273話「貴賎なき物語」
――パリン。
私の足元で、完全に凍りつき、すべての摩擦を奪い去っていたはずの硝子の床が、内側から乾いた音を立てて剥がれ落ち、再び白亜の大理石が、その冷酷な姿を現していく。
私の宿す魔力が、エレクトリアの放つ圧倒的なプレッシャーの前に、文字通り萎縮を始めていた。
(――駄目だ、強すぎる。やっぱり、エレクトリアの力は、別格だ……!)
レイピアを握る私の右手が、情けなく微かに震えていた。
全身を支配するのは、疲労を遥かに通り越した、魂の芯が凍りつくような圧倒的な恐怖。
奥の手だった。私の"根源"の出力を限界まで注ぎ込んだ、"玻璃の聖殉釘"は、今の私にできる文字通りの必殺技だった。それを、足元の自由すら奪った極限の状況で叩き込んだというのに、彼女はそのすべてを無に帰してみせたのだ。
勝てない。この女には、どのような戦術を組み立てようとも、私の硝子は届かない。
修行の夜に突きつけられていた圧倒的な実力差が、本物の死闘という名の舞台の上で、より一層巨大な絶望の城壁となって私の前にそびえ立っていた。思わず一歩、後ろへと退がろうとする私の両足を、目に見えない恐怖の重力が床へと縫い付ける。
「……これデ、ようやくわかっていただけたでしょうカ、ノクティア様」
粉々に砕け散った硝子の煙の向こう側から、エレクトリアは一切の乱れのない優雅な足取りで、私との距離を詰めてくる。彼女の周囲を回る七枚のヴェールが、夜の闇の中で怪しくきらめいていた。
「この身に宿ル、預言者の首を求めた“ヘロディアの娘”の力ト、あなたが縋る“シンデレラ”の物語とでハ……最初かラ、"格"そのものが違うのでス。奇跡を願うだけの美しいお伽噺でハ、血の対価を以て世界を踊らせた私の断絶には決して及ばなイ」
エレクトリアは私の目の前でピタリと足を止めると、手にした銀のトレイを静かに下げ、空いた自らの左手を、そっと私に向けて差し出してきた。
白く、細く、一点の汚れもない聖女の手。
「……何の、つもり?」
私はレイピアの刃を辛うじて彼女に向けたまま、掠れた声で問い返した。
「降伏してくださイ、ノクティア様。これ以上の戦闘ハ、ただの無駄な資源の浪費でス」
エレクトリアの銀色の双眸が、淡々と私を見つめる。
「私に及ばないまでモ、あなたの魔法の完成度は、決して低くはありませン。あなたはたった二日間デ、ここまで己の"根源"を制御できるようになっタ……。その価値ヲ、私は高く評価していまス。だからこソ、ここであなたを完全に破壊してしまうのハ、あまりにも勿体なイ」
降伏。
彼女の口から告げられたその二文字が、絶望に暮れていた私の胸の奥に、甘く、恐ろしい誘惑となって染み込んできた。
――ほんの僅かに、心が揺れる。
エレクトリアとの力の差は歴然だ。このまま抗い続けたとしても、勝てる確率など 0% に等しい。下手をすれば、本当に彼女の言う通り、ここで私の物語を完全に終わらされてしまう。私が死んでしまえば、シャウルを救うことなど、それこそ永遠にできなくなってしまうのだ。
(……よく考えなさい、私)
私の脳みそは必死に、自らを納得させるための都合の良い材料を集め始める。
カリオペは、シャウルのことをひどく気に入っている様子だった。あの張り付いたような慈愛の笑みの裏にどんな打算があろうとも、シャウルはカリオペから、嘘の匂いを嗅ぎ取っていない。
大した用事ではないのならこれほどの騒ぎにはしないはずだが、少なくとも、彼女がシャウルをすぐに殺すような理不尽な真似をするとは考えにくい。
であれば。私がここで無駄に命を散らすよりも、一度エレクトリアの差し出した手を取り、大人しく降伏を受け入れた方が、遥かに合理的なのではないか。
