274話「泥水の舞踏」
◆◇◆
大聖堂の外周を包む夕闇は、今や完全に深藍の帳へと溶け落ちていた。
紫がかった月光が白亜の列柱に冷たい影を落とす中、その静寂を引き裂くようにして、硬質で狂暴な肉体の衝突音が大気を激しく震わせ続けていた。
黒いレオタードに身を包んだセラエナの身体が、重力を無視した速度で虚空へと舞い上がる。彼女の軸足となったトゥーシューズの先端からは、大理石の床を腐食させるような、ドロドロとした黒く濁った"泥水"が奔流となって湧き出していた。
空中での鮮やかな反転。そこから放たれたセラエナの凄まじいハイキックは、彼女の内に宿る"オデット"の物語を帯びており、周囲の泥水を巻き込みながら、あらゆるものを圧殺する巨大な黒い水流の塊となってカノンへと襲いかかった。
直撃すれば、只の肉体など一瞬で内部から破裂し、骨ごと粉砕されるであろう水量の暴力。
しかし、対するカノンは、その狂暴な水圧が自らの前髪を激しく揺らしたまさにその刹那、足元の"銀の靴"をギラリと不気味に明滅させた。
――フッ。
カノンの身体が、まるで空間の座標を直接書き換えたかのように、真横へとブレる。
セラエナの放った泥水の大質量は、カノンの服の裾を僅かに濡らしただけで、背後の壁へと直撃し、ドォォォン! と激しい轟音を立てて爆散した。
だが、セラエナはその空振りを、最初からプロットの内に組み込んでいた。
飛び散る泥水と黒い霧。視界を完全に遮る目隠しのただ中を突き抜けるようにして、彼女は間髪入れずに二の矢――流れるような動作からの、必殺の連続回し蹴りをカノンの喉元へと叩き込む。
――しかし。
カノンは、その目隠しの霧の向こうから迫る爪先を、まるですべてが見えているかのように、上半身を僅か数センチメートルだけ斜め後ろへと捩ることで、再びひらりと躱してみせた。彼女の頬のすぐ横を、セラエナの鋭利なシューズの先端が空を裂いて通り過ぎていく。
「――っ! まだ終わっていませんッ!!」
セラエナの切れ長の瞳が冷酷に光る。
カノンが避けたその着地座標、彼女の足元の床から、まるで大地の顎が裂けたかのように、不気味な黒い水柱が同時に四本、爆発的な速度で立ち上がった。四方からの完全な挟撃。退路を断たれたカノンの身体が、黒い水流の檻の中に閉じ込められようとしていた。
ドゴォォォォンッ!!!
四本の水柱が中央で激しく噛み合い、大聖堂の外壁を激しく濡らす。
並の戦士であれば、この全方位からの水圧の摩擦によって肉を削ぎ落とされ、溺死を余儀なくされていた。だが、その漆黒の水流の檻の内側から、世界を強引に引き裂くような銀色の閃光が、一閃、鋭く迸った。
「――!!」
爆音と共に放たれたのは、カノンの大振りな、けれど圧倒的な速度を誇る回し蹴りだった。
彼女の右足に宿る銀の靴が、夕闇の夜空を力強く切り裂く三日月のような閃光の軌跡を描く。その物理的な衝撃波と魔圧の前に、カノンを押し潰そうとしていた巨大な黒い水柱は、一瞬で真っ二つに切り払われ、ただの無害な水飛沫となって周囲へと盛大に飛び散っていった。
ザーーッ、と豪雨のような水滴が周囲の床を叩く。
その、視界を埋め尽くす白い水飛沫のカーテンを突き抜ける一筋の槍のように、セラエナは矢の如き、鋭い超高速の飛び蹴りでカノンの胸元へと肉薄した。全体重と、全身の魔力をすべて一点に集中させた、渾身の一撃。
カノンは、その突進を躱すだけの猶予がないと判断するや否や、即座に自らの右膝を高く突き立てる防御の姿勢を取った。
――ガギィィィィィィィンッッッ!!!
