271話「不変の方程式」
白亜の回廊の空気が、数千度の高熱によって爆発的に膨張し、硬質な衝撃波となって周囲の石柱を激しく震わせた。
私の背中から奔流となって溢れ出す、ドロドロと赤黒く焼け溶けた魔法の硝子。それは二対の不揃いな翼の形を維持しながら、私の激情に呼応するようにして、狂暴な質量を伴った弾幕へと変貌していく。
「ハァァァァッ!!!」
私は地を蹴り、レイピアの切っ先を正面へと固定したまま、一気に出力を引き上げた。
覚醒した"根源"の魔法。心の奥底から引き摺り出した前世の焦熱が、流動する硝子の槍や、網膜を焼き焦がすほどの熱量を帯びた玻璃の弾丸となって、エレクトリアの立つ座標へと容赦なく降り注ぐ。
床の大理石は熱によって一瞬でドロドロの液体へと融解し、私が一歩前進するごとに、世界の色彩がプレアデスの白から私の硝子の緋色へと強引に塗り替えられていく。
息を吐く暇すら与えない、文字通りの嵐のような猛攻。
これほどの破壊の波動であれば、先ほど廊下を埋め尽くしていた教国の武装信徒たちなど、一瞬で消し炭にして硝子の海の底へと沈めることができたはずだった。
――けれど。
「……っ、やっぱり、強い……!」
私は奥歯を噛み締め、眼前に広がる光景に、肌が粟立つような戦慄を覚えていた。
これほどの猛攻を仕掛けているというのに、私の攻撃は、彼女の肉体はおろか、その衣服の裾にすら、ただの一分も届いてはいなかった。
聖域を閉ざす零落の聖女、エレクトリア。
彼女はあまりにも完璧で、そして冷酷だった。
彼女が振るう魔法の本質は、主に二つ。
一つは、彼女が両手で優雅に、かつ精密な軌道計算を以て操る、あの鏡面のように磨き上げられた銀色の円盤。
私の放つ超高熱の硝子の槍がどれほどの質量を持っていようとも、あの銀盤のフチに触れた瞬間、魔力の構造そのものを強制的に切断され、ただの無機質な塵へと解体されてしまうのだ。
対魔法においては文字通り無類の強さを誇っており、私の背中の翼であっても、ほんの一瞬でも気を抜けば、容易に切り落とされてしまうであろう、絶対的な恐怖の刃。
そして、もう一つ。あの銀盤による迎撃の隙間を埋めるようにして、彼女の細い身体の周囲をまるで生き物のように滑らかに、不気味に踊る、七枚の透き通ったヴェール。
(……特に厄介なのは、あのヴェールね。これだけ四方八方から熱量をぶつけているのに……一枚だって、剥がせていない……!)
空間を舞うその半透明な布切れは、私の放つ焦熱の弾丸が至近距離にまで迫ると、まるで風に揺れるカーテンのように軽やかに、その軌道上に滑り込んでくる。
そして、硝子の弾丸がヴェールの表面に接触したその刹那――熱が奪われるわけでも、物理的に弾かれるわけでもなく、ただ、そこに最初から魔法など存在しなかったかのように、サラサラと魔力の粒子を霧散させ、完全に無力化してしまうのだ。
最強の矛である銀盤と、絶対的な盾である七枚のヴェール。
その二つを完璧に組み合わせ、一分の無駄もない最小限のステップで私の猛攻をいなし続ける彼女の姿には、付け入る隙など、どこを探しても見当たらなかった。
パリン、パリィィン! と、私の放った硝子の弾丸が、彼女のヴェールに触れては虚しく霧散し、消え去っていく。代わりに、彼女が時折最小限の動作で投げ放つ銀色の煌めきが、私の周囲に展開した硝子の防壁を、ガリガリと果物ナイフで皮を剥くかのような軽快さで削り取っていく。
攻勢に回っているのは私のはずなのに、精神的な余裕を削り取られているのもまた、私の方だった。
エレクトリアの実力は、この二日間の夜戦訓練で痛いほどに知っていた。純粋な魔力の総量、物語の出力、そして何より戦士としての技量や空間の支配力において、彼女は私よりも遥かに上位に位置している。まともにぶつかれば、私は数分と持たずにその首を撥ねられていてもおかしくないはずの、恐るべき"姫"だ。
――しかし。
(……なぜ? これだけ、技量に圧倒的な差があるはずなのに……!)
