275話「次はまだか?」
「――おい、次はまだか?」
その声音には、先ほどまでセラエナの猛攻を受けていた戦士としての緊迫感など、欠片ほども存在していなかった。あるのは、深夜のテレビ番組の再放送でも眺めているかのような、剥き出しの"退屈"だけだ。
「……え?」
セラエナは、その場にトゥーシューズの爪先を突き立てた姿勢のまま、一瞬だけ思考のプロットをフリーズさせた。
固まる彼女を前に、カノンは自らの衣服に付着した泥水の滴を、面倒くさそうに指先で弾き飛ばしながら、さらに言葉を続けた。
「だから、次だよ次。おねーさん、わざわざここまで付き合ってやってんの。まさかその汚ねえ泥水を四方八方にばらまくのが、お前の持ってる魔法のすべてってわけじゃないだろ? そろそろ次のステップを見せてくれってのさぁ」
その傲慢極まる言葉に、セラエナは怪訝そうにその美しい眉を寄せ、切れ長の瞳に怒りの熱を宿らせた。
(――底の浅い戯言を。私のオデットの猛攻を前にして、防戦一方だったのはどこの誰ですか……!)
セラエナの胸の内で、プライドの城壁がメリメリと不快な音を立てて軋み始める。
カノンは確かに先ほどまで、自分の放つ連続の回し蹴りや足元からの水柱に対して、まともな反撃すら行えずにただ避けるか、膝を立てて耐えることしかできていなかったはずだ。現に、先ほどの飛び蹴りでは、彼女の"銀の靴"は、完全にこちらの推力の前に圧倒されていた。
それなのに、あの立ち姿は何だ。
カノンは肩の力を完全に抜き、まるであらかじめ攻撃の軌道をすべて知っていたかのような、自然な佇まいでそこに立っていた。防戦一方だったのではない。彼女はただ、セラエナの攻撃を待っていただけなのだという最悪の仮説が、聖女の脳裏を一瞬だけ過る。
だが、セラエナはその不吉な予感を、己の優位性への過信によって、強引に思考の隅へと追いやった。
「虚張声勢。……ただの強がりなど、私の湖の底へ沈めて差し上げます!」
再び、黒いレオタードを纏ったセラエナの肉体が、弾丸の如き速度で駆けた。
今度は先ほどよりも低い弾道。彼女の動きを完全に追従するように、漆黒の泥を孕んだ凄まじい大水流が、夜の帳を切り裂きながら龍の輪郭を描いて空を駆け抜ける。カノンの退路を三次元的に完全に封鎖し、その肉体を今度こそ一滴の細胞すら残さずに圧殺するための死の舞踏。
だが、その眼前に迫る大質量の破壊の波を前にしても、カノンの瞳は、ただ冷ややかにセラエナの軌道を捉えているだけだった。
「――だから、それはもういいっての」
カノンが、一歩だけ、前へ足を踏み出した。
それは魔力を練り上げる予備動作すら伴わない、只人の、それも極限まで無駄を削ぎ落とされた一歩。
――がこんっ!!!
大聖堂の外周全体に、まるで中世の城壁を粉々に打ち砕くための攻城兵器が放たれたかのような、重苦しく、救いようのない破砕音が響き渡った。
「……えっ、が――!?」
セラエナの視界が、一瞬にして上下左右を完全に喪失して反転した。
何が起きたのか、激しく揺らされた彼女の脳では、一瞬の間すら理解が追いつかなかった。
目にも留まらぬ速度、という生温い表現すら生温い。カノンは、セラエナが放った水流のわずかな隙間を歩法ですり抜け、超至近距離に潜り込んでいたのだ。
そして、カノンが放ったのは、魔法など込められていない、ただの純粋な筋肉の収縮と位置エネルギーの移動によって生み出された――無造作な裏拳だった。
その一撃が、最高速度で突進していたセラエナの顔面の中心へと、完璧なカウンターのタイミングで、強かに、容赦なく打ち据えられたのだ。
ドサササササササッ!!!
