267話「何処より出でて」
白亜の大理石で築かれた長い回廊を、三つの足音が不揃いに叩いていた。
先頭を行くのは、純白の法衣を厳かに翻す最高司教カリオペ。そのすぐ斜め後ろを、栗色の髪を揺らしながら不器用な足取りでついていくシャウル。そして最後尾を、まるで主の影そのものであるかのように、一切の衣擦れの音すら立てずに追うリラ。
三人の間に、会話はなかった。
回廊の天井は高く、窓から差し込む夕闇の紫光が、彼女たちの影を白石の床へと長く、歪に引き延ばしている。
(本当に行くんすね、あたし……。お嬢様に何も言わずに来ちゃったけど、これで戦えるようになったら、きっと驚くっすよ)
シャウルは自らの手元で、剣を握ったこともない細い指先を何度も開いては握り締め、胸の奥で小さく跳ねる緊張を宥めるのに必死だった。
(へへ、いつも守られてばっかりのシャウルちゃんとは、もうおさらばっす)
そんな子供じみた期待に胸を膨らませる彼女の視界を、数人の信徒たちが足早に横切っていった。
見れば、回廊の至る所で、プレアデスの信徒たちが物々しい雰囲気を漂わせながら行き交っている。ある者は分厚い木箱を数人がかりで運び、またある者は普段の礼拝では用いない、鈍い銀色の胸当てを衣服の下に仕込みながら、足音を殺して大聖堂の正面方向へと走っていく。その顔つきは一様に硬く、まるでこれから巨大な外敵を迎え撃つかのような、殺伐とした熱を帯びていた。
だが、シャウルはその慌ただしさに、特に疑問を抱くことはなかった。
彼女にとって、このプレアデス聖教国という場所は、何もかもが自分の常識の外側にある異国だ。夕食前のこの時間帯に信徒たちがバタバタと走り回っているのも、何か大がかりな夜のお祈りの準備か、あるいは王国の特使団を迎えたことで厨房や警備が忙しくなっているのだろう、程度にしか考えていなかった。
路地裏で培われた彼女の"鼻"も、周囲の信徒たちから発せられる微かな焦燥の匂いを感知してはいたが、隣を歩くカリオペから漂う香油の匂いが、その小さな警戒心を完全に包み込み、麻痺させていた。
そんな静かな行軍の最中。
それまで前だけを見据えて滑るように歩いていたカリオペが、不意にその歩調を緩め、後ろを振り返ることなく、鈴を転がすような穏やかな声で問いかけてきた。
「シャウル様。……あなたは知っていますか? 私たちが畏怖し、同時に奇跡と呼ぶあの"姫"という存在が、一体どのようにしてこの世界へと生まれてくるのかを」
「……へ? "姫"、っすか?」
唐突に投げかけられた壮大な問いに、シャウルは歩きながら小さく首を傾げた。
"姫"がどのようにして生まれるか。
そんな高尚な魔法の起源など、ただの侍女であるシャウルに深く理解できるはずもなかった。けれど、これまでの旅の中で、主君であるノクティアやカノンたちが、夜のキャンプやグラスベル邸の書斎でぽつぽつと話していた、簡単な理屈の断片なら耳にしたことがあった。
「確か……あれっすよね。"聖典"っていう、すっごく古い本に眠っている力を、この国の凄い魔法で呼び出すんすよね? お嬢様が前に言ってたっす。自分たちの中に流れる物語は、ここじゃないどこか別の世界で、子供たちに読み聞かせるための御伽噺として伝わっているお話なんだって」
「……ふふ、ええ。その通りです。よく知っていますね、シャウル様」
カリオペは歩みを止めぬまま、愛おしそうな声音で頷いた。
「物語が記された"聖典"。それを用いることで、私たちはかの世に込められた、異世界の絶大な魔力をこの現世へと引き摺り出し、行使することができる。……その物語のプロットを魂に刻み込まれ、世界の理を書き換える特権を与えられた少女たちを、人は"姫"と呼ぶのです」
シャウルの脳裏に、これまでの戦いの中で目撃してきた、眩いばかりの強者たちの姿が次々と浮かんでは消えていった。
自らの主である、ノクティア・グラスベル。透き通る硝子を自在に操り、すべてを拒絶するように美しく舞う"シンデレラ"。
かつて連邦で目にした、鏡に映る虚像と共に駆ける、高潔にして苛烈な"白雪姫"。
"晶潮館"ごと、鏡の迷宮に飲み込んだ、悍ましき狂気の住人、"アリス・リデル"。
そして、雪国ガーランドをその絶対的な冷気で閉ざそうとした、悲劇の"雪の女王"。
さらには、今まさにこの大聖堂のどこかで、不敵な笑みを浮かべているであろうカノンに宿る、歪みに歪んだ銀の靴――"ドロシー"。
