268話「黒い熱の息吹」
「――"彼女"は、ただ見たかったのです。この世界に産み落とされた"姫"たちが、一体どこに向かい、どのような結末を書き上げるのかを」
カリオペは窓の向こうの星海を見つめたまま、静かにそう、口にした。
その穏やかな、けれど有無を言わせぬ質量を持った声音。そして何より、その白いヴェールの隙間から覗く双眸に宿っていたのは――シャウルがこれまでの人生で一度も目にしたことがないほどに深く、濃密な憧憬、あるいは絶対的な存在に対する狂信的なまでの崇拝の念だった。
しかし。王都の路地裏という、明日のパンのために他人の顔色を窺い、泥水をすすりながら生きてきたシャウルにとって、そのような高尚で壮大な崇拝という感情は、あまりにも縁遠い代物だった。
路地裏には神もいなければ、憧れるべき英雄もいない。あるのは冷たい現実と、おのれの胃袋を満たすための生存競争だけだ。
「……そ、そうなんすね。よくわからないっすけど、大昔には、すっごく凄い人がいたんすねぇ」
シャウルは、カリオペの背中を見つめながら、そう口にするしかなかった。
内心では、あまりにも壮大で、自分の理解のキャパシティを遥かに超えた神話の話に、完全に置いていかれるような、奇妙な疎外感と戸惑いを覚えていた。
だが、シャウルのその少し距離を置いた、どこか他人事のような返答を聞いた瞬間。
それまで星空を眺めていたカリオペの身体が、微かに、けれど明確な熱を帯びて強張った。
「……ええ。だからこそ、私たちは、絶対に許してはいけないのです」
カリオペの声が、不意にワントーン、その激しさを増した。
それは先ほどまでの鈴を転がすような穏やかな調べではなく、おのれの魂の最深部にある、絶対に譲れない規律を狂暴に剥き出しにしたかのような、冷たく、鋭い響きだった。
「この世界を……"彼女"が今もなお観測し続けている、この美しき世界を、おのれの理不尽な怨嗟によって根こそぎ焼き尽くそうとする、あの忌々しい、呪われた"マッチ売りの少女"――。あの子の息の根だけは、何があろうとも、我が教国の総力を以て、確実に止めなければならないのですよ」
最高司教の法衣の裾が、不意に窓から吹き込んできた夜風に、バサリと不穏な音を立てる。
「……"マッチ売りの少女"……っ。あ、その名前、お嬢様が前に少しだけ、旅の途中で話してたことがあるっす。ええと、確か……今の帝国の裏にいる、"姫"たちの親玉みたいな、一番凶暴なやつ……ってことで、いいんすかね」
シャウルは、カリオペから放たれた急激な殺気に身を竦めながらも、自らの記憶の引き出しを必死にひっくり返した。
ノクティアが、ヴァルゴ王国からここへ至る長い旅路の夜、焚き火の明かりに照らされながら、難しい顔をして語っていた帝国の絶対的な脅威。世界を書き換え、あらゆる国を炎で包まんとする最悪の物語。
「ええ、その認識で間違っていませんよ、シャウル様」
カリオペはゆっくりとシャウルの方へと向き直り、再びその顔に、いつもの柔らかな慈愛の仮面を張り付け直した。けれど、その瞳の奥にある冷徹な光までは、完全には隠しきれていなかった。
「彼女は、世界に対する、運命に対する、ありとあらゆる理不尽な怨嗟を唯一の燃料にして、この世界をすべて焼き払おうとしているのです。今の帝国が、他国を侵略し、無辜の民を虐殺し、理不尽に暴れ回っているのは……すべて、その背後にいる彼女こそが原因なのです」
「――じゃあ。……じゃあ、その、"マッチ売りの少女"ってのを完全に倒しちゃえば……。もう、帝国が勝手に暴れ回ったり、どこかの国を理不尽に焼き滅ぼしたりすることは、なくなるんすか?」
シャウルの声が、無意識のうちに、低く、硬いものへと変貌していった。