セラエナのしなやかな肉体は、大理石の床の上を、まるで水面を跳ねる石ころのように何度も激しくバウンドしながら、後方へと派手に吹き飛ばされていった。教国最高の処刑人の一人としての美しい姿勢など、そこには欠片も残されていない。
彼女は数本の石柱に激突しそうになりながら、無様に床を転がり、ようやく数十メートル先で自らのトゥーシューズの先を床に突き立てて、強制的に停止させた。
「なっ……ゲホッ……一体、何を――!?」
セラエナは、信じられないという思いのまま、大きく目を丸くして目の前の怪物を凝視した。
自らの端正だった鉄面皮の顔の中心。そこからは、かつてないほどの激痛と共に、赤黒い鮮血がダラダラと、汚らしくレオタードの胸元へと流れ落ちていた。鼻骨がひび割れた感覚。
「おーい、四字熟語キャラ忘れてんぞ、バレリーナちゃん」
カノンは、自らの衣服の袖をパッパッと払いながら、心底つまらなそうに首を傾げた。
「もうその泥水ばらまくのは、見てるこっちがうぜえだけだからさぁ。他の技持ってねえの? ほーかーのーわーざ。あんたのその可愛いダンスレッスン、もう三回も見たらお腹いっぱいになっちゃうんだよねぇ」
「――っ、この……! 舐めないでください……ッ!!!」
セラエナの頭蓋の内側が、憤りで埋め尽くされる。
鼻血で顔を汚したその姿は、もはや清廉な教国の聖女などではなく、おのれのプライドを徹底的に蹂躙された、ただの狂暴な手負いの獣のそれだった。
カリオペが、なぜこの女をこれほどまでに最大級の脅威として警戒していたのか。その本当の理由が、自らの顔面に刻まれた激痛を媒介にして、ようやくセラエナにも理解され始めていた。
カノン・ドロテア=エメラルダという"姫"の脅威は、その魔法ではない。経験に裏打ちされた、そして、何よりその卓越したセンスから来る――圧倒的な戦闘力だ。
(ならば、総身の死力を以て殱滅するのみ……! あなたのその、底の知れない力ごと、この聖域の泥の中に埋めて差し上げます……!)
セラエナは、自らの内に眠る魔力を、限界を超えて一気に出力した。
彼女の全身の筋繊維が、漆黒の魔力の奔流によってミシミシと音を立てて膨張していく。周囲の大気が、これまでにない桁違いの濃密な死臭と、どろどろとした澱んだ泥の匂いによって完全に支配されていく。
ゴバァァァァァァァァァッッッ!!!
彼女の足元から吹き出した大量の泥水は、もはや水柱や水流といった生温い形状を維持することすらやめていた。それは、大聖堂の外周の広大な回廊全体を、ひとつの巨大な"黒い湖"へと上書きするかのように、あらゆる座標を飲み込みながら、天井に届くほどの巨大な漆黒の津波となって、せり上がっていったのだ。
「私は"オデット"! “泥に塗れた湖の白鳥”、セラエナ・レイク=オーディット! ――鎧袖一触ッ!! この私の、最大威力の魔法の底で、その傲慢な物語ごと、跡形もなく叩き潰してさしあげますッ!!!」
セラエナの魂の咆哮と共に、天を衝くほどの黒い泥濘の津波が、一斉にカノンの立つ座標へと向かって、世界のすべてを押し潰すような質量で崩れ落ちた。
大理石の列柱が次々と水圧によって圧殺され、白亜の都の平穏が、完全に漆黒の湖の底へと沈み込んでいく。
その、視界のすべてを埋め尽くす滅びの渦中にあっても。
カノンは、迫りくる黒い大津波をただ正面から見つめながら、その唇の両端を、やはり不敵に、歪に吊り上げたままだった。
「あははっ! そうそう、それでこそ強敵らしくていいじゃん! ――それじゃあ、第二形態、始めようや」
彼女がそう呟いた次の瞬間。
すべてを掻き消す漆黒の水流が、カノンの銀の靴の輝きを、荒々しく呑み込んでいった。
◆◇◆