彼女たちが振るう暴力は、どれも常軌を逸していた。世界そのものを自分たちの都合の良いルールへと書き換えてしまう、神の奇跡に等しい力。
しかし、この世界の住人であり、路地裏の泥の中で今日を生き延びることだけを考えて育ってきたシャウルにとって、それらの物語が一体どんな内容なのか、どのような結末を迎えるお話なのかは、何一つ分からなかった。
「……らしいっすね。でも、あたしには正直、お伽噺の内容なんてさっぱりよくわからないっす」
シャウルは、気まずそうに頭の後ろをかきながら、正直な胸の内を吐き出した。
「お嬢様の戦う姿は、いつでも一番近くで、格好いいなぁって思いながら見てたっすけど……。その"しんでれら"ってやつが、本当はどんなお姫様で、なんで硝子の靴を履いてるのか、詳しいことは何にも聞いたことがないっす。あたしには、目の前のお嬢様が世界で一番大切だってこと以外、お話の理屈なんてどうでもよかったっすから」
だから、何を話されても、彼女にはそう返すしかなかったのだ。自分は只人であり、異界の物語とは無縁の世界で生きてきた人間なのだと。
シャウルの無学な、けれど直球な返答を聞くと、カリオペは今度こそ小さな足音を立ててその場に立ち止まり、くすくすと肩を揺らして優雅に笑った。
「ふふふ、それで良いのです。お伽噺の中身など、只人であるあなたが思い悩む必要はどこにもありません。……それでは、シャウル様。もう一つ、簡単な問いを投げかけましょう。……それらの"聖典"は、一体、どこからこの世界へとやってきたのでしょうね?」
「……? どこって、そりゃあ……」
シャウルは足を止め、丸い目をパチクリとさせて考え込んだ。
どこから、と言われても困る。ノクティアたちが異世界の物語だと言っていたのだから、元々はこの世界のどこを探しても存在しなかったお話のはずだ。
それがなぜ、このプレアデス聖教国という一つの国家に集まり、彼らがそれをまるで鉱山から鉱石を掘り出すかのようにして産出し続けているのか。
そんな世界の根源に関わる秘密が、ただのコソ泥上がりの侍女に分かるはずがなかった。
カリオペは、シャウルのその当然の無知を咎めるようなことは、一切しなかった。彼女はゆっくりと振り返り、その白いヴェールの隙間から、どこまでも深い、底知れない慈愛の双眸をシャウルへと向けた。
「……簡単な話ですよ、シャウル様。それをこの現世へと、意図的に"齎した者"がいるのです。かの世に満ち溢れる幾千、幾万の物語……人々の想念が生み出した歪なエネルギーを、一つの大きな束へと紡ぎ上げ、奇跡の揺籃のなかに詰め込んで、この地へと落とした……。そんな、神にも等しい絶対的な存在が、かつていたのですよ」
「外の世界の人が……その物語の詰まった箱を、ここに持ってきたってことっすか?」
シャウルは、カリオペの言葉を自分なりの言葉に噛み砕きながら、素朴な疑問を口にした。
「でも、なんでそんなことをしたんすか? 異世界の魔法なんてデタラメなもの、この世界に持ってきたら、あっちこっちで"姫"たちが暴れて、大変なことになるなんて、ちょっと考えれば分かりそうなものっすけど……」
シャウルのその純粋な、核心を突いた問いかけに対して。
最高司教カリオペは、すぐに言葉を返すことはしなかった。
彼女は、ただ静かに視線を巡らせ、回廊の壁面に穿たれた細長い窓の方へと、その美しい顔を向けた。
窓の外。アルキオネを包む夕闇は、先ほどまでの怪しげな紫色を完全に退け、今や底無しの深海を思わせる、冷徹な藍色の面積を急速に広げつつあった。プレアデスの夜が、完全に世界を支配しようとしている。
カリオペは、その藍色に染まりゆく天界の景色に、まるで自らの遠い、遠い過去を重ね合わせるかのように、しばらくの間、静かに見入っていた。
大聖堂の奥から吹き抜ける夜風が、彼女の白い法衣の裾をサラサラと揺らす。最後尾に控えるリラ・マイアもまた、ヴェールの奥で完全に気配を消し、その沈黙の劇を観測していた。
どれくらいの間が、流れただろうか。
世界のすべてが藍色の静寂の中に沈み込み、シャウルが自らの呼吸の音すら気まずく感じ始めた、まさにその時。
最高司教カリオペは、窓の外の星空を見つめたまま。
その優しく、けれどどこか世界の終わりの鐘の如き冷たさを孕んだ唇を、ぽつりと口にする。




