270話「神の不在証明」-後
もしも、この男たちの目的が、富を奪うための略奪であったなら。あるいは、特定の政治的主張を世間に誇示するための立てこもり事件であったなら。
誰もが美しいと認める端正な容姿を持ったエレクシアには、まだ生き延びられる確率が数%は残されていたかもしれない。その先にあるのが、醜悪な欲望による凄惨な凌辱や暴力であろうとも、命だけは、繋ぎ止められたはずだった。
しかし、残念ながら、この空間に侵入してきたバグたちの真の目的は、生存者の選別などではない。ただの鏖殺――この場にいるすべての命を、一片の例外もなく物理的に消去すること、それだけだった。
銃口はランダムに、かつ効率的に左右へと振られ、老若男女、赤ん坊から老人。完璧に戒律を守り、清廉に生きてきた選ばれた民たちが、ただの動く肉の的として、次々と射殺されて床へと転がっていった。
悲鳴。怒号。肉体が鉛玉によって抉られ、骨が砕ける不快な打撃音。
逃げ惑う人々の足跡によって、床に広がった血の海が汚らしく踏み荒らされ、美しい礼拝堂は数分もしないうちに、凄惨な屠殺場へとその姿を変えていった。
その、飛び交う銃弾と死臭が渦巻く混沌の真ん中で。
ただの一度も立ち上がろうとせず、逃げようともせず、最初に腰掛けたその場所に生気のない人形のように跪き、胸の前で固く両手を握り締めて祈りを捧げ続けている、二人の人物がいた。
エレクシアの父親と、母親だった。
「おお、我が神よ……。契約を全うせし我が一族をお守りください……。救済の光を、今こそこの不浄なる地に……っ!」
二人は、周囲の床で繰り広げられている、かつての友人たちが家畜のように首を撥ねられていく凄惨な現実から、必死に両目を背けていた。きつく、きつく目蓋を閉じ、ただ自らの脳内にある神の救済という幻影だけを、縋るようにして唱え続けていた。
その姿は、エレクシアの目には、あまりにも愚直に、本当に、世界の構造を疑うことを知らない子供のように、愚かなほどに無防備に映った。
(お父さん、お母さん。……もうやめて。現実は、そんなお話では動いていないんだよ)
エレクシアは叫ぼうとしたが、喉の筋肉が完全に凍りついて声にならなかった。
どれほど完璧にキッチンのシンクを2セットに分けようとも、どれほど安息日のルールを厳格に守ろうとも、たとえ片時も――信仰を手放さなかったとしても。
目の前で迫りくる鉄と鉛の質量、そして爆薬の化学反応がもたらす物理的な運動エネルギーを、ただの言葉の羅列が 1 インチたりとも曲げることなど、世界の計算式上、絶対にあり得ないのだ。ルールを完璧に守れば救われるなどという信仰は、人間の脳が作り出した、ただの都合の良い想像に過ぎない。
「神様……神様……っ!」
母親が、涙と鼻水で顔を汚しながら、最後の一言を唇から零した、その瞬間だった。
テロリストの男の一人が、二人の背後に無造作に立ち止まり、その冷たい銃口を、何の躊躇もなく二人の後頭部へと水平に向けた。
パン、パン。
あまりにも、呆気なかった。
世界で一番エレクシアを愛し、マイアミの美しい高級コンドミニアムの開発計画を熱っぽく語っていた父親の頭も。完璧なインテリアの配置をいつも美しく笑いながら教えてくれた母親の頭も。弾丸の貫通による物理的な衝撃波によって、一瞬にしてその思考の機能を停止させられ、ただの動かない肉塊となって、床の血の海へとドサリ、と倒れ伏した。
神の救いなど、どこからも来なかった。救世主の到来を告げる天使の羽音など、硝煙の爆音の前に、ただの一ミクロンも大気を震わせることはなかった。
そこに残されたのは、完璧に戒律を守り続けた結果として、逃げるタイミングすら完全に失ってあっけなく処理された、二つの哀れな屍だけ。
