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間に合わなかったシンデレラは、硝子の靴で戦場を踊る  作者: 入江 鋭利
21章「信仰と舞踏と零落の聖女」
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270話「神の不在証明」-前

 ハイスクールの卒業を控えた、とある金曜日。


 午後六時を過ぎたマイアミの夕空は、昼間の傲慢なまでの青さをなだらかに引き取り、燃えるような極光のグラデーションから、深いインディゴブルーへとその色彩を沈めつつあった。


 アベンチュラの並木道にひっそりと、しかし確固たる富の象徴として佇むセファルディ系の礼拝堂(シナゴーグ)。その高い天井を支える白大理石の壁面には、夕暮れの陽光が細長いスリット状になって差し込み、そこに集まった人々の白い肩掛けを等しく、厳かに照らし出していた。


 エレクシアは、その神聖とされる空間の三列目のベンチに腰掛け、微動だにせず正面のステンドグラスを見上げていた。


 夕日の残光を浴びて 180° 反転した二つの色彩が、幾何学的な対称性を保ちながら美しくきらめいている。そこに描かれているのは、ユダヤ民族の、そしてこの礼拝堂の絶対的な象徴であるダヴィデの星であった。


 光は色硝子を透過して床一面に複雑なモザイク模様を投影し、まるであらゆる人間の魂の内側に潜む罪や不浄を、神の眼の代わりに白日の下に照らし出している――。


 ――なんてことは、ない。


(……あれは、ただの記号だ)


 エレクシアは、周囲の敬虔な大人たちが感極まったように小さな吐息を漏らす中で、一人、冷え切った脳髄の回路を動かしていた。


 ダヴィデの星。神を表す上向きの正三角形と、人間あるいは現世を表す下向きの正三角形が、完璧な重心の同調を以て重ね合わされた六芒星。


 宗教家たちはそこに"天と地の一致"だの"神と人との永遠の契約"だのといった、都合の良い文脈を下敷きにした単なるこじつけの神話を喜々として付け足す。


 しかし、歴史の重みというベールで覆い隠されたその実態は、内角がすべて 60° で構成された、同一寸法の正三角形二つの組み合わせに過ぎない。


 そのような単純な二次元の平面図形に対して、人間たちが勝手に救済の祈りを乗せ、人生の指針を見出すのは、エレクシアの目には単なる感傷としか映らなかった。世界を駆動させているのは、正三角形の交差がもたらす神秘などではなく、その座標を規定する厳密な空間幾何学と、光の屈折率を決定する物理法則の二点だけだ。


 エレクシアは小さく、誰にも気づかれない程度の溜息を吐くと、諦念と共にそっと両目を閉じた。


 いつも通りの、退屈で、けれど完璧に調和した安息日の礼拝。彼女は今夜も、両親の隣で信者のフリを維持し、胸の奥の真空を隠したまま、ただ時間が過ぎ去るのを待つはずだった。数分後には穏やかな説教が始まり、その後には帰って、両親と穏やかな時間を過ごす。


 彼女の人生の設計図には、そのような平穏な時間の累積だけが、何ページにもわたって印刷されていた。



 しかし。



 その設計図は、突如として礼拝堂の重厚な木扉を粉砕した、悍ましい悲鳴によって、一瞬にして切り裂かれることとなった。



 バァァァン!!! という、鼓膜を揺らす爆破音が、静謐な礼拝堂に響き渡った。



 直後に連続して鳴り響いたのは、金属が超高速度で摩擦し、炸裂する、世界で最も無慈悲な音――自動小銃の銃声だった。


「ひっ……!?」


「何だ、何が起きた!?」


 一瞬の空白の後、静かだった祈りの空間は、地獄のようなパニックへと反転した。


 硝煙の焦げ臭い匂いが、香油の香りを一瞬で蹂躙し、大気中に急速に拡散していく。開け放たれた、いや、物理的に破壊された入り口の向こうから、黒いタクティカルベストに身を包み、顔を目出し帽(バラクラバ)で隠した複数人の男たちが、世辞にも統制されたとは言えない足取りで突入してきた。


 彼らの手には、現代の戦場において最も多くの命を効率的に処理してきた殺人道具――冷たい鉄色の自動小銃が握られていた。


(ヘイトクライム。……あるいは、無差別テロ)


 エレクシアの脳裏には、恐怖が去来するよりも早く、現在の状況をもたらしたいくつもの蓋然性が、パーセンテージとして自動的に浮かんでは消えていった。


 この歪んだアメリカという多民族社会において、他者を、特定の集団を理不尽に憎悪するための理由など、砂浜の砂の数ほど転がっている。人種、性別、歴史的な背景、宗教的ドグマの相違――あるいはもっとシンプルに、このアベンチュラという高級住宅街に暮らす、富裕層(ブルジョワジー)への、持たざる者たちの浅ましい逆恨みか。


 世界を構成する人間というシステムのバグ。それが今、この神聖とされる礼拝堂の座標において、最悪の形で具現化していた。


 周囲の大人たちが腰を抜かし、あるいは座席の陰へと見苦しく這いずる中で、エレクシアだけが、まるで映画のスクリーンを硝子越しに眺めているかのような冷徹な目で、その暴力のプロットを分析していた。


 そんな中、一人の老人が、押し入ってきた男たちの銃口の前に、震える両足を叱咤して進み出た。エレクシアも何度か礼拝堂の茶話会で見かけたことのある、父親の古いビジネスパートナーであり、地域の慈善団体の幹部を務める品のある老人だった。


 彼は、自らの内に流れる「人間は話し合えば分かり合える」という、おめでたい性善説に従い、鷹揚な、それでいてどこか哀願するような態度を崩さずに、テロリストたちを宥めようと両手を広げた。


「待ちたまえ、話を聞いてくれ。私たちは神の前において――」


 無駄だった。あまりにも、時間の無駄だった。


 老人がその哀れな説得の言葉を紡ぎ終えるより早く、先頭にいた男の指先が、何の一考もなく引き金を引き絞った。


 ズドォォンッ!!!


 激しい閃光(マズルフラッシュ)と共に放たれた 5.56mm 弾は、老人の言葉ごと、その前頭骨を時速 3000km を超える初速で容易に撃ち抜いた。


 物理法則に従って、頭蓋の内圧が一瞬にして臨界点を超え、爆発するようにして破裂する。辺りの真っ白な大理石の壁面に、粘り気のある赤黒い血液と、脳漿の無惨な斑点が、まるで最悪な前衛芸術のインクのように激しく撒き散らされた。


「ああああああっ!!!」


「ラビ! ラビが撃たれた!!」


 目の前で繰り広げられた、肉体の解体作業。それによって、礼拝堂の中の混乱は、もはや制御不能な暴動のレベルへと伝播していった。


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