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間に合わなかったシンデレラは、硝子の靴で戦場を踊る  作者: 入江 鋭利
21章「信仰と舞踏と零落の聖女」
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272話「賽は振られズ」


 エレクトリアの言葉が、回廊の重苦しい空気の中に溶けて、私の肌を冷たく刺し続けている。


 私はレイピアを胸の前に構えたまま、自らの荒い呼吸の乱れを極限まで押し殺し、脳内の盤面を高速で稼働させていた。


 勝てない相性。破れないルール。彼女がこの死闘を"じゃんけん"に例えるのなら、私はその前提となるルールそのものを根底からひっくり返すための、決定的な一手をここで組み立てなければならない。


 私の手元に残された手札。


 まずひとつは、私が"姫"の力に目覚めてからずっと使い込んできた、通常の硝子を操る魔法。


 世界を白く硬質な玻璃へと書き換えるその力は、単に敵を物理的に突き刺すだけでなく、応用次第でいくらでも戦況をコントロールする変数を生み出すことができる。


 敵の手足を直接包み込んで強固な檻として拘束することもできれば、大理石の表面を硝子に変えることで足元の摩擦を完全に奪い去り、相手の絶対的な機動力を縛ることだって可能だ。


 さらには、一瞬で強固な硝子の盾を空間に編み上げ、即席の武器を無限に精製して戦術の選択肢を広げる、私の戦いの強固な土台。


 そして――もうひとつ。あの試練の門の試練の先で、己の魂をドロドロに融解させながら掴み取った、この焦熱を帯びた溶けた硝子の翼。


 私の"根源"から汲み出されるその熱流は、通常の硝子のような繊細な美しさを持たない代わりに、触れるものすべてを内側から焼き切り、融解させる圧倒的なまでの暴力を秘めている。


 この翼から放たれる最大出力の一撃が直撃すれば、たとえエレクトリアが相手であっても、その肉体を一瞬で焼き焦がし、勝負を完全に決め得るだろう。


(通常の硝子による戦場の制御と、"根源"の熱による一撃……。この二つを、完全に噛み合わせることができれば――)


 私は、さらに思考を一段階深める。


 エレクトリアの防御は、私の攻撃のすべてを銀盤で解体し、ヴェールで無力化する。


 だが、それらはすべて、彼女が完璧な姿勢と機動力を維持しているという前提の上で成り立つ、脆いものなのではないか。


(なら、その相性差(ルール)なんてものが、ただのまやかしでしかないってことを、今ここで、私の熱を以て教えてやればいい……!)


 私は、自らの胸の奥で爆発的な熱量を誇る"根源"の魔力を一気に練り上げ、それを全身の神経へと巡らせた。覚悟は決まった。私は、その場に深く屈み込み、魔力を帯びた自らの左手で、大理石の地面へ触れる。


「その完璧な計算、今ここで根こそぎ狂わせてあげるわ……っ!!」


 私の叫びと同時に、触れた左手の指先から、緋色の魔力の波紋が爆発的な速度で回廊の床一面へと伝播していった。



「――“霧氷の鏡床(グレイス・ミラー)”!!」



 パキパキパキパキパキッ!!! 


 耳を劈くような硬質な音が鳴り響く。


 エレクトリアを中心に、半径数十メートルに及ぶ大聖堂の床面が、一瞬にして、極限まで磨き上げられた滑らかな"硝子の鏡"へと強制的に上書きされていく。


 それは、世界から摩擦係数を完全に奪い去る、私の得意技。


 これほどの滑走面の上では、どんなに優れた戦士であっても――それこそ、かの"雷帝"ですら、滑るようにして姿勢を崩すしかなかった。


 空間の測量、距離の計算、それらの基盤となる、己の現在座標の保持。それらが、足元の摩擦の消失によって、一気にガタガタに崩れ落ちる。


 エレクトリアがどれほど無敵の技量を誇っていようとも、これで普段通りの完璧な動きをすることは、絶対に不可能なはずだ。


 そうなれば、あの無敵の銀盤による迎撃にも、ヴェールによる無力化にも、機動力の喪失に伴う決定的な(タイムラグ)が、コンマ数秒のバグとなって必ず生じる。


「ダメ押しよ――逃げられると思わないことね!!」


 私は間髪入れず、エレクトリアに向けて、背中の残された溶けた硝子の翼を、限界を超えて大きく左右へと広げた。ドロドロと熱を帯びた焦熱の液体が、空間を強引に包み込むようにして膨れ上がり、瞬く間に彼女の周囲を完全なドーム状の檻となって覆い尽くしていく。



