、狂ったように荒い息を吐き出していた。
彼女の黒いレオタードは、自らが引き摺り出した膨大な泥水によってぐっしょりと濡れそぼり、その鉄面皮の顔の中心、先ほどのカノンの裏拳によって叩き割られた鼻からの鮮血が、顎を伝って床へとポタポタと絶え間なく滴り落ちていた。
肉体の疲労は、すでに限界を告げている。
けれど、その痛みや疲労を遥かに上回る、強い達成感が、彼女の胸の内には湧き上がっていた。
彼女が"オデット"の物語のすべてを懸けて解き放った、最大威力の広域破滅魔法。大聖堂の外周全体を飲み込み、世界を漆黒の湖の底へと引きずり込んだあの泥濘の大津波は、今やその物理的な役目を終え、周囲の冷気に当てられて一面の白い濃霧へと姿を変えていた。
視界を完全に遮る、前が見えないほどの深い霧。
しかし、セラエナの目は、そのただ中にあっても、自らの放った暴力の凄まじい爪痕を、確かに捉えていた。
先ほどまで相手が立っていたはずの頑丈な地面は、水圧と泥の摩擦によって直径数十メートルにわたって、まるで隕石でも衝突したかのように深く、無残に抉り取られている。石柱は根元からへし折れ、周囲の空間には、生命の駆動する気配など、ただの一分も残されてはいなかった。
(……終わった。これほどの質量、これほどの魔力の直撃を受けて、まともに立っていられる生物など、この世界どこを探しても存在しない……!)
いくら音に聞こえる"不帰の姫"と言えど、圧殺は免れない。
セラエナは、自らの勝利を確信し、歪んだ唇の端から安堵の溜息を漏らそうとした。カリオペを脅かす最大の懸念材料を、自分のこの黒い爪先が完璧に処理したのだという優越感。
――だが。
その聖女の驕りを、地獄の底から響くかのような不吉な声が、容赦なく、完璧に叩き潰した。
「――おいおい。今のは、なかなか良かったぜぇ、バレリーナちゃんよぉ」
「――っ!?」
セラエナの全身の毛穴が、一瞬にして恐怖の冷気によって完全に開ききった。
戦慄に凍りつくセラエナの、大きく見開かれた視線の先。
深い濃霧のカーテンを内側から引き裂くようにして、何かが、ガサリ、と不気味な音を立てて立ち上がった。
それは、周囲を渦巻いていた漆黒の泥水の魔圧の中に合っても、ほんの僅かな歪み――どころか、掠り傷すら負うことのなかった、あまりにも巨大で、あまりにも冷酷な"ブリキの鎧"であった。
その、怪物のような巨像の表面が、内側からカチリ、と機械的な音を立てて割れる。
銀色の装甲は、まるで役割を終えたかのようにサラサラと解け、エメラルド色の魔力の束へと還りながら、夜の空気の中に溶けて消えていく。そして、その消え去りゆく魔力の粒子の中から、何事もなかったかのように、悠々と足を踏み出して歩み出てきたのは――。
「やればできるじゃん、お前ったら。最初っから本気出せっての、な?」
――瞳を爛々と輝かせた、カノンの姿だった。
無傷。
ただの、かすり傷ひとつ、ない。
彼女の衣服には、先ほどセラエナが命懸けで叩き込んだはずの、あの漆黒の泥水の汚れすら残されてはいなかった。まるで、セラエナの渾身の一撃など無かったかのように、カノンは平然と、そこに立っていた。
「あはは! いやー、ただの名前付きのザコだったら、どうやって時間を潰そうかと思ってたんだけどさぁ……。あんた、今の技はちょっとだけ骨があったじゃん。もうちっとだけ、このクソゲーを楽しめそうじゃねえの」
カノンは自らの首を左右にゴキゴキと鳴らしながら、その歪に吊り上がった唇の端から、悪魔のような不敵な笑みを溢れさせた。
「さあ、お遊びの時間は終わりだ。……もう一回しようぜ、教国の可愛いヒヨッコちゃん。お姉さんが直々に、ゲームオーバーまで付き合ってやるよッ!!」
深い霧の向こうで、圧倒的な怪物の影が大きく膨れ上がっていく。
セラエナは自らのシューズの先が、恐怖のあまりカタカタと情けなく震え始めるのを、もはや自らの意志では、ただの一分も止めることができなくなっていた。