エレクシアは、自らの衣服にこびり付いた両親の温かい血液の感触を見つめながら、あるいは、次には確実にこちらへと向けられるであろう、冷酷な男の殺意を目の前にしながら。
感情の回路が完全に破綻した頭の中で、ぽつりと、あまりにもクリアな意識のまま、ぼんやりと考えていた。
(――ほらね。やっぱり、神様なんて最初からいなかったんだよ、お父さん。お母さん)
彼らが一生を懸けて信じ、彼女に守らせてきた戒律は、ただのまやかしだった。世界は神の愛によって統治されているのではない。ただの、理不尽な暴力の方程式だけで動いている。その事実を、二人は死ぬ最期の瞬間まで、気づくことができなかった。そのことが、エレクシアにとっては、悲しいという感情よりも先に、事実として、彼女の魂を完全に凍りつかせた。
カチャリ、と。
両親の命を消し飛ばした男の銃口が、滑らかな軌道を描いて、最後に残されたエレクシアの眉間へと真っ直ぐに向けられた。
エレクシアは、逃げようとも、命乞いをしようとも思わなかった。そんな行動が、この現実の前には何の意味も持たないことを、彼女の脳は一瞬で計算し終えていたからだ。
――ドンッ!!!
激しい衝撃が、彼女の胸部を直撃した。
飛来する弾丸。それは、事前の想像のような鋭い痛みではなく、巨大な鉄の塊で正面から撥ね飛ばされたかのような、衝撃と、肉体を引き裂く熱として、彼女の華奢な肉体を襲った。
肺胞が物理的に破裂し、気管支の奥から熱い鉄の味が急速にせり上がってくる。ヘモグロビンによる酸素の運搬機能が強制停止させられ、全身の筋肉から、すべての支持力が一瞬にして完全に脱落していく。エレクシアの身体は、重力の法則にただただ従うだけの 物体となって、白大理石の床へと、崩れるようにして倒れ込んだ。
視界が、急速にその色彩を失い、モノクロームの世界へと反転していく。
意識の灯火が完全に絶える、その最後の数ミリ秒の刹那。
エレクシアの、仰向けに転がった瞳の中に、最後の光景が飛び込んできた。
それは、銃弾の乱射によって、あるいは火を放たれようとして粉々に砕け散り、天から降り注ぐようにして床へと散らばった、ダヴィデの星のステンドグラスの破片だった。
かつては神聖な光のモザイクを描き、神と人との絆の象徴を騙っていた色硝子たち。
それらは今や、周囲の無惨なコンクリートの瓦礫や、大人たちの肉片、そしてドロドロとした血の海と汚らしく混ざり合い、ただのSiO_2 で構成された、何の意味も持たない着色物質のゴミへと成り下がっていた。
砕けてしまえば、ただの石ころと同じ。
文脈を剥ぎ取られてしまえば、ただの無機質な元素の塊。
(ああ、……そうか。これが、世界の本質なんだ)
この世に、神聖なる奇跡など最初から存在しない。
虐げられた者を救う救済も、流された血に意味を与える大いなる御心も、どこを探しても存在しない。
信仰に意味などなく、人生の設計図など一瞬で破り捨てられる。すべての現象は、ただの冷徹な物理の方程式と、化学反応の連鎖によってのみ、等しく説明されてしまうのだ。
エレクシア・トーレスは、自らの魂の最深部で続けてきた孤独な問いかけに対する、これ以上ないほどに完璧で、無慈悲な答え合わせを前にして。
不思議なほどの、冷え切った満足感をその胸の真空の中に抱きながら。
鞄の中に、お守りのように潜ませていた合格通知が、炎に包まれて灰へと変わっていく焦熱の暗闇の中で。
その瞳を、静かに閉じるのだった――。
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