「――“玻璃の(ヴィトリス・)聖殉釘(グラスメイデン)”!!」



 私の魂の咆哮と共に、エレクトリアを閉じ込めた硝子のドームの内壁から、無数の、超高熱を帯びた鋭利な硝子の棘が、四方八方、360度すべての死角から、中央の彼女へ向けて一斉に、爆発的な速度で迫り出した。


 これは、かつてあの地獄のような修行の夜、私がエレクトリアという完璧な化け物に対して、唯一、その衣服の裾を切り裂き、その肌に小さな掠り傷を負わせることができた、私にとっての最大の切り札だった。


(足元の自由は完全に奪っている! ヴェールで一枚の攻撃を逸らせようと、この数千、数万の熱を帯びた全方位からの棘を、すべて同時に処理することなんて、今のバランスを崩した彼女にできるはずがない……! 今度こそ、回避も防御もままならないはず……っ!!)


 硝子のドームの内側、迫りくる死の幾何学の棘に包まれるまさにその刹那。


 正面に立つエレクトリアの、あの常に冷徹だった双眸が、ほんの少しだけ、驚愕を帯びたように大きく見開かれるのを、私は確かに網膜に焼き付けた。


 直後、彼女の華奢なシルエットは、完全に、赤黒く燃え盛る流動硝子のドームの底へと呑み込まれ、その視界から完全に消失していったのだった。


 ドガガガガガガガガガガッ!!!


 数千の硝子の釘が中央で激しく噛み合い、爆裂する凄まじい衝撃音が、回廊の空間全体を狂暴に揺るがした。


 ドームの内側から溢れ出す、空間そのものを融解させるほどの圧倒的な焦熱の波動。熱波が私の顔を乱暴に叩き、硝子の翼がパチパチと音を立てて火花を散らす。


 硝子の檻の中に、確実に取り押さえた。


 摩擦を奪い、全方位から物理と熱の暴力を同時に叩き込む。これ以上の完璧な連携は、今の私には組み立てられない。


 それを見届けた私は、胸の奥から湧き上がる、確かな、勝利の手応えをその両手の中に感じていた。


 あの無敵の聖女を、ついに私の熱が上回ったのだ。彼女をここに足止めし、無力化することに成功した。


「……っ、よし! これで、先に――シャウルのところに……っ!」


 私はレイピアを強く握り直し、硝子の床を蹴って、シャウルが連れ去られたあの漆黒の大扉の奥へと向かって、一気に駆け出そうとした。私の視線はすでに、目の前の戦場を通り越していた。



 ――しかし。



 私が最初の一歩を踏み出し、身体のベクトルを前へと傾けた、まさにその瞬間だった。


 パリィィィィィィィィンッッッ!!!


 甲高い破砕音が、私の背後から轟いた。


「――っ!?」


 私は弾かれたように足を止め、信じられない思いで後ろを振り返った。


 そこでは、エレクトリアを完璧に圧殺していたはずの、あの数千度の高熱を宿した“玻璃の聖殉釘”の強固なドームが、内側から放たれた目も眩むような銀色の光によって、文字通り、塵一つ残さずに一瞬で粉々に砕け散り、虚空へと霧散していくところだった。


 熱された硝子の欠片が、星の屑のように美しく周囲へと飛び散る。


 その、光り輝く玻璃の煙の向こう側から、滑るような足取りで静かに歩み出てきたのは――。



「――行かせませんヨ、ノクティア様」



 衣服の裾ひとつ、髪の毛一筋にいたるまで、完全なる無傷を維持した、エレクトリアの姿だった。


 彼女の周囲を回る七枚のヴェールは、先ほどよりも一層冷徹な輝きを帯びて静かに揺らめいていた。


 足元の摩擦を奪ったはずの硝子の床の上にあっても、彼女の両足は、物理法則をあざ笑うかのように完璧な重心の均衡(バランス)を保ち、1ミリの揺らぎすら見せてはいなかった。


「そんな、嘘よ……っ。あれを、真っ向から、傷一つなく防ぎきるなんて……!」


 私は、自らの全身の血液が、一瞬にして凍りつくような絶望の感覚に襲われていた。


 今の攻撃には、私の"根源"の出力のすべてを注ぎ込んだはずだった。それすらも、彼女にとっては、計算式の中に最初から組み込まれていた、ただの想定内の数値に過ぎなかったというのか。


「言ったはずでス。あなたの刃ハ、私には届かないト」


 エレクトリアの両目には、私への怒りも、戦いの高揚感も、何一つ宿ってはいなかった。ただ、数学者が、哀れな素人の誤った数式を訂正するかのような、絶対的な諦絶の光だけがそこにあった。


「……神はいないのでス、ノクティア様。この世界の天井の向こうにハ、私たちのあがきを気まぐれに救ってくれるようナ、そんな奇跡の賽が振られる可能性なド、最初からただの一分も存在しないのでス」


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