激しい火花が散り続ける回廊の中で、私は自らの胸の奥に沸き上がる、奇妙な違和感に気づいていた。
攻めきれてはいない。彼女の防御の城壁を崩せてはいない。
けれど同時に――私は、彼女に押し潰されてもいなかった。
戦況は、私の感覚的な予測に反して、不気味なほどに拮抗し続けていたのだ。
私が翼を振るえば、彼女は確実にそれを防ぐ。だが、そこから私を完全に致命傷へ追い込むような、追撃が飛んでくることはない。私の放つ高熱の硝子が、彼女の完璧な計算に、ほんの僅かな負荷を与えているのだろうか。
それとも、私の知らない別の変数が、この盤面に働いているというのか。
「考えても始まらないわね……!」
その答えを得るためには、ここからさらに一歩、彼女の冷徹な世界の内側へと、深く踏み込む必要がある。
私は、シャウルの元へ向かう、そして目の前の聖女の仮面の裏に隠された真実を暴くため、より危険な接近戦の決意を固めた。
私は大きく息を吸い込み、レイピアを逆手に持ち替えると、残された左側の硝子の翼を、限界を超える速度で激しく羽ばたかせた。
――ゴォォォォォォォォッ!!!
私の周囲の空間に、これまでにない密度の、無数の鋭利な硝子の破片が瞬時に形成される。その数、数百、数千。それはただの直進する弾丸ではなく、回廊の壁や天井を乱反射しながら、あらゆる角度からエレクトリアの死角を突くように設計された、全方位型の硝子の弾幕だった。
キィィィィィン! と、空間を埋め尽くす圧倒的な玻璃の鳴動。
しかし、私は最初から、この派手な大魔法で彼女を倒せるとは思っていなかった。これは視覚を奪い、彼女の計算能力を飽和させるための、ただの目潰しに過ぎない。
「そこよ……っ!!」
硝子の嵐がエレクトリアの視界を完全に遮ったその刹那、私は弾幕の背後に身を隠すようにして、超低空の姿勢で一気に彼女の懐へと滑り込んだ。大理石の床すれすれを滑るように疾走し、彼女の防御が最も手薄になるであろう足元から、その喉元へ向けてレイピアの鋭い突きを突き出す。
しかし、教国最高の測量士の目は、私のその必死の奇襲を、あまりにも冷酷に見逃さなかった。
「――無駄でス、ノクティア様」
硝子の嵐の向こう側から、彼女の感情のない声が響いた。
エレクトリアは、私が突入するであろう未来の座標を、最初からすべて計算し尽くしていたかのように、手にした銀のトレイを私の進行方向を阻む完璧な弾道で投擲した。
――ガギィィィィンッ!!!
「くっ……!?」
放たれた銀盤が、私のレイピアの切っ先と正確に正面から激突し、その強烈な衝撃によって、私の身体は強引にベクトルをねじ曲げられる。
さらに、私が囮として放った数千の硝子の弾丸は、彼女の肉体に触れるよりも前に、彼女の周囲で優雅な円を描いて踊る七枚のヴェールによって、軽やかに外側へと逸らされ、無害な光の粒子となって虚空へと霧散していった。
エレクトリアは、大爆発の余波による白煙のただ中にあっても、息一つ乱していなかった。その額には汗の欠片すら浮かんでおらず、法衣の白い布地も、私の熱によって焦げることすらしていない。
彼女は、まるで自らの部屋に飛び込んできた煩わしい羽虫を、手元のお盆でパタパタと払い退けるかのような、圧倒的な余裕を崩さずにそこに立ち尽くしていた。
「RPSのようなものでス、ノクティア様。……私とあなたの魔法ハ、致命的に相性が悪イ」
エレクトリアは手元に戻ってきた銀のトレイを、再び胸の前でピタリと静止させ、その冷徹な銀色の双眸で私を射抜いた。
「何度やろうト、あなたの"Paper"でハ、私の"Scissors"を破ることはできなイ。これは技量の差ではありませン。法則なのですかラ」
「……へえ、随分と自信があるのね」
私はレイピアを構え直しながら、自らの息を整え、彼女を鋭く睨み返した。
背中の硝子の翼が、彼女の言葉に対する拒絶を示すように、より一層激しく、不気味な緋色の陽炎を大気中に立ち上らせる。
「私のこの、灼熱の翼を叩き込まれた後でも……まだ、その完璧な計算式が絶対に壊れないって、そう言い切れるかしら」
「えエ、言い切れまス。なぜなラ、それが法則……ルールなのですかラ」
エレクトリアはヴェールの奥で、微かにその薄い唇を冷たく歪めてみせた。
「魔法とテ、この世界にある以上ハ、法則に縛られル。私はそのルールのすべてヲ、この手に収めているのでス」
彼女の放つ、絶対的な魔力の圧力が、回廊の闇をさらに深く染め上げていく。