カリオペの言葉。帝国の理不尽な侵略、焼き払われる国々。その一節は、シャウルという人間の根底に眠る、絶対に消えることのない仄暗い熱を、容赦なく正確に火にかけ、引き摺り出すのに十分すぎるほどのきっかけだった。
――シャウルの故郷は、帝国から襲来した"姫"の暴力によって、跡形もなく焼き滅ぼされた。
それは、彼女がまだ物心つくよりも前の、遠い過去の出来事だ。
どれほど記憶を遡ろうとも、故郷の街並みがどんな形をしていたのか、そこを流れていた風がどんな匂いだったのか、幼い自分を抱きしめてくれたはずの肉親の顔がどんなものだったのか、何一つ具体的な輪郭を思い出すことはできない。
けれど。
何も覚えていないからこそ、彼女の胸の奥底に沈殿した"故郷を焼かれた"という事実への恨み、そして、自らの人生のすべてを理不尽に狂わせた帝国への激しい復讐心は、幾年が経過しようとも、完全に鎮火することなどあり得なかったのだ。
シャウルは、今でこそノクティアという心優しい主君に出会い、彼女の温かさに絆され、侍女として平和な日常を過ごしている。
だが、彼女の本質は違う。
シャウル自身は、自らの人生を狂わせた"姫"という理不尽な存在そのものを、根底から憎み、否定する側の住人なのだ。ノクティアやミラク、カノンのような近しい者だけが、彼女にとっての例外に過ぎない。
その、普段はおどけた笑顔の裏に完璧に隠し、抑え込んでいたはずの、真っ黒な復讐の残り火。それがカリオペの言葉によって酸素を与えられ、シャウルの瞳の奥で、じわじわと、仄暗い熱を帯びて燃え上がり始めた。
シャウルの表情の微細な変化。その無垢な顔に浮かび上がった、隠しきれない昏い殺気。
それを見た瞬間、最高司教カリオペは――。
ふ、と。
その口元を、不自然な角度へと歪めてみせた。
それは、シャウルがこのプレアデス聖教国に到着して以来、幾度となく目にしてきた、あのすべてを包み込み、許すような聖母の笑みでは、断じてなかった。
白亜のヴェールの影で、彼女の唇は、自身の白い歯を剥き出しにするようにしてニィと横に裂けていた。まるで、罠にかかった獲物が自らの望む通りの動きをしたことに満足し、その狂気の歓喜を堪えきれずに漏らし出してしまったかのような、どこかグロテスクで、悍ましい悪魔の笑顔。
「……ええ、もちろんですよ、シャウル様。あの子を、帝国の元凶を打倒すれば、世界の不条理な戦火はすべて消え去り、あなたの故郷を焼いたような悲劇は、二度と繰り返されることはなくなります」
カリオペの声は、甘く、どこまでも低く、シャウルの魂を奈落へと誘うように響く。
「そして――その大いなる救済を、帝国の悪しき理不尽をその手で直接叩き潰す役割を担う者こそが……。他でもない、あなたなのです」
「……あたし、が?」
シャウルがその不吉な言葉の意味を問い返そうとした、まさにその時。
それまで滑るように前進していたカリオペの足が、白石の床の上で、ぴたりと完全に停止した。
そこは大聖堂の、まさに中央。
アルキオネの全ての魔力の歯車が集束する、最も巨大で、最も神聖とされる大礼拝堂の真ん前だった。
シャウルが顔を上げれば、眼前に立ち塞がっていたのは、大人の身長の数倍はあろうかという、不気味な幾何学模様の彫刻が全面に施された、重厚極まる漆黒の金属製の大扉だった。
「さあ、到着しましたよ。私たちの、そしてあなたの新しい物語の舞台へ」
カリオペは歪んだ笑顔を瞬時に消し去り、再び厳かな聖母の佇まいで、大扉の前に立った。
最後尾にいたリラもまた、その扉の前に並び立ち、ヴェールの奥からシャウルの背中を静かに見つめる。
引き返せない境界線。
シャウルは、その重厚な扉の前で、自らの運命が取り返しのつかない深淵へと向かって動き出すのを、肌に刺さるような冷気と共に、ただじっと感じているしかなかった。
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