269話「完璧な設計図」
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大西洋の深い青から吹き付ける生温かい潮風が、パームツリーの細長い葉をカサカサと不規則に揺らしている。
アメリカ、フロリダ州アベンチュラ。
どこを見渡しても白亜の美しい壁と、瑞々しい芝生が広がるその絵画のような街の一角に、エレクトリア――そう呼ばれる前の少女、エレクシア・トーレスの生家は、周囲の豪邸を圧するほどの威風堂々とした佇まいで存在していた。。
父親はマイアミ湾岸の広大な未開発地を次々と買い取り、富裕層向けの超高層高級コンドミニアム開発を牽引する、業界でも名高き不動産ディベロッパー。
そして母親は、夫が手がけたその最高級建築の内装をトータルコーディネートし、社交界のセレブたちからも絶大な支持を得ている、メディアでも名を馳せたインテリアデザイナー。
圧倒的な富と、洗練された社会的地位。その二つを兼ね備えた両親の溢れんばかりの愛情を一身に受け、何不自由なく育ったエレクシア自身もまた、周囲の期待を一切裏切ることのない、地元でも有名な才媛であった。
ハイスクールの最上級生であるシニア――12年生に進級した彼女の学業成績は、すべての教科において常に学年の頂点に君臨し、評定平均は当然のように最高値を叩き出していた。
さらに、東海岸の超名門、コロンビア大学建築学部への入学権を、彼女は早期出願によって既に手中に収めていたのだ。
秋になれば、実家のあるフロリダを離れ、ニューヨークの大都会で最先端の空間幾何学を学ぶことになっていた。
これ以上ないほどに恵まれた属性。誰もが羨む、光に満ちた完璧な物語。
ハイスクールの卒業を目前に控えたエレクシアの周囲には、同世代の少女たちが経験するような、ドロドロとしたスクールカーストの嫉妬やいざこざすら、最初から発生する余地がなかった。
彫刻のように美しい容姿に、他者を威圧しない物腰の柔らかい理知的な態度。彼女は学校の中心グループからも女神のように当然として受け入れられており、教師たちの残す指導要録には、毎年同じ、冷たい記号のような最高評価の言葉が並んでいた。
――"非の打ち所がない優等生"。
そう。彼女の人生の図面は、あの輝かしい春の段階で、すでに完成していたはずだった。金型に嵌めたように美しく、何ひとつとして予測を裏切らない、幸福な未来。それ以外の結末など、彼女の世界の計算式には、存在すらしていなかったのだ。
しかし、世界のすべてが自らを祝福しているかのような数字の並びの中で、エレクシアの胸の奥底には、常に冷え切った微かな寂寥感が、消えない黒いインクの染みのように沈んでいた。
「――私は、この世界にひとりきりだ」
突き抜けるような日差しが差し込む、騒がしいハイスクールのカフェテリア。
周囲の生徒たちが、最新の流行のポップミュージックや、昨晩のビーチパーティでの安っぽい色恋沙汰について、大声で笑い合っている。その眩しい喧騒の真ん中で、エレクシアはいつも、自らの周囲にだけ、誰も入ることのできない分厚い硝子の壁がそびえ立っているかのような、強烈な疎外感を覚えていた。
それは、周囲に馴染めないからでも、コミュニケーション能力が劣っているからでもなかった。むしろ、カーストの上位にいるアメフト部の男子やチアリーダーの女子たちも、エレクシアの言葉には一目を置き、彼女を特別な友人として扱っていた。
ただ、彼女には分かってしまうのだ。
自分は彼らとは、決定的に見えている世界の構造が違うのだということが。
友人たちが恋愛やゴシップに感情のままに一喜一憂し、その刹那の熱に身を焦がしているその瞬間、エレクシアの脳は、周囲の空間の正確な容積を、天窓から差し込む陽光の入射角を、そして彼らの移動ベクトルの確率を、冷徹に測量し、数字の羅列として処理してしまっていた。