金属同士が正面から激突したかのような、悍ましい打撃音が回廊に響き渡る。
セラエナの黒いトゥーシューズと、カノンの膝が完全に噛み合う。凄まじい衝撃波が二人の足元から広がり、カノンの身体は正面からの圧倒的な推力を受け、白亜の床の上を後方へと数十メートルも押し込まれる。
カノンの銀の靴の踵が、大理石の表面をガリガリ、ガリガリと不快な音を立てて深く削り取り、白い石粉の煙を派手に立ち上らせていく。
「――笑止千万ッ!!」
カノンを力任せに押し込みながら、セラエナはヴェールのないその鉄面皮の顔に、明確な侮蔑の色彩を浮かべて言い放った。
「音に聞こえた、"不帰の姫"の実力が、この程度ですか!」
「……」
しかし、それに対するカノンからの返答は、不気味なほどの沈黙だった。
カノンは、言葉を返すことも、先ほどののように下品に笑い飛ばすこともしなかった。彼女はただ、自らの膝で弾いたセラエナの足先をじっと見つめ、そこからゆっくりと視線を上げて、セラエナの冷徹な顔を、無感情な双眸で真っ直ぐに見つめ返していた。
(――余裕ぶってるつもりですか。それとも、声も出ないほどに追い詰められているのですか……!?)
セラエナの胸の内に、僅かな苛立ちが沸き起こる。
熾烈を極める自らの連続攻撃を前にしても、カノンの表情はピクリとも動かなかった。
戦いが始まる前は、あれほど軽薄に、煽るような言葉をマシンガンのように並べ立てていたというのに、いざ拳を交え、戦火が本格化してみれば、彼女はただ黙々と、機械のようにセラエナの攻撃を最低限の動作でさばき続けているだけだった。
手応えがないわけではない。現に、今の飛び蹴りで彼女を大きく後退させることに成功している。
けれど、カノンのその徹底した沈黙の佇まいは、セラエナの心の中に、逆に奇妙な違和感の澱みを残していた。
(――ふん、口ほどにもない。……どうやら、ここまで警戒する必要すら無かったようですね)
セラエナは一度バックステップを踏んで距離を取り、着地と同時に自らの思考のシートを冷徹に整理し、心の中でそう、明確な結論を下した。
――最高司教カリオペが、ヴァルゴ特使団の滞在において、最もその動向を警戒し、恐れていた存在。
それこそが、ヴァルゴ王国の若き硝子の姫などではなく、百年前から暴虐の"姫"として名を馳せた、この歴戦の化け物だった。
彼女の背負う“ドロシー”の逸話は、世界の整合性を内側から強引に書き換える不条理の塊。
もしもその牙が、教国の隠された秘儀へと向けられたなら、最悪の場合、プレアデス聖教国は力任せに解体され、二度と癒えぬ致命的な傷を負わされる可能性すらあったのだ。
だからこそ、カリオペは他の誰でもない、このセラエナに対して、カノンの監視を最優先命令として要求したのだった。
純粋な近接戦闘能力、そして魔法の実力において、教国内でもあの"零落の聖女"に次ぐ、カリオペの手持ちの中でも有数な強力な駒。それを、カノンのすぐ側へと配置した。
すべては、この伝説の姫の暴走を、あらかじめ未然に圧殺するための方策。
しかし、蓋を開けてみれば、盤面の状況はどうだろう。
セラエナは、自らのレオタードに付着した水滴を優雅に払いながら、再び戦闘の構えを取った。
彼女の背後に渦巻く黒い泥水は、夜の冷気に当てられて、より一層その硬度と質量を増している。
(――今、確信いたしました。この女には、カリオペ様が懸念されるほどの脅威など、最初からただの一分も存在しない!)
確かに、カノンの身体能力や、あの銀の靴がもたらす推進力は、並の戦士の領域を遥かに超越している。
けれど、そこに宿る戦術は、驚くほどに直線的で、かつて最高司教を震え上がらせたという悪魔のような不条理さの欠片も見当たらない。ただ、こちらの放つ攻撃を前にして、防戦一方になり、体力を削られ、声を出す余裕すら失って沈黙しているだけの過去の遺物だ。
伝説という名の、色褪せた老兵。それが、セラエナがこの数分間の死闘の果てに、カノンに対して導き出した最終的な解答だった。
「――一網打尽。カノン・ドロテア=エメラルダ、あなたの物語は、この白亜の都の夜を超えることはありません」
セラエナはトゥーシューズの先で、冷酷な死のステップを再び刻む。
彼女の内に眠る白鳥の呪いが、防戦一方のドロシーを完全に仕留めるため、その漆黒の翼を最大まで広げようとしていた。
だが、勝利を確信した聖女の視線の先。
ゆっくりと、カノンが顔を上げる――。