教国の懐に深く潜り込み、賓客としての立場を維持しながら隙を窺えば、いずれシャウルの元へと安全に辿り着くルートが見つかるかもしれない。
(……そう、ね。私の“根源”の力を使っても、彼女のヴェールには指一本触れることすらできなかった。私の、“シンデレラ”の魔法じゃ、エレクトリアには、最初から及ばないのだから――)
レイピアを握る指先から、じわりと力が抜け、硝子の刃が僅かに下を向く。
――その、私の魂が完全に不条理の前に屈服しかけた、まさにその瞬間だった。
『だーかーら、お前。こないだあたしが教えたこと、三歩歩いて忘れちまったのか?』
私の脳髄の最深部を、あまりにも場違いで、あまりにも狂暴な少女の声が爆音となって突き抜けた。
カノン・ドロテア=エメラルダ。
いつだって不敵に笑い、世界をただの遊戯盤だとあざ笑う、あの"不帰の姫"。
白亜の廊下を共に歩きながら、彼女は確かに口にしたのだ。
『いいか、"姫"の力に貴賤はねえんだよ。あいつらがどんなに威張ってようが、プレアデスの歴史がどれだけ古かろうが、あいつらに宿ってる"物語"の影響力と、お前に宿ってるそれの価値に、上下なんてねえんだよ』
カノンの言葉が、私の妥協に塗れた思考の泥沼を、一瞬にして完璧に焼き尽くしていく。
(……つまり。私とエレクトリアの物語には格の違いなんてない。ただ、経験の差があるだけ……!)
彼女はプレアデスという宗教国家の裏側で、自らの魔法を編み上げてきた。その圧倒的な経験が、私とは比べ物にならないほどに積み上がっている。
差があるとするならば、ただその一点だけだ。私の“シンデレラ”という物語が、彼女に劣っている理由など、この世のどこを探しても存在しない。
ならば、と私は考える。
もしも、あの圧倒的な経験を誇る“姫”――カノンなら、エレクトリアを前にした時、一体どのようにして戦い、どのようにしてその牙城を食い破るだろうか?
思考のベクトルが、180度反転する。
完璧な計算に対して、完璧な計算で返そうとするから、私はエレクトリアの測量値を超えることができないのだ。カノンなら、そんな数式など、最初の秒でクソ喰らえと吐き捨てるはずだ。
そう考えた私の脳裏に、ある景色が鮮烈なフラッシュバックとなって蘇ってきた。
数日前、教国が私たちのために開いた、あの欺瞞に満ちた晩餐会の余興。
プレアデスが誇る、最高峰の武装を施された屈強な聖教騎士たちをカノンが蹂躙した、あの時の戦い。
あの時の戦い方には、どこか違和感があった。攻撃を防ぐのに"ブリキの木こり"を使わず、間合いを詰めるのに"銀の靴"を使わず――それこそ、まるで縛りプレイでもしているかのように。
『――いいかい、おねーさんを、よく見てな』
(あの時……カノンは、ただ遊んでいたわけじゃない。彼女は、私の目の前で、あの戦いを通じて私に何かを、学ばせようとしていたはずだ……!)
エレクトリアは、私の放つ魔法を完全に測量している。
ならば、その行為そのものを、根底から無意味にするための戦い方が、私の"シンデレラ"の物語の中――あるいは、私の"根源"のどこかに、確かに眠っているはずだ。
「……ノクティア様?」
エレクトリアが、差し伸べた左手をそのままに、怪訝そうに眉をひそめた。
私の下を向いていたレイピアの先が、再び、彼女の喉元へと真っ直ぐに跳ね上がる。
(――だと、するのなら。私の、ここからの本当の戦い方は……!)
鋭く振り抜かれた刃が、夜の闇を妖しく射抜く。
法則の檻を内側から食い破るための、私だけの回答。その確信めいた閃きが、私の魂の最深部で、熱く、激しく、産声を上げたのだった。