世界はすべて、冷たい物理の方程式と空間の配置によって構築されている。
どれほど言葉を交わそうとも、どれほど肩を並べようとも、誰も自分と同じように世界の座標を正確に見つめてはくれない。その圧倒的な認知の断絶が、彼女を誰にも届かない底なしの孤独へと押し込めていた。
彼女にとっての世界は、常に自分ひとりが観測者として取り残された、冷たい計測対象に過ぎなかったのだ。
――また、トーレス家は、伝統的なセファルディ・ユダヤ人の血筋であり、何よりも厳格に神との契約である戒律を守り続けることで、その高潔な精神を保っていた。
毎週金曜日の夕刻、太陽が地平線の彼方へと沈み、世界に安息日の帳が下りる時間、彼女の家では全ての電化製品が沈黙する。
キャンドルの淡い炎だけが揺らめき、不気味なほどの静寂が支配する薄暗い食卓の席で、父親はいつも、神聖なヘブライ語の祈りの言葉を厳かに唱えた後、愛おしげに娘の美しい銀髪を見つめて、何度も同じ言葉を繰り返すのだった。
「エレクシア。決して、神様への無条件の信頼を捨ててはならないよ。正しい行いを続けていれば、神様はすべてをその眼で見ておられるのだから」
仕立ての良いオーダーメイドの衣服を纏い、敬虔な顔で虚空に向かって祈りを捧げる父親の横顔を、エレクシアはいつも、影の消えた冷ややかな瞳で見つめ返していた。
(――神様は、すべてを見ている)
そして、心の中でそっと、首を傾げずにはいられなかった。
(――どこで?)
エレクシアの才能は、特に物理、地理、そして空間幾何学の分野において、ハイスクールの枠組みを遥かに超越した領域に達していた。
彼女にとって、空間とは測量可能な数字の完全な集合体であり、その世界の構造への理解を深めれば深めるほど、彼女の脳内の方程式からは、ひとつの決定的な"変数"が確実に、冷酷に排除されていくことになった。
――すなわち、神の存在と、その奇跡。
どれほど高等数学の数式を組み立てても、どれほど物理の法則を突き詰めても、そこに"神の介入"という不確定な数値を代入する必要は、どこを探しても存在しなかった。
世界は、神が手を下すまでもなく、ただのパッシブな物理法則によって完璧に、そして冷酷に、自動で回り続けている。
世界が精密であればあるほど、逆に"神の不在"という冷え切った証明だけが、彼女の目の前にあまりにも明瞭に浮かび上がってくるのだ。
(神様なんて、最初からどこにもいない)
脳内を支配する冷徹な結論。
ならば、自分たちが毎日続けているこの厳格な生活の意味は、一体どこにあるというのだろう。友人たちが楽しそうに集うショッピングモールのフードコートを、規定に反するという理由だけで一人だけ避け、味の薄いコーシャフードを寂しく口にする意味はどこにあるのか。
安息日が訪れるたびに、やりかけの物理の計算を中断し、ペンを置き、存在しない天井の向こうに向かって手を合わせなければならない理由は。
すべては、実体のない幻影に振り回されているだけの、無駄なエネルギーの空回りではないのか。
しかし。エレクシアは、その冷めた疑問を直接父親や母親に突きつけて、現在の安定した生活や、自らを愛してくれる両親との良好な関係を自ら破壊するほどに、愚かな少女ではなかった。
反逆がもたらす不利益と、従順な優等生を演じることで得られる利益。そのバランスを、彼女の優秀な脳は一瞬で計算し終えていた。
神の不在を冷徹に理解しながらも、"それはそれ"と割り切り、完璧なタイミングで手を合わせ、美しい賛美の言葉を偽りの唇から零すことができる程度には、あまりにも聡く、そして冷酷だった。
そうして彼女は、胸の奥底に絶対的な真空を抱えたまま、周囲が望む通り、偽りの信仰を演じ続け、金型に嵌まった輝かしい未来への階段を、一段ずつ確実に上っていく。
――そんな、美しく計算し尽くされた穏やかな優等生の日々がいつまでも続くと、そう思っていた。




